脱出


           *


「……っ」


 空中で離れていく腕を見ながら、カエサル伯は、目下、起きている事実が理解できなかった。


 イルナス皇太子。


 ガストロ帝国皇位継承順位第一位でありながら、魔法の使えない不能者であり、発育不良の病を抱え、5歳で成長が止まった『童皇子』。


 エヴィルダース皇子の哀しき玩具おもちゃ


 自死を選んでもおかしくないほど執拗な虐めを受け、天空宮殿中の貴族から小馬鹿にされていた存在。何もできないにも関わらず、『皇太子』というお飾りをつけられた傀儡。


 そのはず。


 そのはずだった。


「ぐっ……」


 目の前にいるのは、迷いのない表情かおで剣型の魔杖を振るっている姿だった。5歳ほどの童子でありながら、その意志の強い眼光はーー


 まるで、若き頃の猛々しき皇帝レイバース。


 ……いや。


 カエサル伯は、そのまま倒れ込んだ。


           *


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 イルナスは息切れをしながら、地面に倒れこんだカエサル伯を見つめた。へーゼン=ハイムの開発した魔力蓄積型魔杖『雷光』。猛然と襲いかかってきた巨大な狼に対し、カウンターの一閃を放つことができた。


 ラシードは覚えていた……覚えていてくれた。


 カエサル伯を倒せるほど、強くなりたい。イルナスが、かつて吐き出した言葉だ。こんな不能の5歳時の夢想を、彼だけが信じて託してくれた。


 不能者の5歳児が、帝国最強の四伯に立ち向かう。そんなことなど想像もできなかったはずだ。だからこそ、カエサル伯は、イルナスの攻撃に対して耐性を持たなかった。


 どれほど硬いものでも、世の中に斬れないものはない。それも、ラシードから教わった。筋力を尽くし伸びきった手に、関節を縫うようにして斬りつけた。


 そうしてできた、一瞬の隙。


 コンマ数秒にも満たない、僅かな時間。


 だが。


 大陸最高峰の剣士であるラシードには、十分すぎる間だった。


「やったな!」


 ラシードは、倒れる獣人を尻目に、竜騎に乗り込み走る。


「えっ……カエサル伯にトドメは!?」

「帝国の四伯は、そんなにヤワじゃねえ!」


 そう叫んで逃走を図る。


 イルナスが、後ろを向いて状況を確認すると、すでにカエサル伯の身体が光に覆われていた。意識はあるようで、燃え盛るような眼光で、こちらを悔し気に睨みつけてくる。


「ぐっ……がっ……獣化ーー真土ノ石竜子しんどのとかげ

「……嘘でしょ!?」


 黄土に染まった爬虫類の形態に変わったカエサル伯の腕が、見る見るうちに再生していく。


「……っ」


 まさか、回復するなんて。


 イルナスは絶望的な想いに駆られる。ラシードの斬撃は、紛れもなく致命傷の一撃だった。あの傷の深さと血液量であれば、即死レベルの。


 まるで不死身……どうすれば、あんな化け物を倒せるというんだ。


「安心しろ。すぐには、再生はしないだろう。その間に、逃げられるだけ逃げる」

「……」


 確かに、カエサル伯がすぐに追ってくる様子はない。こちらが追撃を加えようとすると、恐らく完全防御獣化の玄武へと変更するつもりだっただろう。


 相手の戦術に応じた、多彩で強力過ぎる獣化。


 強い。


「ありゃ、想像以上の化け物だな。とりあえずは、逃げの一手だ」


 ラシードの身体が汗だくになっている。


 イルナスとの訓練では、息一つ、汗一筋すらかかなかった男が。それほどまでに、対峙していた威圧が大きかったのだろう。


「でも、匂いで追跡されるんじゃ……」


 そう言いかけた時、ラシードがイルナスに小さな弾をぶつける。すると、それは小さく破裂してその小さな身体を包む。


「カエサル対策だ。これで、匂いを数日間消せるらしい。ヤンに持たされていたが役に立ったな」

「……ヤン」


 その名前を聞くと、思わず心配になってしまう。今頃、あの少女は何をしているだろうか。自分と同じように、敵からの襲撃を受けていないだろうか。


「イルナス。他人の心配をするのは、まだ早いぜ。危機からは全然脱出していない」

「……うん」


 ラシードの言葉に、童子は頷き切り替えた。そうだ。このまま、カエサル伯を上手く巻いたとしても、反帝国連合国から包囲状態は続いている。


 イルナスは地図を開いて、熟考する。このままでは、ジリ貧だ。なんとか活路を開かなくては。


 そんな中、ラシードが意を決したように叫ぶ。


「決めた! 北東に向かって、海渡るぞ」

「海を渡るって……アテはあるの?」

「海聖ザナクレクを頼る」

「……っ」


 イルナスは口をあんぐりと開けた。目下、五聖は帝国の敵だ。


「ヤンが、なんか、コソコソやってただろ? アレは、砂国ルビナのクーデター軍と海聖ザナクレクとの間を間接的に取り持っていたらしい」

「な、なんでそんなことを?」

「ついで、だってさ」

「……っ」


 ますます、口があんぐりと開いてしまう。そんな大国を手玉に取るような立ち回りをしながら、毎日毎日家事をこなしていたのか。


 しかも、『ついで』って意味わからん。


「可能性は少ないが、ヤツなら金次第でコッチにつくかもしれん。目下、北東にはクーデター軍と海聖ザナクレクが率いる海賊たちがいる」

「……」


 クーデター軍とヤンとの繋がりが、反帝国連合国にバレていたら終わりだ。だが、そこが気取られていない場合は、むしろ、彼らの盲点となり得る。


「運がよければ、そこで、ヤンとも合流できる。まあ、この策は最終手段だったから、残りの選択肢の方が、可能性は高そうだがな」

「……うん、わかった」


 童子は、決心したように頷く。恐らく、かなり勝算は薄いと見ているのだろう。それでも、選ばざるを得なかった道。


 やがて、一陣の風が吹き。

































 イルナスはヤンの無事を願った。




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