19 選択

ヴェロニィカの提案を、私は頭の中で咀嚼する。


 夕闇に棲む数多の霊。似ているように見える同じ種の霊でも、それぞれ個性があるし、同じままではいない。

 今、私の手の中にいる雪の霊のように、ふいに感情に目覚めたりして、何かの力を持つことだってあるのかもしれない。私への愛情が、霊の隠れた力を目覚めさせるとか、そんなふうにいうと物語みたいだけれど。


 ヴェロニィカは、そういう変異の保存を望んでいる。

 そのために、私に協力しろという。

 私に、霊を捕まえろと。捕まえて、このチェンバーに封じろと。霊の複製は残すから大丈夫だ、と。


 私は、雪の霊をしみじみと見下ろす。

 そして、つぶやく。


「……分からない」


「何が? 懇切に説明したわよ?」


 ヴェロニィカの問いに、私は首を振る。


「この霊と、さっきあなたが封じた霊は、本当に同じものなの?」

「同じだったとして、あるいは同じでなかったとして、それがあなたの判断に関わってくるのかしら」

「……それも分からないの」


 この、夕闇という曖昧な世界のこと。

 分かったつもりでいたけれど、まだ分からないことばっかりだ。

 

 ふたつの雪の霊は、同じものなのだろうか?

 小雪が修整した、あのトーチの足は、かつてのトーチの足と同じものなのだろうか?

 同じでないとしたら、修整される前と後、複製される前と後で、別のものなのだろうか?

 私は、何を持って、霊を、同一と見なしているのだろうか?


 同じでなかったとして、それが、私の心の動きをどう変えるのだろうか?


