14 結界

 氷ッこうつき、という単語を抱湖ほうこが発した瞬間に、小雪はひどく険しい表情をした。眉間にしわを刻み、唇の端を引きつらせた、歪んだ小雪の顔に、私のほうが驚いてしまう。

 体の痛みなんかに縁のなさそうな小雪が、そんな、さしこむ頭痛に耐えるような顔をするなんて。


「あいつの結界?」


 訊ねる小雪に、抱湖はうなずきを返す。

 罅の入った、蒔絵の硯箱の表面を、そっと指先でなぞる。抱湖の細い爪の先が紅色の花に触れて、ぷつっ、とかすかな音を立てる。


 気になって、箱の中をのぞき込んでみる。

 そこには、まるで夕闇の街の光景を模したような、ジオラマが広がっていた。真ん中には逆流れの河の流域があり、その左右に旧街ふるまち新町しんまちがある。周囲を覆っているのは深緑に染まる山々と、夕闇の色の内壁――これが天幕だろうか。

 それにしても、良く出来たミニチュア……


 そう思って眺めていると、その街の中で、何かが動いた気がした。

 ヒトが歩いてる? それとも、霊?


 この街は、夕闇の街そのものなのだろうか?


「心配せんでも、こちらから手出しはできんよ。しょせんは写し絵に留めておるでな」


 私がちょっと引いているのを見てか、抱湖はそう言った。


「己の箱庭を、そのまま箱に仕立て直そうという趣向じゃろうな。まあ、儂もそういう趣味は嫌いでないし、せっかくだ、と引き受けてみたものだが……」


 彼女の指が箱の外枠、細く入った罅に引っかかる。


「どうやら、うまく使われたらしいな。これは写し絵で、それゆえいまをうまく照射する。すなわちこの罅も、街に入った罅ということじゃな」

「つまり、結界に罅が入っている?」

「そのようじゃな。それを察知するために箱を作らせたのじゃろう」

「で、それを見てどうしろっての?」

「さあ? そこを何も言わずにおるのが、あやつららしいよ」

「ったく、あそこのお偉い女王どもは……」


「結界、って? 女王って何?」


 抱湖と小雪の会話に、たまらず口を挟む。知らない言葉がぽんぽん出てきて、話について行けてない。

 あっ、とふたりが向き直る。


「ごめんねハナちゃん、つい」

「すまんね、新しいの。こういう厄介事は夕闇でも珍しいんでな、少々気が逸ってしもうた」


「ううん、ごめんなさい、話の腰を折っちゃって。それで……」


 私が恐縮するのを、小雪は頭をぽんと叩いて諫める。遠慮するな、ってことだろう。ほんの1日で何度も言われたことだから、何となく伝わってくる。


「氷ッ城は、夕闇の街のすぐそばにある。そばにあるけれど、目に見えないし、触れられない」

「どういうこと?」

「さっきも言った、結界ね。夕闇と氷ッ城が干渉しあわないよう、自分たちの存在を結界の内側に閉じこめているの。夕闇は黄昏と夕陽の世界だけれど、氷ッ城は吹雪と白夜の世界だから」


 すっ、と、小雪は空中を左手でなぞる。つかのま宙に残った白い指の軌跡が、そこにキリトリ線を刻んだかのように思える。


「触れられないけれど、すぐそばにある。氷ッ城と夕闇は、そういう関係。そのふたつを隔てる結界も、だから、どこにでも存在する」

「じゃあ、その結界に罅が入ったら、どうなるの?」

「街に罅が入るのと同じこと。あるべき道が塞がり、立つべき地も崩れる」


 ……ひょっとして。

 さっき、旧街の途中で突き当たった、あの見えない壁。あれが、結界の罅?

