6 霧の間
小雪の許可を得て、私は「修整所」の三階にある客室に住まわせてもらうこととなった。
三階の端っこの部屋は、ホテルの一室みたいにぴかぴかに清掃されて、調度も整えられていた。
南に面した窓には、薄手のカーテンが引かれている。波のような模様の向こうに、夕闇の街の真っ赤な空が透けて見えた。
窓のそばにはライティングデスクがあるが、棚も引き出しも空っぽ。パイプベッドには、真新しいシーツと大きな枕。開けっ放しのクローゼットも、やはり空っぽで、カラフルなハンガーが用もなくぶら下がっているばかり。
これから、私がこの空間を充実させていく。
その期待感が、私の胸をはずませる。
「気に入った?」
小雪の声。開けっぱなしにしていたドアのそばに、彼女が立っている。
「一緒に来ない? ちょっと外に行く用事ができたから」
「私が? 一緒でいいんですか?」
「面白いよ」
そう言って小雪は私を手招きする。私は小雪についていくことにした。
**
小雪に連れられてきたのは、二階にある一室の、扉の前。
他の部屋のドアにはなかった窓が、そのドアにだけ設けられている。両開きの扉の上半分をまるごと使った窓は、部屋全体を見渡せそうなほどの大きさだった。
けれど、部屋の中の様子は、おぼろげにかすんで見えない。部屋の大きさや内部はもちろん、扉のすぐ後ろでさえも見通せないほどだ。
窓が曇っているのかとも思ったけど、そうじゃない。
どうやら、部屋の中がすでに、煙か何かで満たされているのだった。
「ここは『霧の
「それは便利ですね」
「便利だよお。わざわざ面倒事を探しに歩き回る手間は省けるしね。それに、困ってるヒトが自分でここまで知らせにこれるとも限らないからさ。自動的に伝えてくれる仕組みがあるに越したことはないってわけ」
そう言って、小雪は窓をコツンと指でこづく。
すると、霧がぼんやりと鮮明な形を取りはじめた。瞬く間に、それは、どこかの家の一室を映し出す。
畳敷きの部屋の真ん中に、大量の和紙の切れ端が堆く積み上げられている。
その下で、何かが動く気配があった。
ヒトのものだろうか? 墨に汚れたような黒い指先が、紙の山からちらりとのぞいた。
「誰か、下敷きになってるんですか?」
「そうみたい。出られなくなってるんじゃないかな」
「大変じゃないですか。窒息しちゃうんじゃ?」
「息ができなくなったくらいで死ぬようなヤワな子は夕闇にはいないよ。それは平気だけど、でも、私が呼び出されてるってことは何やら問題が生じてるのは確かだね」
私はしばし、霧の間の景色から目が離せない。
無造作に、かつ遠慮なく積み上げられているかに見える大量の反故紙の山と、その下に埋もれた誰か。身動きのとれないそのヒトのことが、やけに気になってしまう。
その山の後ろに、水墨がらしきものの描かれた屏風と、破れた障子が見える。障子紙さえも、書き物に使ってしまったのかな、と思う。
「それじゃあ行こうか、ハナちゃん」
「場所はわかるんですか?」
「大丈夫、街の地理はだいたい頭に入ってる」
白衣を翻して、小雪が歩き出す。颯爽とした言葉遣いに反して、彼女の歩みはどこかのんびりとして、いまいち頼りなさそう。両腕を思い切り上に伸ばして、んー、と気だるげな声を発する彼女は、まるで散歩に出発するご老体、という風情だ。
大丈夫かなあ、と不安になるけれど、まあ、やるときはちゃんとやってくれるだろう。小雪の後ろ姿を見ていると、私は何となく、彼女を信じられる気分になる。
二階から下り階段を降りていく。一段だけ前を行く小雪が、こちらを振り返った。
「ハナちゃん、何か用事あった? 勝手につき合わせちゃって、悪いことしたかな」
「え、いいえ? 右も左も分からないのに、やることなんて……むしろ小雪さんが手を引いてくれるなら、ありがたいです、けど……」
小雪が黙ってこちらを見つめているので、私もつい、口をつぐんでしまう。小雪は、なんだか居心地の悪そうな表情で、左手を黒髪の奥に突っ込んで、首筋を引っ掻いている。
「しつこいみたいだけど、ハナちゃんはもっと図太く、ふてぶてしくなっていいんだよ。そうした方が、きっと夕闇の街でも生きやすいし……何より、私が気持ちいいから」
「えっ」
私の漏らした声は、むしろ、へっ、という感じの吐息に似てしまった。
小雪は、すぐに前を向いて早足で暗い階段を駆け下りていってしまう。とたた、という足音を残して、小雪の姿はあっという間に消えてしまう。夕闇の陽の届かない階段の踊り場に、いやに静かな闇だけが残る。
つかのま、ぽかんとしていた私は、すぐに足を速めた。
「ねえ、待ってよ小雪!」
駆け下りていくと、小雪は修整所の玄関の前に佇んでいた。振り返る小雪の眼前で、私はぴたりと足を止め、ふう、と、ひと息。
「もう、何、いきなり逃げ出したりして……どうしたの?」
「何でもないよ、ハナちゃん」
小雪は微笑して、左手でドアを開ける。
「そういう感じでいいから。もっと気楽に、ね」
そう言われて、私は、自分の口調が丁寧でなくなっているのに気づく。驚いたのは、それで全然違和感がなかったこと。
なんだか、すごく喋りやすい。
「そうだね。ありがと、小雪」
「そんなことでいちいち有り難がらないでよ、めんどくさい」
「ああ、うん……ごめんなさい」
「謝るのもやめて」
「じゃあどうすりゃいいのよ」
私が唇を尖らせて抗議すると、小雪はめずらしく、困ったみたいに笑った。彼女、こんな顔もするんだな……
「何かおかしい?」
小雪は怪訝そうな顔でつぶやきながら、玄関の扉を押し開いた。外には真っ赤な夕空が広がっている。
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