幕間 1ヶ月前


          *


 話は、1ヶ月前に遡る。ある上級貴族が、怯えた表情でひざまずく奴隷を、冷徹な瞳で見下ろしていた。


「……哀れなものだな、モスピッツァ」


 吐き捨てるように、男はつぶやく。


「ひっ……な、なにかお気に召さないことでも? 申し訳ありません、申し訳ありません。何卒、痛いことだけは……何卒……」


 貴族たちに酷使される毎日に、モスピッツァはすっかり卑屈な人間と化していた。上級貴族からの奴隷堕ちの者は、ことさら貴族たちは。特に、普段上級貴族から虐げられている下級貴族などの格好の的だ。


 数ヶ月。その短い期間は、この男の自尊心を粉々に壊すのに十分な時間だった。


「破門されたとは言え、あなたの家からも圧力が来ている。早々にあなたを処分するように」

「ひっ……」


 男はジットリと奴隷を観察する。


「助かりたいか?」

「は、はひぃ……なにとぞ、なにとぞ……」

「……」


 その見苦しさに、男は思わず目を細める。上級貴族同士、何度か顔を合わせたことがあるが、尊大で神経質な男だった。


「では、ヘーゼン=ハイムの下へ、奴隷として潜り込め」

「……っ、それは」

「どうした? お前のすべてを奪った男だ。復讐したくはないのか?」


 鋭い瞳で。男は射抜くような眼差しを向ける。


「も、もちろん……しかし、奴隷は主人に逆らうことができません」

「心配ない。お前の制約を軽減してやる」

「そ、そんなことが可能なので?」

「すでに公安省からの承認は取り付けている。さすがのあの男も、公設奴隷に制約が書き換えられているとは思わないだろう」


 奴隷への契約魔法は、前提条件として帝国が管理している。ヘーゼンの異常なる功績は、内偵捜査の目に止まった。


「優秀な者は帝国にとって都合がいい。しかし、優秀すぎる者は時に帝国にとって害悪となる。あの男は危険だ」


 配属から数ヶ月も経たないうちに中尉格への昇進。しかも、コネすらない平民出身の者が。


 北方ガルナ地区の下級士官たちからは英雄のように讃えられ、上官たちはすべて顔をしかめ沈黙する。そのような極端な男は、危険分子の可能性を排除できない。


 モスピッツァは生唾をゴクリと飲む。


「わ、私はなにをやればいいので?」

「なにもするな」

「えっ?」

「あの男は異常に鋭い。余計な行動をすれば、一瞬にして気取られる。普段から、公設奴隷として従順にしていればいい。そのため、制約破棄によるペナルティは完全には解除しない」


 たとえ、主人の意に反する行動をしたとしても、耐えられるほどの痛みを伴うものにすれば、同じような反応をヘーゼンに示すことができる。


 人の痛みなど、強い人もいれば弱い人もいる。当人によって異なる反応に、真贋などは誰も見分けられない。


「定期的に接触できる人間を派遣する。その者の魔杖は、人の記憶を取り出すことができる」

「そ、そんな魔杖が……」


 公式の魔杖としては知られていない闇の技だ。知らないものは防げない。ヘーゼンという男がいかに有能であるとしても、


「当然、モスピッツァ。あなたは死に近い苦しみを伴うことになるだろう。主人であるヘーゼンへの背信行為に他ならないからな」

「……やらせてください」


 モスピッツァは迷わず頷いた。


「あの男に……私の味わった地獄を見せる。それは、私の悲願であり、それが達成できればこの命を投げ打ったっていい」


 その言葉は、どこまでも強く凜々しかった。


「ふっ。その言葉が聞きたかった。ならば、あなたがよりやる気になるような対価も与えよう。もし、これが成功してヘーゼンの弱みを握れれば、奴隷から貴族に戻してやろう」

「ほ、本当ですか!?」


 モスピッツァの声が明るくなる。


「ああ、約束しよう」

「……しかし、あの男が私のことをすんなりと受け入れるか」

「警戒心の強い男だから当然疑念は持つだろう。しかし、人事省に潜り込めた形跡はない。疑念のままでは、なにもできないさ。何ヶ月……いや、何年もの間で一瞬。一言。一動作でもいい。そこで、弱みさえ見せれば」

「……」

「何年も一瞬の隙すら見せない者を私はまだ見たことがない。ヘーゼンと言えど、例外ではないはずだ」


 男は不敵な笑みを浮かべる。


「……必ずや、やり遂げてみせます。絶対に……絶対に……」


 モスピッツァは自分に言い聞かせるように、何度も何度もつぶやいていた。


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