 下を向いて、眉をひそめる私を見て、ヴェロニィカは笑ったみたいだった。


「つまらないことを悩むのね。複製であっても、そっくりならば同じものは同じ、そして時を経るごとに変わっていく。同じであることの境目は曖昧なものよ、夕闇のように」

「……」

「たとえば、わたしがさっきの霊をあなたに預け、そこにいる複製を閉じこめたとしたら、あなたは納得したかしら? そのふたつに差異は存在するかしら?」


「そこに差異があるから、愛情に意味があるんじゃないか、って、そんな気がするの」


 原本と複製とを分けるのは、そこまでに積み重ねられた時間。他者との関わり。

 私を愛してきたそのものである、という過去の営為。

 つまりは記憶。つまりは愛情だ。


 私の口からこぼれたつぶやきに、ヴェロニィカは一瞬、はっとしたようだった。


 くすくすくす。

 長い笑いが、ヴェロニィカの口からこぼれる。


「なるほどね。愛とはなんともややこしい……でも、それを妾が必要としたのだし、無碍には出来ないわね。あなたの愛、あなたへの愛、尊重しなければね」


 ごめんなさい、と言い掛けて、やめた。

 これは私のわがままだが、そのわがままこそが必要とされているのだ。主張するのに、遠慮なんていらない。


 ヴェロニィカは、私のそんな気持ちの動きを見抜いたみたいに、じっと私の瞳をのぞき込む。


「でも、このままあなたを返すのも、癪だわね」

「力ずくでいうことを聞かせる? それとも脅迫?」

「そういうみっともないことはしないわ、女王の沽券に関わる」


 いいながら、ヴェロニィカはつかつかと私に歩み寄る。目の前に近づいてくる彼女のたたずまいは、以外に小さく、しかし、無視できない圧力をもって迫ってくる。

 そして、手の届く距離に達する。

 私はとっさに一歩退こうとするけれど、できない。足が凍り付いたみたいに動かない。


 見れば、ヴェロニィカの総身から、かすかな白い冷気が発している。

 それが私の足を、床に縛り付けていた。


「気づいたの。何より貴重なものは、あなたの特性とあなたの迷い、だってね。夕闇にはこれまでなかった、愛情の感覚」


 ヴェロニィカの細い手が、私の胸に触れる。


「だから、保存させてもらうわ。あなたの一部」


 ごん、と。

 鈍い音が響き渡ったような気がした。


 それが、私の中から生じた振動であることに、一瞬遅れて気づく。

 全身を循環していた流れが、突然停止した、その衝撃が、私の中に音として反響したのだった。


 次の瞬間。

 私の胸が。

 私の心臓が。

 氷の棺の中に閉じこめられて、ヴェロニィカの手の中にあった。


**


 自分の心臓を見つめるのは、不思議な感覚だった。凍り付いた心臓は、つい一瞬前まで動いていた脈拍をそのまま残しているみたいで、血管の凹凸が生々しい。

 私は、ぽっかりと穴の開いた自分の胸に触れてみる。そのうつろな風穴には、ただなめらかな内壁と、寒々しい空間があるばかりだ。血液だとか、空気だとか、生命にまつわる循環など、そこには存在しない。


 何もない胸の中をそっとなぞる。

 これが、夕闇にいるということ。


「愛の源が心臓なのかは分からないけれど。これ、保存させてもらうわ」


 ヴェロニィカはそう言い、私に背を向けた。踵を鳴らして、果ての見えない貯蔵庫の奥へと歩んでいきながら、私に手を振る。


「特別にも特別を重ねた部屋に、保管しておくからね。いつでも見に来ていいわ、あなたなら。あ、帰りはサルマニエルに頼んでちょうだいね」


 あまりうれしくない特別扱いだ。私は何を言う気にも慣れずに、しばらくヴェロニィカを見送っていた。

 ……自分の心臓なんて、いちいち、見に来たくもないと思うけどな。


 私は、文字通りぽっかりと空いた胸の穴を、いつまでもなぞり続ける。名残を惜しむように、あるいは、傷口のかさぶたをいつまでも弄くり回すように。

 肉のような熱もなく、皮膚のような弾力もなく、かといって断面は過剰につるつるしたりすべすべしたりいるわけでもない。なんだか、空気みたいな感じだけがある。

 本当にここに何かがあったのか、それすら、思い出せなくなりつつある。


「複製は? 戻してくれないの?」


 ヴェロニィカに問う声が、反響して消える。

 遠くから、きっぱりとした声が返ってきた。


「あなたのお友達に直してもらいなさいな。複製なんて必要ないでしょう?」


 ……ひょっとして、ヴェロニィカ、ちょっと怒っていただろうか。女王だし、臣民に逆らわれたら、そりゃ怒るかも。首をはねられたりしなかっただけ、マシなのかもしれない。


「……あの」


 声をかけられ、目線をそちらに送る。

 周囲に擬態するようなあのドレスから、目だけを外界に出して、サルマニエルがこっちを見ていた。ドレスの裾から彼女の手がのぞく。


「どこへ?」


 どうやら喋り慣れていなさそうなサルマニエルの問いに、私は答える。


「小雪のところに。まだ抱湖さんのとこにいるの?」


 サルマニエルは、ちらりと宙をあおぐ。彼女の頭上に、細かな鏡の破片が無数に生じる。そのひとつひとつが、おそらく夕闇の各所に通じて、その風景を観測しているのだろう。ああして、私たちをのぞき見ていたわけだ。


「修整所に」


 サルマニエルの答えに、私は「そう」とうなずくだけ。

 小雪は私の帰りをそのまま待ったり、探し歩いたりはしなかったようだ。そういうところが、小雪らしいのか。


 それとも、帰ってくると信じて、そこで待っていてくれるのだろうか?

 私たちの家で。


「……うれしそうですね」


 サルマニエルが、おずおずという。私はほほえんでうなずく。


「うん」


 サルマニエルの目が、満足げに細められる。

 次の瞬間、地面が鏡に変わる。夕闇の空の色が私の足下に広がる。


 そのまま落下する。一瞬、気の遠くなるような酩酊感が私を包む。その瞬間に私の感じていたのは、心地よい、満足だった。


 気づいたときには、私は夕闇に戻っていた。

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