幕間

悪夢の悪魔


          *


 暗闇の中、ヘレナ=ダリはその場で立ち尽くしていた。


 目の前には、地面にひざまずいて土下座をしている男。しかし、そんなものは視界にすら入らず、彼女の視線は奴隷商から受け取った小銀貨に向いていた。


「助けてください……どうか……どうか……」

「5……6……7……なに、これだけ? これだけイキがいい奴隷なのに?」


 キレ気味に吐き捨てるが、ローブを深く被った男は下を向いたまま沈黙していた。一方で、土下座している男は涙ながらに彼女に訴えかける。


「俺はこんなことをやるために帝都に来たんじゃない。俺は、ギルドで金を稼いで妻や子どもたちにーー」

「……なに、それ?」


 ヘレナは、男の顔を踏みつけながら、睨む。


「それってさぁ、独身の私に対する当てつけ? ねえ。ねえ。ねえ」

「がっ……そんなつもりは」


 グリグリと。男の後頭部を足蹴にする。


「だいたいギルドにきた時から気に入らなかったのよ。貧乏人の田舎者のくせに、これ見よがしに幸せアピールしてくれちゃって。本当に気に入らない。あっ、まだ交渉成立してないでしょ!? ちょっと、待ちなさいよ」


 ヘレナは去っていく奴隷商の肩を掴み、強引に振り向かせた。


 反動でローブが取れ。


 振り向いた顔は。


 恐ろしいほど端正な顔をした少年だった。


          *


「ひ、ひいいいいいいいいいいっ」

「ヘレナ……ヘレナ! 大丈夫かい?」

「はっ……はぁ……はぁ……夢……」


 帝都のとある民家。ヘレナは、叫びながら目が覚めた。隣には、夫のサンドバルが心配そうな表情を浮かべている。


「随分とうなされていたね。紅茶を入れようか?」

「あっ、ありがとう」


 シーツはぐっしょりと水分を吸っている。相当な悪夢だったと思うが、よく思い出せない。


 ヘレナはベッドから起き上がり、洗面台で顔を洗う。一方で、サンドバルはポットにお湯を沸かし、紅茶をカップに注ぎ、彼女に手渡す。


「はぁ……幸せ。ありがとう」


 ヘレナはゆっくりと紅茶に口をつけ、サンドバルの頬にキスをする。なんて、暖かいのだろう。他愛もない日常。でも、この人がいてくれる。


 一人でなく、二人。それが、これほどまでに幸せなことだなんて、3年前は想像すらしなかった。思えば、あの時は自身の心に穴を埋めるために必死だった。


「……」

「ヘレナ、どうかしたかい?」

「……フフッ、こんなに幸せでいいのかなって」

「ははっ、なんだそれは。いいに決まっているじゃないか」


 サンドバルはヘレナの隣に座って肩を抱く。


「そりゃ、俺もヘレナも前は随分と悪事に染めた。しかし、お互いに立ち直って、真っ当に生きてきた。あんまり過去を責めるのはよせ」

「……ええ。そうね」


 ヘレナは夫の肩に顔を傾ける。そうだ。大事なのは、今を生きることだ。自分は日々、真面目に真っ当に生きている。


 それを邪魔する権利は誰にもない。


 そんな中。トントントンと軽快なノック音がした。


「誰だろう。こんなに朝早く」


 サンドバルがつぶやく。


「私が出る」

「いや、いい。俺が出るよ」

「ううん。私が。それとも、化粧してない私は外で見られないほどかしら」


 ヘレナが戯けたようにウインクする。


「なにを言ってるんだ。君がそのままで歩いていれば、路上の誰もが振り向くだろうさ」

「フフッ、ありがとう」


 ヘレナとサンドバルはもう一度、口づけを交わした。


 トントントン。


 再び、ノック音が響く。


「はーい! 少し待ってくださいね」


 ヘレナは元気よく答えて、扉を開けた。


「……っ」


 思い出した。


 この顔だ。


 端正で綺麗すぎる若者の顔。


 悪夢の。


 悪魔の。


 ヘーゼン=ハイムの顔。






















「ただいま、義母さん」


 

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