7 新町
夕闇の街に出て、大路を歩き、橋を渡る。
さっきは水の霊がド派手に出迎えてくれたけれど、今回はおとなしいものだった。川の流れは悠々としていて、せせらぎがあたりの空気におだやかな印象を与えている。本来は、この辺はこういうのんびりした区画なのだろう。
「近頃は、逆流れも静かなもんだよ。昔はその名の通り、ときどき逆流してね。そうなると洪水になってこの辺がすっかり更地になったりしたもんさ」
「意外にダイナミックですね……」
「夕闇にしてみれば、せいぜいクシャミみたいな変化だよ。そのうち、ハナちゃんも逆流れを見ることになるかもね」
私は橋桁の下をのぞいてみる。水面はおだやかで、洪水の気配なんて感じられない。けれど、深い水をたたえた川の底は、暗く、黒く、見通せない。水の奥から、呼び声が聞こえてくるような錯覚。
私の視線を感じたらしく、水の上に何かが飛び出して、手を振った。薄緑色の肌をして、指の間に水掻きを張っているそいつは、川面をすいすいと泳ぎながら笑いかけてくる。
私もちょっと手を振って、橋を渡った。
「そこが新町」
小雪がそう言って指さしたのは、大路の片側の土地に広がる整然とした家並みだった。
大路に面しているのは、漆喰塗りの倉を持つ大きな商家らしき建物。金看板には屋号しか書いてないし、軒先に品が並んでいるわけでもないから、何を売っているものかも判然としない。その隣は、長椅子と机を庭先に出した茶屋らしきものがあるが、これまた何が売り物なのやら。
なんだか、商売の真似事をしているだけって感じ。
「こっち」
小雪に手招きされて踏み込んだ路地の奥は、涼しげな風が吹く心地よい空間だった。ふわっ、と私の頬を風がなでていく。
「わっ」
一瞬、ぬるい手に触れられたようなねっとりした感覚に、びっくりして身を引いてしまう。顔を振り向けると、上半身だけの半透明なヒトの姿をしたものが、ひゅうっと路地裏に消えていくのが見えた。
「ありゃあ
こちらに顔を寄せて、小雪は左手でちょっと私の額に触れる。意外と温かくて、一瞬、心地よさを感じる。
小雪の目が、近い。
「う、うん」
「風の霊は、
小雪はすぐに手を離して、私の前をすたすた歩いて行く。つかのま、私は突っ立ったまま歩き出せない。
「ハナちゃん?」
「あ、ごめん」
私はぱたぱたと、小走りに小雪の後を追う。
逆流れの川から引き込まれた水路に、大小とりどりの木の橋が架かっている。水辺の長屋が、川に沿って縁台を張り出している。欄干に肘を持たせかけてたたずむ和装の女性が、こちらを一瞥して微笑みかけた。私はなんだか照れくさくて、うつむいてしまう。
「この奥だよ、ハナちゃん」
小雪に誘われるまま、水路を離れて、わずかに湾曲した路地を進む。計画も何もなく、思うがままに建て増しされたような街は雑然として、ふとした瞬間に道を見失いそうになる。
夕闇の街では、空の景色も変わらないし、方角の目印もないので、こういう微妙に曲がった路地を歩いていると方向感覚がつかめない。ちょっと頭がくらくらしてくる。
このくらいは、夕闇の街では迷ううちに入らない。そうは思っても、ちょっと不安だ。
「ねえ、小雪」
「ん」
小雪が振り返る。顔のほとんどを覆い隠すような長い髪の奥で、表情のない視線が、私を見ている。
「……」
手をつないでもいいか、と、訊こうとして、私は口ごもった。不躾で、失礼なことに思えた。
小雪の右手、指先に巻かれた包帯、そして包帯の下から垂れ落ちたあの液のことを思い出す。トーチの足をつないだ糊。それは、彼女の「修整」に欠かせないものに違いない。
その上に、私の手を触れさせることは、何か、はばかられた。
「……ごめんなさい、何でもない」
私が首を振ると、小雪も何も言わずに前に向き直った。その後ろ髪のたゆたう様は、私に、ひどく名残惜しい感情を呼び起こす。
……せめて、白衣の裾を引くぐらいは、してもいいだろうか?
と、私が迷っているうちに。
「ほら、ここ」
一軒の家の前で、小雪が足を止めた。
一目見上げて、私は、はあ、とため息のような声を発した。
「……納得」
その家は、曲がっていた。
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