ブギョーナ(2)


 ブギョーナは目を疑った。ヘーゼン=ハイムが、当然のように邸宅にいて、ソファで座り書類を眺めている。


 そして、隣にはヘレナが、地面をガン見しながら正座している。


「あ、な、なにを……あ、きさ……あ、おまっ……」

「ああ。お邪魔してます」

「……っ」


 まるで、ご近所さんのごとく。フランクな口調で、笑顔を浮かべる。


「あ、ふ、ふ、不法侵入だぞ! こんなことが許されるとでも思っているのか!?」

「お互い様でしょう? 私の城にも暗殺者を派遣してくれたみたいですし。それに、きちんと許可はいただいてますよ。ねえ」

「はい。私はこの邸宅に来客を招き入れる権限を有してますから。不法侵入には当たりません」

「……っ」


 ちゃっかりと。隣には、元筆頭メイドのオバーサが立っていた


「あ、こ、こ、この裏切り者がぁ!」

「黙れ、このクソ瓢箪型ブサイク」

「……っ」


 酷い。なんて、酷い暴言を浴びせてくるのだ。


「あ、お、お前……主人に対してなんて口の聞き方を」

「臭い息を吐くな、異常性欲持て余しデブ」

「……っ」


 あまりにも、酷すぎる。長年世話をしてきた主人に対して……ブギョーナは、ジワっと涙を溜める。


「あ、ふざけるな! あ、出ていけ! 貴様も、オバーサも、二度とこの邸宅に足を踏み入れるな」

「言われなくても、。それでは、行こうか、義母さん」


 !?


「あ、ちょ……ちょ待てよ!」


 ブギョーナは、必死な形相で扉の前に立ちはだかる。


「どうしましたか? どいてくれないと帰れませんが」

「あ、な、何が揃った!? 言え!」

「不正の証拠に決まっているじゃないですか。あなたが、これまで犯した数々のね。あまりに多すぎたんで、持ち運び可能な数を厳選するために足を運びに来たんですよ。ねえ」

「はい」

「……お、オバーサ……貴様っ」

「地獄に堕ちろ、ゲス極丸太り豚」

「……っ」


 ブギョーナは、涙目で元筆頭執事を睨む。


「下手を打ちましたね。この邸宅の全権を握るキーマンの信を失うなんて」

「はっ……ぐっ……」

「彼女は、非常に有能な人材だ。あなたの弱みを、メイド総動員で、余すことなく準備しておいてくれましたよ。これ、証拠の写しです」


 そう言って。


 ヘーゼンは、大量の羊皮紙を上空に放り投げると。


 それらは、パラパラと舞い。


 地面へと落ちる。


「あ……はぁ……はぁ……はぁ……はぁあああん」


 その一枚一枚を瞳で追いながら、ブギョーナは、思わず悶絶の声をあげた。チラ見するだけでわかった。


 この証拠はヤバい。


 こんな短期間で、決定的にマズい証拠がズラリと取り揃えられている。仮に、これを告発されれば、上級貴族であろうと失脚する。


「あ、な、何が望みだ?」

「なにもないです」

「あ、何もない訳がないだろう!? い、言っておくが、そう簡単に私が屈するとは思わないことだ!」


 そう宣言すると。


 ヘーゼンは小さくため息をつき、その漆黒の瞳で見下してくる。


「いえ、本当に何もないんですよ……だって、あなた、もう破滅ですよね?」

「……っ」


 ブギョーナの背筋が一気に冷たくなる。


「エヴィルダース皇太子の庇護下にいる間は大丈夫だったかもしれないが、それも期待できない現状で、この不正の山は致命的ですよ」

「あ、そ、それは……」

「ああ、知ってるかと思いますが、良縁に恵まれまして。義母さんは、分家当主のネト様と婚姻を結びます」

「……ひっ」


 さっきから、油汗が止まらない。当然、ヘレナへの未練があるが、そう言うことじゃなく。今、ヘーゼンの吐く言葉が、明かにヤバいことに気がついたからだ。


 そして。


 案の定、ヘーゼンは予想通りの言葉を続ける。


「いや、幸運でした。決して条件面で選んだ訳じゃないんですが、名門ゴスロ家の中では、ブギョーナ様に次ぐ権力をお持ちなんですよね?」

「あ……あひゅ……あひゅひゅ……」


 ダラダラ、ダラダラダラダラと、油汗が垂れ流しだ。背中から、腹から、額から。ベトベトで、粘着質のある液体が身体中にまとわりつく。


「それで、に、都合が

いいんですよね。あなたが、当主の座から引きずり下ろされると」

「あはぁ……はひゅ……ひゅ……」


 こいつ。全てを見通した上で? ネトと婚姻を結ぶ時点で……いや、ノクタール国に派遣された時点で、こうなることを見越して?


