ヤン
2時間後、ラシードは酒場でガーガーと大の字で寝出した。終始ペースを乱されたヘーゼンは、珍しく疲れた様子を見せる。
「しかし、信じられない男だな」
「全然、普通の人ですけどね、
と弟子が失礼千万な発言をしてくる。
「それにしても、ヤン。よくやったな。君のおかげで、思わぬ収穫だった」
「そ、そうなんですか? なら、休みくれますか?」
「今はダメだ」
「わーん! なんでですか!?」
ヤンがブンブンと拳をぶん回しながら突っ込んでくる。一方、ヘーゼンはいつも通り額を抑えながら、大きくため息をつく。
「まったく……大きくなっても行動が変わらないな君は」
「なんなんですか! 役に立ったでしょ? 言ったでしょ!? 喉から手が出るほど欲しいって」
「言ったが、君の予定はズラせない。ここからは、1時間たりとも」
!?
「……い、いちじかん? イチジカン? 1時間って、60分のことですよね? 3600秒のことですよね!?」
「他にない」
「……っ」
ヤンがガビーンとして、ワナワナして、やがて、アウアウして涙目でエマの胸に抱きつく。
「わーん! ひどい、酷すぎる」
「嘘泣きやめろ」
「わーん! わーん! わーん!」
「ちょ、ちょっと! あんまりにも酷いんじゃない」
「くっ……」
エマに睨まれたヘーゼンは、ヤンを忌々しげに睨む。基本的に善人の優しさが苦手だ。特に、親友である彼女には、ヘーゼンも多く助けられてきたので、あまりそれについて強くも言えない。
黒髪の青年は、あきらめたように話を始める。
「言っておくが、勉強しないと落ちるぞ? テナ学院の入学試験は、これまで学んできた実学以外の教養もある」
!?
それを聞いた時、ヤンの喚きがピタリと止んだ。そして、ガバッとエマの胸から脱出して、キラッキラの瞳で見つめてくる。
「ほら、やはり嘘泣きだ」
「そんなことよりも!
「やはり嘘泣きだ」
「その前!」
「……テナ学院の入学試験」
「わ、わ、私、学校行けるんですか?」
「試験に受かればな」
「ねえ、嘘じゃないですよね!? こんなの嘘だったら怒りますよ!」
「わかるだろう? 君にさせていた勉強の内容は全て実学以外の試験対策だ。学校に入学させることの目的以外にはさせない行動だ」
「……っ」
「……」
「……」
・・・
「わーい! わー! うっそー! へぇー! 学校!? 私が、学校!? えー、どうしましょ」
はしゃぐ。めちゃくちゃに、ほっぺを叩いたり、つねったり、ぱんぱんしたり、エマに抱きついたり、いい子いい子してもらったり、とにかく忙しく動き回る。
「はぁ……」
だから、隠しておきたかったんだと、ヘーゼンは深くため息をついた。テナ学院史上における歴代の最高得点保持者はラスベルだ。次点でヘーゼン。
ヤンが張り切れば、おそらく、ラスベル並みの得点を叩き出す。
すなわち、ヘーゼンが負けるということになる。ラスベルは、精神的に大人だから、得点に固執することはないだろうが、ヤンはこういう性格だから、ことあるごとに言ってきそうだ。
ちなみに、ヘーゼン自身がテナ学院のテストを受けたのは、この大陸に到着して半年足らずだ。
そこから帝国語を覚えて、後の義母となるヘレナを監禁して奴隷にして、試験対策用の書物を購入して猛勉強して3ヶ月。
裏で、汚職教師の脅迫をし実務試験の不正工作など、試験期間も短く、やることも多々あったので当然と言えば、当然の結果だ。
ただ、ヤンに越されるのは、後々のスパルタ教育上、よろしくはないのだが。
「グス……やったね。本当によかったね」
「……はぁ」
あまりの喜びようにエマが泣いてしまっている。いよいよ、面倒臭い状況になってきたので、早々にその場を離れようとした時。
執事のセシルが書斎に入ってきた。彼女は、ノヴァダイン城の元気印娘である。
「来客です! アウラさんて貴族の方がいらっしゃってます!」
「来たか。わかった、通してくれ」
ヘーゼンは、気を引き締めて頷く。
「エヴィルダース皇太子のNo.2が直々にくるなんて、すごいわね」
エマが目を丸くして驚く。
「そういう筋書きだ。事前に調整してある交渉ほど楽なものはないからな」
ノクタール国に左遷したエヴィルダース派閥から見れば、袖にされて当然の交渉だ。だが、一見難航が予想される事態を上手く納めれば、アウラ秘書官の株も飛躍的に上がる。
リターンが大きいのは、むしろ、彼の方だ。
「恐らく、ここには長居しない。ちょうどいいから、エマもついてきてくれ」
「えっ! わ、私も?」
「タイミングが神がかり的で助かる。ドネア家との繋がりを見せた方がいい牽制になる」
「あ、相変わらず抜け目のない」
アウラ秘書官だけでなく、エヴィルダース皇太子に見せつけることが効果的だ。彼女の父親、ジルバ=ドネアは皇帝の最側近だ。『皇帝直訴のチャンネルが他にある』と示すだけでも、ビビるはずだ。
「無理強いはしない。もちろん、ドネア家には不利益を被るようなこともしないと約束する。駄目か?」
「……はぁ。仕方がないなぁ」
エマはため息をついて頷く。
「打ち合わせは恐らく馬車の中になるだろう。せっかくだから、カク・ズと3人でゆっくりランチでも食べたかったが仕方がない」
ラシードがこの通りの状態なので、カク・ズにはヤンの護衛をしてもらわないといけない。ヘーゼンがここを離れるのなら特に。
「……フフ、あなたに、『3人揃ってランチ』なんて配慮があるなんて知らなかったわ」
「なんでだ? 友達と、久々に楽しくご飯が食べたいと思うのは自然だろう?」
「……そうね」
エマが嬉しそうな表情を浮かべたが、なぜかはわからなかった。だが、ここからは強敵との駆け引きになるので、ヘーゼンは気を引き締めた。
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