15 ニーナ・マロース

 つい一瞬前まで抱湖ほうこのアトリエにいたはずの私は、吹雪の吹きすさぶ丘に立ち尽くして、唖然としていた。

 今、私、ニーナに鏡を見せられて。

 気がついたら、この、雪と風に包まれた世界に……


 ていうか寒っ! 何なのここ!


「さあ、こっちよ。いらっしゃい」


 吹雪の奥からニーナの声がする。見れば、真横に舞う雪の向こうに、あの赤いパーカーの後ろ姿が見えた。いや、いらっしゃい、って言われても。


「ちょ、ちょっと、待って! 私、こんな雪の中、歩いたこともないのに」


 積雪の中に一歩足を踏み出すと、ずしっ、と音を立てて足が沈む。革靴の隙間から雪が踵まで侵入してきて、気持ち悪い。足を持ち上げ、一歩進むだけで、ふらつきそうになるほど。

 ニーナは慣れた様子ですたすた進んでいく。足跡すら残っていないということは、浮遊したままなのか……ずるい。


 あっという間に視界が雪に覆われ、一寸先も見えなくなる。

 手足が急速に冷えて、痺れてきて、次第に感覚そのものがなくなっていく。


 おぼろげな視界の中で、笑い声のようなものが聞こえる。人をあざけるのでも、誘うのでもない、子どもが喧しくはしゃぐような声が、私の周囲を反響している。


 真っ白な着物をまとった長い髪の女が、飛び回っている。

 足下を、無数の雪達磨ゆきだるまが這い上がってくる。


 遭難者の見る幻のようでもあるけれども……


「……ああ、もう!」


 私は、吹きすさぶ雪と風を見すえて、冷気に痺れる喉を懸命に開いて、叫ぶ。


「あんたたち、ちょっと退いて! 歩けないじゃない!」


 とたん、あたりを支配していた暴風が、急に凪いだ。地面から舞い上がっていた雪の勢いも衰え、視界が開ける。前の方を歩いていたニーナの背中が、ちらりと見える。

 そして、吹雪のずっと奥にわずかに見え隠れしていた、白亜の城の姿がはっきりと見える。白壁で囲われた尖塔と、砦のように長く続く城壁の内で、威容を誇るそれは、孤絶すら感じさせる気高い古城だった。

 あれが女王の氷ッ城こうつき……つまり、ここは小雪たちの言っていた結界の中か。

 どうして、私をここに連れてきたんだろう?


 ひゅっ、と、目の前をひと筋の風が吹く。

 その風が私のそばでつむじ風になり、つかのま、ヒトの形を為す。

 吹雪、というより、風の霊エアリアルか。吹きすさぶ嵐の勢いと裏腹、私の前でゆらゆらと震えている、着物を羽織った青ざめた霊の姿は、ひどく頼りなく見えた。


 足元をくすぐる気配に、下を向くと、白い帽子をかむった小柄な霊がまといついている。雪玉をふたつ合わせた胴体から生える細っこい手足で、私の足首をつかんだり、つま先をつついたり、スカートの中によじ上ろうとしている。


「こらっ」


 叱責すると、雪の霊は一斉に私の足から転げ落ちて逃げていく。とんがり帽子を落として忘れていくあたりの慌てぶりが、子どもっぽい。正直、このやんちゃさのせいで私、死にそうな目に遭っている気がするので、あまり洒落になっていない。


 ……でもまあ、これが彼らなりの愛し方かもしれない。発露の仕方を間違えた愛情は迷惑でしかないんだけれども、まあ、愛は愛だ。


「ごめんね、君たち。ちょっと退いててくれる?」


 周囲に群がる雪の霊と風の霊に、呼びかける。と、霊たちは私の前からさーっと消えて、まるで伝説みたいに、吹雪と積雪を引き裂いて、道が出来る。


 ……いや、一体だけ。私の足首に、小さな雪の霊がしがみついている。逃げ遅れたのか、よほど私に執着があるのか。

 私はそのちっぽけな雪の霊を、両手ですくい上げる。三角帽子をかたむけて首を左右にぴょこぴょこと振る雪だるまの様は、ちょっと無碍に出来ない。

 その一体だけを、肩に載せた。


 一、二度、目の前の土を蹴るように踏む。湿ってはいるけれど、歩くのに支障はない。

 顔を上げれば、視線の先には、城の高い尖塔のてっぺんが雪に霞んでいる。そちらを目指し、私は歩き出す。


 歩を進めながら辺りを見回すが、周囲はただ白い世界が広がるばかりだ。雪と風が遠くで吹きすさぶ、低い響きがずっと轟いている。

 冷たくて、寂しい。

 空は灰色なのに、降り積もる雪は白くて、かすかな陽射しをぎらぎらと反射している。その明るさは、あまりに空々しい。

 夕闇の街とは似ても似つかない世界だ。


 どうして、私はここに連れてこられたんだろう?


