ぶわっと。瞬間、ビガーヌルの涙腺が崩壊した。すべての資産を絞れるだけ絞っておいて。ボロボロの雑巾のような状態にしておいて。


 まだ、ギュウギュウと締め付けてくるのか。


 ビガーヌルは土下座した。もう、いっぺんの曇りのない、真摯な土下座を。なりふり構わずに、額をベタっとつけた、浅葱いさぎの良い土下座だった。


「こんなの……こんなの辛すぎます! 老後の資金まで、すべて搾り取っておいて、更に借金なんて……もう、勘弁してください! 

「しません」

「……っ」


 コンマ秒で。


 ヘーゼンは、サッパリと、お断りをする。


「と言うより、降りたければ、どうぞ降りてください。そうすれば、私はダゴル長官と契約するだけですから」

「ひっ……ひいいいん」


 情緒が、追いつかない。感情が、おぼつかない。すべてが、追いつかない。


 そんなこと、できる訳ない。この男は、なぜ、できる訳のないことを言うのか。ここまで、憎み合わせておいて。ここで、降りたら八つ裂きにされるだけではないか。


「……」

「ダゴルだって、もう無理です。ほら、見てください、放心状態じゃないですかぁ! なあ、ダゴーー」

「そ、その手があったか……」


 !?


「お、おいダゴル! ダゴリャア! 貴様、目を覚ませ!」

「うるさい話しかけるなゴミが! 絶対にぶち殺してやるからなぁ!」

「……っ」


 完全に正気を失っている。こんな、ひとかけらの理性すら破壊された狂人と、自分は競わなければいけないのか。


「う……うおおおおおええええっ」


 途端に、猛烈な吐き気に襲われて、ビガーヌルはビチャビチャと胃液を吐き出した。精神の負担が、肉体を侵食している。


 しかし、そんなことは、ミジンコほども気にもしないで、ヘーゼンは淡々と話を進める。


「さて。ここからは、手紙を書いてもらいます。お抱え商人。あなたたちの親類、友人、家族に当てて。

「……っ」


 今までは、限りある資産の中での殴り合いだった。しかし、今回はダゴルがいくら引き出せるのか、想像もつかない。


 必然的に最大数をお願いしなくてはいけない。


「これが内容です。交友関係もひと通り洗ってます。手紙も1日で届けて、サインももらいますので、ご心配なく」

「……っ」


 違う違う、そうじゃ、そうじゃない。


 心配な箇所が、圧倒的に、そこじゃない。


 しかし、大陸全土、津々浦々に飛び交った交友関係に対して、手紙を1日で返信してもらうなんて。どう考えても不可能だ。


「そ、そ、そんなこと……どうやって?」

「秘密です」

「……っ」


 物理的に絶対に無理なことなのに。


 絶対に、こいつなら、やれそうな気がする。


「うっ……うおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 ダゴルが渡された大量の便箋に猛然と書き始める。普段の仕事からは想像もつかないほどの執筆速度。


「はっ……ぐっ……うおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 負ける訳にはいかない。絶対に、負ける訳には。


「互いに、想いのたけを込めて書いてくださいね。どうやって、説得するかもよく考えてくださいねー」

「……っ」


 まるで、ゲームの説明をしているかのように。笑顔でニコニコしながら、説明をしてくる。


          ・・・


 そして。


 すべての手紙を書き終えて、最後の手紙を手渡した後、ビガーヌルは燃え尽きたように片膝をつく。


 全て。


 1時間にして、全て失ってしまった。


 残されたのは、莫大な借金のみ。


「ううっ……うぐぅうううううううううううううっ、うぐひぐうううあうううううあううううおおおうっ!」


 ビガーヌルは泣いた。その場で、さめざめと。なんで、こんなことになってしまったのだろう。なんで、こんなことに……


「なにを感傷に浸ってるんですか、気持ち悪い」

「……っ」


 ぶち殺す。


「もう1日もすれば、マラサイ少将がくるので、そんな暇はないですよ。手紙の到着がギリギリになるので、その間、契約について固めておかないと」


 そう言って、ヘーゼンが契約書を手渡す。


「2人とも、不備がないか確認してくださいね。契約魔法は、互いに合意の上でなければ成り立ちませんから」

「……っ」


 ビガーヌルも、ダゴルも、契約条項を穴が空くほどに見る。


「秘書官に確認させてもいいですよ。呼んで欲しいなら呼びますから」

「……」


 ビガーヌルもダゴルもなにも話さずに、一心不乱に契約書をガン見する。所詮は他人の秘書官など、1ミリも信用できない。あくまで、自分の目。己のまなこで確認する。


 金額などは先ほどからの交渉結果が寸分の狂いなく反映されていた。あとは、どちらかの提示した金額の大きい方の契約が適応される。


 子憎たらしいほど、隙のない契約書だった。


 しかし、一点。明らかに、その取り交わしの契約者の条項に、とんでもない違和感が発生していた。


「はぐぅぁう……あうっ……あううっ……」


 聞きたいが。


 聞きたくない。


 そんな新感覚に襲われながらも、ビガーヌルはおそるおそる、ヘーゼンに尋ねる。


「あの……なぜ、契約者があなたではなく、バライロなのですか?」






















「ああ。汚れた金ですから。ロンダリングせんたくしないと」

「……っ」






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