10 旧街

 旧街ふるまちの入り口は、新町の門前よりずっとおどろおどろしかった。


 マキナの家を辞去して新町を出、逆流れの川にかかる橋をまた戻った先の左手に広がっているのは、木造の家屋がひしめき合う旧街の一角。

 互いが互いの柱を押し合い、壁をへし合うようにして建ち並ぶ家々は、それら全体できわどい均衡を成り立たせているような雰囲気があった。すべての家々が思い思いの方向に倒れようとしていながら、その傾きが偶然打ち消しあって、それぞれを支え合っている。

 それはむしろ有機的で、生きた細胞に近い有様のように思われた。


「そういえば、その絵描きのヒトの家、住所はわかるの?」

「番地なんて当てにならないよ。旧街はすぐに様子が変わっちゃうから」


 小雪は憮然と首を横に振る。

 でも、それならどうやって目的地に着けばいいんだろう?


「まあ、名前がわかるんだから、呼べば答えも来るでしょ」


 言って小雪は、さっき受け取った葉書をくるりとめくる。表面に”純名じゅんな 抱湖ほうこ”と雅号めいた名前が記されていた。裏面の達筆そのまま、今にも崩れそうでぎりぎり読める程度の、なんというか、芸術的な字だ。


 小雪は、欠けた右手の薬指のあったあたりを軸にして、葉書を団扇よろしくパタパタさせる。


「ハナちゃん、手、つなぐ?」


「え?」


 いきなりどうしたの?


「や、一応ね。旧街ははぐれやすいから、手をつないでた方が確かだから」


 小雪の言い方には緊張も焦りも何もなく、事務的な響きだった。必要だから、手をつなぐ。それ以上の意味なんて何にもないのだろう。

 だって、小雪の右手は本物じゃないんだから。形を取り繕っただけの、ただの張り子。


 そんなものと手をつないだところで、きっと、安心できない。


 だから私は首を横に振る。

 手をつなぐ代わりに、ずるずると長い白衣の裾を無造作に握りしめる。


「これで十分でしょ?」

「……うん、まあ」


 小雪は、うなずくような、首をひねるような、曖昧な仕草で応じる。

 そして、ひしめき合う家々の隙間にわずかに存在する、細い路地へと目をやった。


 かろうじてヒト一人が通れる、というくらいの、狭苦しい路地だ。境目を区切るように、足下の側溝に他とは色の違う黄色い羽目板が乗っけられている。何度も踏みしめられたのか、真ん中にひびが入っていた。

 夕闇の赤い陽射しも、路地には、ほんのわずかしか差し込まない。奥は、ただただ黒い影に覆われている。

 向こうから、わずかに、獣の吠えるような声がした。何かいるのだろうか?


「取って食われやしないよ。安心して」


 小雪がそう言うなら、まあ大丈夫なんだろう。信頼する以外に方途はない。


 小雪はすたすたと、路地に入っていく。私もあわてて、それについて行く。羽目板を踏んだ甲高い音が、私の耳を一瞬ふさぐ。


 路地は、まっすぐに延びていた。背後からうっすらと赤い陽射しがさして、私たちの手前だけをどうにか照らしている。手を伸ばせば、その指先はもう闇の中、という雰囲気だ。

 進んでいくと、路地の奥にはそこかしこに分かれ道があって、分岐の入り口にはうっすらと光がさしている。みれば、板塀で仕切られた路地に、目印のように銀色の街灯が設けられているのだ。街灯には、蛾や虻のような虫がパタパタと衝突し、路地の静寂を乱している。


「恐くないよ、あの街灯も霊だし。ジャック・オー・ランタン」


 小雪は歩きながら、私の方をちょっと振り返ってそう言った。


「あのカボチャの奴?」

「昔はそういうのが多かったらしいね。近頃はおおかたあんな感じ」


 手前のジャック・オー・ランタンの頭、というか街灯の部分が、ぶるんぶるんと上下に揺れた。


「こっちに来い、って言ってるみたい」

「らしいね」


 手元の手紙と道順を見比べながら、小雪は私に微笑みかける。


「あいつら、基本はいたずら好きなんだよ。素直に道案内してくれるなんて、やっぱハナちゃん好かれてるってことだね」


 小雪の言葉に、街灯がぱちぱちと点滅して、真っ白だった光がうっすら青みを帯びる。同意、を示しているように見えた。

 霊に好かれる私の性質、こんなところでも生きるらしい。


「こいつらが助けてくれるんなら、行き帰りも楽ちんかもね。ハナちゃん様々だよ」

「なんか拍子抜けしちゃう」


 事前にさんざん脅かされたから、旧街ではよっぽど大変な目に遭うのでは、と想像していたんだけれど、どうやら、たいしたことはなさそうだ。

 いろんな霊が味方になってくれて、私、きっとすごく助かってるんだと思う。


 そこかしこに点在する街灯は、ついたり消えたり、赤くなったり青くなったりしながら、私たちに道順を教えてくれる。私と小雪は、その指示に従って、旧街の路地を進んでいく。

 少し観察の余裕ができたので、あたりを見渡す。路地はでこぼこの板塀で囲われていて、塀には古びたトタンの看板や破れたポスターなんかが貼られている。塀と塀の間に、たまに人の住んでいるとおぼしき建物の姿がのぞいたりもする。ふと一軒の家を見上げれば、人気のない二階の割れ窓の片隅から、誰かの視線がこっちを見ていた。ごめんなさい、と内心でつぶやいて、目をそらす。

 私が見ているってことは、向こうもこっちを見ていることでもある。冷や冷やしてしまう。


 視線を前に戻す。白衣の裾が、薄ぼんやりと街灯に照らされて淡い黄色に光っている。それはまるで蛍の火のように、どこか懐かしいような、切ないような感覚をもたらす。

 こうして、誰かの後ろを歩くのは、安心だった。ヒトと同じ方へ歩いて、同じように行動して、それさえできていれば大丈夫だった。守られている、と思えた。

 だから私はこうして、また、白衣の裾を引っ張って……


 裾は、ぺらり、と私の指先で垂れる。

 その先にあるはずの白衣、そして小雪の姿は、どこにもなかった。


「えっ?」


 私は、指先で力なくぶら下がっている、その三角形のうす汚れた布を何度も何度も振ってみせる。マジックみたいにそこから小雪が飛び出してこないか、と、つかのま本気で思った。

 だけど、布はただの布でしかなかった。

 いや、ただの布でさえなかった。


 汚れた布は、それ自体が羽になって、空を飛んだ。近くのジャック・オー・ランタンの街灯めがけ、一散につっこんでいく。

 ぱちん、と、光にぶつかって、はじけて消える。


「……化かされた?」


 私は呆然と足を止める。


 少しの間、油断しただけだ。ちょっと辺りを見回し、一瞬、小雪から注意を逸らしただけ。

 その、ほんのわずかな隙のせいで、私は小雪を見失った。


 ……やっぱり旧街は、夕闇の街は、油断ならない。


 私は辺りを見回す。私の真上で、街灯が赤く灯っている。さっきの小さな布にぶつかられて、怒っているようにも見えた。

 路地は、どこを見ても真っ暗だ。かろうじて点々と灯る白い街灯の光が、道をわずかに照らしているだけ。舗装されていない道は、灰色の砂利ででこぼこ。歩を進めるのさえ心許ない。

 看板の、眼鏡をかけた男の笑顔が、錆のせいで奇妙にゆがんでいる。


 ぱちん、と、街灯が大きな音を立てた。一瞬、路地が静まりかえる。


 静けさの中に、私は立ち尽くす。

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