「思った以上ね」


 道の先で、ニーナが私の方を見て立っていた。かるく上半身を反らして、わずかに見下ろすような目線をこちらに向けて、微笑している。


「霊に愛されている、と聞いていたけれど、これほどとはね。この城の吹雪を部分的にでも収めるなんて、このあたしでも初めて見た」

「そうなんだ?」


 ぴんとこない私を、ニーナがにらむ。まぶたをぴくりと震わせる表情は、敵意。


「女王があなたに目をかけるのも分かるわ。野放しにしておいたら、城に害を及ぼしかねない。身内に引き入れた方が得策だものね」

「はあ……」

「女王に従うか、反旗を翻すか。身の振り方を考えておくことね」

「私、まだ夕闇に来たばかりなのよ。右も左も分からないのに、そんなこと言われても」


 ニーナは、ぷい、と背を向けて城の方へと歩き出す。私はその背中を追いながら、すこしため息をつきたくなる。

 敵か味方か、みたいな堅苦しい思考は好きじゃない。そういうのは、結局、誰かを排除するための考え方だから。

 そういう陣取りゲームにうんざりして、私は逃げ出したんだ。


 ……まあ、それは、昔の話。

 なるようになる。収まるべき位置に収まる。それが、小雪に教わった夕闇の考え方。


「……何か喋れば?」


 パーカーをふわっと揺らして、ニーナが半眼で振り返った。


「ああ、ごめんなさい。自分から話すの、苦手なの」

「あなた、ずっとそんな調子なの? 夕闇に来てから」


 ニーナはほとんどあきれたような顔で、首をひねる。


「今だってそう。雪の中に置き去りにされて死にそうになって、文句ひとつ言わないんだから」


 そういやそうだ、と今更、言われて気づく。私が雪に慣れてないのは見え見えだったのに、ニーナは私をおいて先に行ってしまった。

 本当に置いていこうと思ったんじゃないだろう。たぶん、私を試したのだ。この吹雪をいかに乗り越えるか。


「霊の相手するだけで精一杯よ。怒る余裕なんてない」


 私としては、それが本音だ。吹雪を押さえたとはいえ、寒いのに変わりはない。怒る元気なんてない。トーチか叢原火そうげんびでも連れてこれたら良かったんだけど。

 ここにいるのは、雪の霊が一体だけ。肩の上で、ひんやりと霊の気配がする。


 ニーナはいっそう、険しく眉をひそめる。負けん気の強そうな面差しに、ぎゅっとしわが寄ると、いっそう強面だ。


「いきなり身も知らない場所に連れてこられて、泣きわめいたり暴れたり、文句も言わずに、他人にくっついてくるだけ。そのくせ、霊どもは平然と従えてる。馬鹿なの? それとも大物なの?」

「別にどっちでもないと思うよ」

「……ああ、そう。あたしなんかには測れない、と、そう言いたいわけね。生意気」


 ううん、何か勝手に拡大解釈されてるなあ。まるで、ヒトを最初からそういう穿った目で見てる、みたいな感じがある。

 こういうヒトに何か言い訳しても、通じないんだよね……


 でも、だからって、こういうことをつまらないまま放っておくのは、なんだかイヤだ。

 それは夕闇の流儀ではない。


「喧嘩売ってるみたいに思われてる? ひょっとして」

「喧嘩するようなレベルの相手だとは思ってない。ただ、わけがわからないってだけ」

「……そんなに分からないかなあ?」

「あんた、自分じゃ分かんないかもしれないけど、変よ。心のどこかが、死んでるみたい。どんな冬の住人だって、感情は死んだりしないのに」


 ……そうなのだろうか?

 全然ぴんとこない。確かに、気持ちをいささか押し込めがちな性格で、もっと図太くなれ、ってさんざん小雪に言われてるけど。

 喜怒哀楽の感情の何かが欠けているとは、思ったことがない。


 それは私の心の、冷え切った部分なのかもしれない。凍り付いて、固まって、温度もなくて、だから触れようにも所在が分からない。


 ただ、分かることは。


「そういうこと、ちゃんと教えてくれるんだ。ありがとねニーナ」

「はあ?」

「本気で敵だと思ってる相手に、そんなこと言わないでしょ?」


 ほんとうの敵、ほんとうの悪意は、隠れて襲ってくる。取り繕った笑顔と偽善の態度の陰から、突然牙をむいて人を陥れて傷つけるのだ。

 一方で、敵だ、嫌いだ、って顔をしている相手が、とつぜん親身なアドバイスをくれたりする。


 ニーナは一瞬、ぽかん、とした。険のあった表情が、つかのま消えて、彼女の素の顔が見えた気がした。


 そして、彼女ははじめて、ちゃんと笑った。呆れかえったような、苦笑だったけれど。


「……わかった、あんた、ただの変な奴ね」


 肩をすくめたニーナと、苦笑を返す私。

 その目の前には、巨大な城の門がそびえ立っている。

 ここが、女王の氷ッ城。

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