 あんなものが街のそこかしこに立ちふさがったら、なるほど、迷惑きわまりない。


「結界なんてなきゃない方がいいんだけどね、壊れたらこうして迷惑になるわけだし。まったく、あの女王様のわがままのせいで」

「女王様っていうのは……」

「城の天守に居座る、雪の女王様。その名も」


「女王の名をみだりに口にするのはだぁれ?」


 突然、鋭い声が部屋を貫くように響いた。氷のように冷たく、鉄琴のように澄んだ、美しい声。


 振り返れば、いつのまにか、部屋の窓が薄く開いている。その向こう。


 アカガネが端正に整えていた庭木の合間を、白い風が吹き抜けていた。雪と、氷と、そして冷気そのものが織りなす、真っ白い風。

 夕闇を浸食するその吹雪は、見るからに不吉な気配を漂わせる。


「……スネグーラチカか」


 ぽつりと小雪が言う。

 くすくすと、笑いが返ってくる。


「そうよ、冬の使い、吹雪の担い手。そして今は女王のみ使い」


 窓の隙間から、ひゅうっ、と音を立てて、風が吹きいる。

 白い風は瞬く間に、部屋の中央で渦を巻き、そして、あっという間にヒトの姿を成した。


 勝ち気な表情をした、美少女だった。

 首元で斜めにカットされた銀髪を、白い風になぶらせて、彼女は目を細める。赤いパーカーはやけにフードが大きくて、ぱたぱたと背中で揺れている。下は足首まで覆うような長くて裾の広いズボンに、分厚いブーツを履いている。


 床から数ミリ浮いたまま、彼女は「ごきげんよう」と、慇懃無礼に頭を下げる。私をちらりと見て、ほほえむ。


「ニーナ・マロース。小雪の言うとおりのスネグーラチカよ。ジェド・マロース……一般に言うところのサンタクロースの、娘ってところ」

「反発して親元をおん出てきた不良娘よ」

「親の話はそこまで」


 ぴしゃり、と彼女、ニーナは言い放った。どうやら、あまり触れられたくない話題らしい。あんまり有名な存在の娘っていうのは、それだけでなにやら苦労がありそうだった。

 小雪は肩をすくめて、ニーナの目を見据える。


「ちょうどあんたのご主人の話をしてたとこ。聞き耳でも立ててたのかしら?」

「そんなに暇じゃあないの。こちらもちょうど、あなたの所の新しい客のことを知りたいと思っていたところよ」

「私?」


 不意に自分が話題に上ったので、きょとんと声を上げてしまう。ミラは私を一瞥、右目だけわずかに細める挑発的な仕草。


「あなたのその資質、女王がたいそうお気に召したようでね」

「連れてこうってわけ? まさかハナちゃんをさらうために結界に罅を入れたの?」


 小雪が私の前に立ちはだかり、ニーナをにらむ。あきれたように、ニーナは嘆息。細い吐息が白くたゆたい、あっという間に氷の粒に変わった。ぱらりと畳の上に落ちて、消える。


「そんな大袈裟なことしなくても、ヒトひとり城に呼ぶくらいなら赤子の手をひねるようなもんよ。結界の問題はただの偶然。それについちゃ、うちの手下も調べを進めてる。ああ、大丈夫よ抱湖。あなたに咎はないわ」

「当たり前だ、巻き込まれたらかなわんよ」

「それよりもそっちの新入りの子よ。縹、といったかしら?」


「……いつの間に名前を?」

「やっぱり聞き耳立ててたんじゃないの?」


 首を傾げる私と、喧嘩腰にニーナにくってかかる小雪。ニーナは私にだけ笑いかける。


「女王は歓心あることならすぐに知りたがる。欲したときには、すでに知っているのよ、あなたのことも。そして、手に入れたいと願ったら、すぐに手に入れる」


 ニーナはそう言いながら、背中のフードに手を突っ込む。

 その中から、異様なほど大きな平たいものが、姿を現した。


 はっ、と小雪が息をのむ。


「ハナちゃん見ちゃダメ!」

「まあまあ、そんなに毛嫌いすることないのに」


 小雪の声に、私が視線を逸らす直前。

 すい、と、ニーナは私の前にそれを差し出した。


 そこにいるのは私?

 違う、鏡だ。

 とても大きくて透明で、実像と区別の付かない鮮明な鏡像。その中には、私と、白い雪……


「え?」


 気づけば。

 私は、肌寒い冬の丘に、立ち尽くしていた。

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