引っ越し
*
「これでいいんですか?」
シマント少佐を医務室に送った後。ヘーゼンの部屋で、ヤンが大きくため息をつく。
「ああ、いい演技だった。本気で怒ってるかと思ったよ」
「は、激しく本気で怒ってましたけど」
黒髪少女はそう言って、ため息をつく。
すでに、シマント少佐の行動はヤンに伝えられていた。その上で口裏を合わせて、契約魔法の破棄を提案するよう指示された次第だ。
「ううっ……罪悪感が酷い」
「クズに罪悪感など不要だ」
「酷いどころか酷過ぎる!」
ヤンがガビーンとした表情を浮かべる。
「で、これが新しい契約書だな」
「……」
意図的に騙す目的で、当事者であるヤンが契約書を作成することはできない。だが、第三者であるヘーゼンが自身に有利になるように契約書を作成することは可能だ。
「……信じられないですけど、本当に騙されるんですか? 大分、契約書に抜け穴があるんですけど」
「人は信じたいものを信じるものだ。今、この瞬間は救世主であるヤンを疑いはしない」
「……」
にわかには信じがたい。この契約書を見る限り、意図的な工作が見え隠れする。まず、自分ならこの契約は結ばない。
この契約書だと、締結以前にヤンがシマント少佐を騙していた行為が許容されてしまう。それを自白する必要もない。ハッキリ言って、ガバガバだ。
そして、ヘーゼンがシマント少佐をハメようとしている行為の秘匿は、すでに別の契約書によって締結済みだ。
「ちょうどいい機会だ。帝国の将官がいかに腐敗しているか勉強しなさい」
「……そんな勉強いります?」
「人の見る目は経験でしか養われない。クズを見ることでしか、得られないものもある」
「……」
契約を結び直した時、ヤンはシマント少佐のための行動を余儀なくされる。必然的に本気で彼のための行動を取らざるを得ない。
「私が本気で
「ないな。数年後ならともかく、今の君なら赤子の手をひねるようにイージーだ」
「くっ……性悪の極地」
それなら、せいぜい足掻いてやろうじゃないか。ヘーゼンが後悔する顔を見るのも面白いかもしれない。
「それよりも、早く荷物をまとめて出て行きなさい。さすがに長居すると、周囲から怪しまれるからな」
「わかってます」
「それと、カク・ズは連れてきいきなさい」
「な、なんでですか?」
「シマント少佐が生粋のクズだからな。暴力なども振るう恐れがある。その時に君を守れる者が必要だ」
「カク・ズさんは
「簡単だよ。あんなヤツ」
「ひ、評価がとにかく酷い」
ヤンがため息をつきながら、荷物を準備する。やがて、カク・ズも入ってきてようやく引っ越しの準備が整った。
「……一応、今までありがとうございました」
黒髪少女は深々とお辞儀をする。なんだかんだ言って、孤児院も潤った。相当に大変だったが、ヘーゼンのお陰でいろいろと勉強になったと言えなくもない。
「シマント少佐は雇い主としてどうかと思うが、まあ、元気でやってくれ」
「
「ははっ」
「
無自覚の青年に釘を刺した後、部屋を出た。そして、荷物を持ってくれているカク・ズと共に新しい部屋に移動する。
「でも、カク・ズさんてよくあの
「ははっ……」
「なんで、あんなに酷いんです? 私は、あんなに人を人と思わない性格には、とてもじゃないけどついていけません」
「まあ、怒ると容赦ないからね」
カク・ズは苦笑いを浮かべる。
「怒る? あのおおよそ血が通ってない冷徹ゾンビみたいな人がですか?」
「特にシマント少佐にね。ヘーゼン=ハイムという男は、善人には無茶なことを言ったりはしない。おおよそ、追い詰めるのは悪人だけだ」
「……」
シマント少佐が悪人であると言いたいのだろう。でも、悪人だろうがなんだろうが、ヘーゼンよりは遥かにマシに思えた。
「まあ、ヤンのことはかなり大事にしてるみたいだから。素直じゃないことは確かだけどね」
「う、嘘だ」
黒髪少女は驚いた表情を浮かべ、カク・ズの方を見る。
「そんなことはないよ。態度にも、言葉にも表れてたと思ったけど、わからなかった?」
「ぜ、全然」
態度にも言葉にも、そんな様子はまったく感じられない。しかし、そうやってプラスの面を見るところが、なんとなくカク・ズらしい。
ヤンが部屋に入ると、中にはシマント少佐が立っていた。
「ここが、私が用意した君の部屋だよ。あの忌々しい男の部屋よりも数段グレードアップしているよ。気に入ってくれたかい?」
「あ、ありがとうございます」
シマント少佐はデレデレした顔をこちらへと向ける。どうやら、かなり気に入られたようである。しかし、カク・ズを見るとその表情が一変する。
「なぜ、あの男の護衛士がここに?」
「私の荷物を持ってきてくれました。それに、停戦協定は結ばれてますけど、彼らへの抑止力としてついてきてくれるよう引き抜いたんです」
「……怪しいな。あの男のスパイじゃないのか?」
「
「クッ……ククク……まあ、あんな最低のクズだから無理もない。まあ、仕方がないから雇ってやるか」
「断っときますけど、雇うのは私です」
「ふん。まあ、なんでもいいがね。ところで、資産整理は終わったかい?」
「……ええ。一応、」
カク・ズの存在は、そこまで気にならなかったようだ。そして、雇用主が誰かは結構大事な部分なのだが、ガッツリスルー。やはり、相当仕事はできないようだ。
「この書類に方筆で署名すれば、
方筆とは、魔道具の一種で契約の際に使用される特殊な筆である。正式な現金化は後になってくるが、これに署名することで、帝国の法に基づき、資産を差し押さえられる。
「なるほど、わかった。これに書けばいいのだね?」
「……忠告しておくと、やめるのなら今のうちです。大金貨10枚は、本当にあなたの財産の99.9%を費やした査定でギリギリ届いた額でしたから。サインした瞬間にあなたは一文無しになります」
「ふっ……そんなもの、大佐待遇に比べれば惜しくなどない。もともとは、上官への賄賂のために貯めたお金だ」
「……」
恥ずかしいことを、堂々言うなこの人はと、ヤンは思った。
「私にはもともと物欲がない。軍としての地位が自分のすべてだと言っても過言ではない。それぐらい、この仕事に賭けてきたんだ」
「……」
シマント少佐は自分に酔った表情で笑顔を浮かべた。ヤンは、心に罪悪感を抱えつつも、満面の笑顔で頷いた。
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