交渉(2)


           *


 遡ること数分前。大金貨120万枚を提示されたイルナスは必死に動揺をひた隠す。予想を遥かに超えるほどのボッタクリ。


 もちろん、法外中の法外だ。


「……」


 やはり、交渉など無理だったのか。反帝国連合国と帝国を敵に回すことなど、五聖ですら無謀だと感じるのか……イルナスは絶望感に包まれた。


 だが。


 トントントンと。


 海聖ザナクレクは、密かに机の羊皮紙を叩く。


『テメェは袋のネズミだ』

「……」


 なるほど、理解した。この男は、脅しをかけているのだ。反帝国連合国軍の手練がイルナスを取り囲んでいる。だから、値段を上げろと言っている。


 裏を返せば、交渉の余地はまだあると言うこと。


 隣の羊皮紙には、契約書があった。恐らく、海聖ザナクレクの背中の壁越しに刺客がいて、ここは死角になっているのだろう。


 海聖ザナクレクはトントンと指を叩いて筆話を促す。


「こんな額は法外だ! 絶対に払えない! せめて、11万……いや、12万枚……」


 イルナスは取り乱したフリをして、小刻みに額を提示する。また、同時に、羊皮紙に『20万枚』と書き込んだ。倍のベッドは、もちろん破格だ。


 海聖ザナクレクは計算高い男だ。だが、同時に、自分の能力に自信を持ち、反帝国連合国の圧力などには屈せぬ気概を持っているのだろう。


 すなわち、臆病風に吹かれて自分の望みを下げたりはしない。


「肝っ玉の小さいヤツだな。それじゃ、10分の1じゃねぇか! 大金貨120万枚! ビタ一文まけられねぇ!」


 海聖ザナクレクは、無遠慮に叫びながら『払えるのか?』と書き込みがある。


 乗ってきた。


「そ、そんな……」


 イルナスは机にヘタリ込む振りをして、『ヘーゼン=ハイムに借りる』と書く。恐らく、今、最も効果のある言葉だ。


 その書き込みを見た瞬間、海聖ザナクレクはニヤリと笑う。そして、すぐさま『30万枚』と書く。


「……っ」


 イルナスは、目を瞑って考える。仮に自分が皇帝となって、自由にできるお金が、これほどまでに準備できるだろうかと。


 契約魔法が使われた書類には、嘘がつけない。


 すなわち、できない約束はできないのだ。書けば、その場で身が焼かれる。自身が『できる』と確信を持って書かなければ、契約を成立させることはできない。


 イルナスは10万枚ならば、想像ができた。仮に皇太子の身分で天空宮殿で帰れば、なんとか捻り出せない額ではない。


 ヘーゼン=ハイムに10万枚を借りることもできると思った。豪商の後ろ盾があるあの男ならば、なんとか用意できるだろう。


 だが。


 あと、10万枚……果たして、自分にそれが用意できるだろうか。


 自分に、それだけの価値が、あるのだろうか。


「……」


 そう考えた時。


 脳裏に浮かんだのは、黒髪の少女の笑顔だった。


 その瞬間、イルナスは迷わず羊皮紙に書き込む。


『30万枚でいいんだな? これ以上はないぞ?』

「……っ」


 海聖ザナクレクは、少々狼狽た表情を見せるが、返す刀で書き込む。


『でけぇ口叩いて払えるのかよ?』

『どうなんだ? 最後か最後じゃないかを聞いている。次、最後じゃなかったら交渉は終わりだ』


 そう書いて。


 イルナスは、ラシードに視線を這わせる。より高い望みを叶えるために、盤面をぶち壊す準備も覚悟もある。言外にそう伝えた。


「……っ」


 瞬間、海聖ザナクレクは顔を如実に引き攣らせて、書き込む。


『最後だ』

「……」


 イルナスは表情を変えずに書き込む。


『では、交渉成立だな』

『で? テメェに払えんのかよ?』

『当然だ。反帝国連合国をすべて帝国ぼくのモノにすれば、30万枚などお釣りがくる。安い買い物だ』

「……っ」


 その書き込みに、海聖ザナクレクはあんぐりと口を開く。


『払えませんでしたー、じゃすまねぇぞ?』

『その時には、あなたの奴隷にでもなんでもすればいい。帝国の皇太子が奴隷って言うのも、ハクがつくだろう?』

「……っ」


 大金貨120万枚……自分の価値としては低すぎる。イルナスはそう信じた。こんな自分に、すべてをかけてくれたあの子の価値は……断じてそんなモノではない。


 最終的にイルナスが、契約書に内容を書き込んだ時、契約が成立した。


 そして。


 『下を向いて目を閉じろ』との指示に、イルナスはガクっと膝を崩して下を向く。そして、ラシードに伝わるように、地面を指でなぞって文字を書く。


「なんだ……もう、お終いか? テメェのカードはもうねぇのか?」

「……」

「けっ! つまんねぇ野郎だな」


 海聖ザナクレクは失望したように大きなため息をついて、手をパンと叩く。


 そして。


「野郎ども! 交渉は終ぇだ!」


 そう叫び、部屋中に光が包まれた。


           *


「あああああんっ……目がぁ……目がああああっ! 目がぁ目があああああっ! 目がああああっ! 目がぁ目があああああっ!」


 魔軍総統ギリシアは転げ回りながら、存在しない両目を覆うように手のひらで顔を覆う。


「……おい! 早く私たちをヤツらの元に送れ!」

「いたぁぁあぃひぃいいい! 目があああっん! 目があああああっ! 目がぁ……目があああああっ! 目がぁ目があああああっ! 目がああああっ! 目がぁ目があああああっ! ああああっ!」

「こんの……根性無しがっ!」


 凱国ケルローの副団長ダルシア=リゼルが怒りに任せて言い放つ。


「魔軍総統ギリシア。あなたは超一流の魔医でしょう!? そんな網膜の光など、すぐに治してしまいなさい」


 食国レストラルの宰相トメイト=パスタが助言するが、魔軍総統ギリシアは聞く耳を持たずに地面を転げ回っている。


「目がぁ……目がああああああああっ! 目があああ目がああああああっ! 目がぁ……目がああああっ! 目がぁ目があああああっ! 目がああああっ! 目がぁ目があああああっ!」

「……っ」


 ダメだ。普段から痛みを伴っていないので、耐性がまったくない。魔軍総統ギリシアの実体はここにはないので、こちら側で治療することもできない。


「はぁ……どうする?」


 深くため息をついた砂国ルビナの竜騎ドラグーン団団長ハンフリー=ミンツが、トメイト宰相に尋ねる。


「いたぁいいいいいっ! ん目がああああっ! 目があああっ! ひだっ……ひだぁああいっひぃ! 目があああっん! 目があああああっ! 目がぁ……目があああああっ! 目がぁ目があああああっ! 目がああああっ! 目がぁ目があああああっ! ああああっ!」

「……」































「仕方ありません。この無能アホが治るのを、待つとしましょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る