17 雪の女王

 女王の部屋の扉を開けたとたん、凍てつく風が吹き付けてきた。


「ひゃっ」


 突然の冷気に私はのけぞり、とっさに目を閉じて顔を覆う。

 次の瞬間、風がやんだ。私は思わずつんのめって、部屋の中に踏み込んでしまう。


 ドアが、大きな音を立てて閉じる。

 はっとして振り返ると、小柄な風の霊が扉を引いている。ぎゅっ、ぎゅっ、と雪を踏むような音をさせながら、扉をきっちりと閉じて、楽しそうにぴょんぴょんと跳ねる。

 肩の上で、冷たい気配を感じる。雪の霊、ついてきちゃったんだな……くるくると回転する雪の霊は、どうやら相当混乱しているようだ。その動きが、吹雪のような小さな渦を巻き起こす。


「いらっしゃい、ハナちゃん!」


 と、部屋の中央から、私を呼ぶ声。ぴきん、と、霊が文字通り凍りついた。ちっぽけな手の先っちょに、氷柱がぶら下がる。


 振り向けば、そこには玉座。

 そのやわらかな背もたれにうずもれるように、深々と座っているのは、玉座に似つかわしくない小柄な女の子だった。


 小さな頭に斜めに載せた銀色の王冠には、青白く光る大小の宝石が無数にあしらわれている。わずかに首をかしげて、にんまりとした勝ち気な笑みを浮かべ、青い瞳で私を見つめている。

 白いガウンは椅子の下まで届くほど長い。その裾には、四角形や六角形を組み合わせた、雪の結晶のような意匠が刺繍され、複雑な幾何学模様を形成している。その内側にのぞく赤いドレスは、貴種と言うより、ゴシックロリータのコスプレめいて見える。

 椅子の上で立て膝をして、ブーツを履いた右足をぶらぶらさせながら、彼女は言う。


「来てくれてありがとうね、歓迎するわ」


 ほぼ無理矢理連れてこられたのに、ありがとう、って。

 彼女にとって、感謝なんてのは、そんな形式的な意味にすぎないのだろう。


「はじめまして……あなたが雪の女王?」

「ヴェロニィカと呼んでちょうだい。気安く、友達みたいにね」


 友達になろうって人は、そんな主張はしないだろう。


「どうして私の名前を知ってたの?」

「夕闇に訪れるもののことは、だいたい見ているわ。それが人の転生なら、なおさらね」


 雪の女王、ヴェロニィカは不敵な笑みを崩さない。


「低級な霊や妖怪と違って、人から移った化生は強い霊力をはらむ。小雪から聞いていないかしら? ……そして、中でも、あなたの力はわたしにとってとても重要なものになると確信した。だから、わざわざニーナを使わしてまで、ここに来てもらった」

「重要?」

「その話は後にしましょう。すこしはくつろぎの時間も必要だわ。あなた、今日はずっと動きっぱなしなのでしょう? 文車ふぐるまやら画霊がれいやら、ずいぶん慌ただしかったみたいじゃないの?」

「……いちいち覗き見の報告なんかしなくていいよ」


 さすがにちょっと苛ついてしまった。私の時間を勝手にのぞき込まれるなんて、あんまり気分の良いことじゃない。


 ぷっ、と、女王は噴き出した。


「覗き見の出来る妖怪なんて、夕闇にはたくさんいるのに。そんなの気にしてたら、暮らしていけないわ。繊細ねぇ」


 最後の言葉の響きだけ、気安さを強調するみたいにちょっと砕けていた。それとも、こっちが女王の素だろうか?


「どうせ小雪は茶も出さなかったんでしょう? 休みは入れなくては、ね」

「ティータイムでもあるの? 夕闇にも」

「もちろんよ。妾がそうと決めれば、それがティータイムだわ」


 そう告げた次の瞬間、ぴきん、と、琴の音色が室内に響く。


 目の前に、テーブルと椅子が出来上がっていた。

 椅子の足をつかんだ風の霊が、私の方を見ながら椅子をかたかた揺らしている。どうやら、私に座って欲しい、ってことか?


 その様子を見、女王が目を細める。


「ほんとう、愛されてるわね。妬けちゃうわ」


 ちらり、と、彼女の鋭くつり上がった視線が、私の肩に乗っかって固まったままの雪の霊を突き刺す。


「普通の霊はね、妾の許しを得ないとここまでは来れないのよ。でないと、妾の霊気に怯えて、逃げ出してしまう。あなたのその魅了の属性に感化されてしまった、というわけ。とてもとても、面白い」


 座って、と、ヴェロニィカは私を促す。

 私はそれに従って、椅子に腰を下ろした。あたたかな椅子のクッションが私の身体を支える。氷ッ城とはいうけれど、ここだけは人肌、というのもなんだか不思議な感じ。

 目の前には、シックなカップになみなみと注がれた紅茶。どこか懐かしいような、真っ赤な太陽に似た色をした紅茶は、うっすらと湯気を立てている。


「心配しないで、毒でも冷たくもないから」

「……そう」


 そっと両手でカップを抱えて、ひとくちすする。


 夕闇に来てから、味のするものを口にした覚えがなかった。

 胸を締めつけられるような、哀しいような。


 自分がもう、ほんとうに、かつての自分に戻れないと言われているような。

 夕闇の街にいるというのは、こういうことだ、と、今さらながら思い知らされたような気がした。

 胸を通り抜けていくかすかな熱が、痛みすら感じさせた。


 カップを、置いた。湯気が私の目の前で、ふわふわと、幻のようにたゆたっている。

 その前を、雪の霊が、不安げに通り過ぎる。湯気が氷の粒に変わって、ひらひらとカップのそばを落ちて、消える。

 雪の霊の、色紙でも貼り付けたように作り物めいた顔が、私を気遣うように見ている。


「……ありがとう、平気だよ」


「本当に不思議だこと。あなたの何が、ただの低級霊を、そこまで変えてしまうのかしら」


 つぶやいて、ふいにヴェロニィカが、一呼吸で玉座から身を起こす。

 そして目にも留まらぬ早さで、テーブル越しに私の目の前に手を伸ばす。


 がっ、と、雪の霊の頭をつかんだ。


「あなた、貴重な標本になるわね」


 甲高く、耳障りな音が、部屋に響き渡る。


 一瞬後。

 霊の体が、氷の塊に閉じ込められていた。

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