「た、頼む! この通りだ! な、何でもする!? 本当に何でも!」


 ブギョーナはヘーゼンに近づいて肩を揺らす。何度も何度も……何度も何度も何度も何度も。


 そう尋ねると、ヘーゼンは歪んだ笑みを浮かべて答える。


「本当に、何もないんですよ。

「あ、えぐぅ……あ、そんなぁ……そんなぁぇぇぇ」

「だって、ネト=ゴスロが本家当主の後釜になれば、我々は親戚だ。貴族社会は同門であることが、大きな意味を持つ」

「……あっふぐぅ」


 汗と涙と涎が止まらない。視界がグニャリと歪んで、目の前の悪魔が、悪魔にしか見えない。


「広い意味では、名門ゴスロ家の人脈、名声、財産、土地の全てを手に入れることができるんです。だから、もうあなたに対しては、本当に、何もないんです」

「……あうあぅあぅああいひぃ……るしてぇ……」


 ブギョーナは飛びついた。謝るしかない。もはや、手段は全面屈服しかない。土下座……


 いや、土下挟まれ、めり込みしか、残されていない。まだ、交渉の余地はあるはずだ。余生の全てまで、奪われる訳には……


「あ、ふおおおおおおおおおおおっ!」


 猛烈に走りだし。


 ヘーゼンの床めがけて。


 跳躍し鋭角で突っ込み。


 足下に向かってジャンプし。


 挟まれ行く。


 が。


 !?


「はぎょええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」


 瓢箪型の頭をつま先で、思いきりトゥーキックで跳ね返される。


「もう、謝罪される価値もない。ミジンコとか、ゾウリムシとかに、謝罪されても、なんとも思わないでしょう? もう、そんなパフォーマンスは不要だ」


 ヘーゼンの表情は驚くほどに冷たかった……いや、冷たいなんてものじゃない。まるで、虫ケラを見るかのような無機質な瞳。


「あごおおおおおおおおおおおお! あご、あごおおおおおおお!」


 一方で、外れた口でドバドバと血を流しながら、ブギョーナは叫び声を上げる。


「あ、ひぃぐ……申し訳ありません! あ、申し訳ありません! あ、申し訳ありません! あ、何でもする。あ、何でも望み通りのものを。あ、本当だ。あ、だから……あ、だから……」

「……」


 しばらくの沈黙が流れた後。


 ヘーゼンは小さくため息をついて口を開く。


「オバーサ……もう、時間の無駄だから、僕は行くな。君たちも、準備が終わったらすぐ出発しなさい」

「はい」

「あ、そ、そんなぁ……あ、待ってぇ……あ、待ってぇ……」


 ブギョーナは、扉を開けて去ろうとするヘーゼンの後を追う。


 どうすればいい? どうしたら話を聞いてくれる? どうしたらこっちを向いてくれる? そんなことを考えている間に、迎えの馬車がこちらに近づいてくる。


 その時、ヘーゼン=ハイムが、かつて言った言葉が脳内に駆け巡る。


『私が再びこの天空宮殿に戻ってきた時。あなたは、泣いて詫びながら土下座するでしょう』


 ブギョーナはすぐさま、土下座した。咽び泣きながら、何度も何度も。何度も何度も何度も何度も。何度も何度も何度も何度も何度も何度も。


「あっ……ひぅ……あ、申し訳ありません。この通りです! どうがぁ! どうがゆるじでぐだざいー!」


 鼻水と涙と脂汗をドバドバと流しながら。頭を地面に擦り付けて、何度も何度も。これ以上要求しないでくれ……どうか、こっちを、向いてくれと、心の中で思いながら。


 だが。


 ヘーゼンの視線はこちらに向かない。


「ああああ、どうがぁ。あ、どうがもうゆどぅじでぇーーー!」


 赤ん坊のように泣きじゃくるが、完全に無視。こんなに泣き叫んでいるのに、まるで聞こえないかのように、振り向きもしない。


 もう……これしか……これしか……これしか……


 いや、無理だ。無理だ無理だ。無理だ無理だ無理だ。無理だ無理だ無理だ無理だ。無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ。無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ無理だ。


 数十人のメイドたちがいる前で……愛するヘレナが見ている前で。


『ただ……あなたは土下座が好きじゃないと思いますので、許してあげますよ』


 こんな恥辱……


 馬車が到着して、ヘーゼンが乗り込む。もう、迷っている時間はない。もう、躊躇している時間はない。


「あっ……あっあっあっ……あ、なんで……なんで、こんなことに」


『違います。土下座じゃなくて、土下寝で許してあげますよ』


 立ち上がって、フラフラと歩き始める。まるで、今、起こっていることに、まったく現実味が湧かない。だが、やらなければ、振り向いてくれなければ、全てを失う。


 ブギョーナは、心を決めた。


 そして。


 ヘーゼンを憎みながら。


 ヘレナを想いながら。


 直立不動に寝転びながら。


 腰をカクカクと地面に擦り付ける。


「あ、はぁ……はぁ……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください……許してください」


          ・・・
































 顔を起こした時、すでに馬車の姿はなかった。


             ブギョーナ編 完

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