安息日Ⅸ
静かな街のどこからか鶏の声が響き、朝の訪れを告げる。それにこたえるように、山間から朝日が差し込み、辺りを照らし始める。
ガチャリと音をたて、フィオンは借りている宿の一室の窓を開く。すると夜に冷やされた、冷たい空気が海から流れ込む風に乗って、涼しく流れる。
優しく肌を撫でる冷たい風が、寝起きの少し眠気が残る意識を覚醒へと促す。
フィオンは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「よし」
気持ちを切り替えるように掛け声を付き、日課の装備のチェックを始める。
背負い袋の中身を引き出し、並べる。携帯用寝具、鉄の深鍋、携帯用食器、ロープ、石鹸、保存食、水袋すべて十分な数がそろっており、破損していないかどうか確認する。
次に、ベルトポーチの中身。細々とした小物や、簡単な錬金術による薬品、ペン、インク、チョーク、ピトン(ハーケン)、ハンマーなど必要数あるかどうか確認。
次に武器と防具の確認。ダガー、クロスボウ、クロスボウボルト、数、質問題ないかを確認し、ガントレッド、クリーブ解れていないかなど点検を行う。
すべてが問題ないことを確認すると、並べたそれらをすべて元に戻し、ガントレットとグリーブを装着し、鞘に襲まったバスタードソードを腰に吊るし、着なれたローブに腕を通す。
そして最後に部屋の片隅に置かれた一冊の古びた魔導書に手を伸ばし、そっと持ち上げ革製のバンドで固定すると、肩から脇に挟まるような形で吊るし固定する。
準備完了。
「よし!」
再度気持ちを引き締めるように掛け声を発する。
開いていた部屋の窓を閉め、背負い袋を背負い「行ってきます」と誰に言うでもなく挨拶をして、部屋の扉を開いた。
* * *
夜の月明かりに照らされた、ごつごつとした岩肌をさらす山間に建てられた石造りの要塞がその重々し輪郭を浮き彫りにしていた。
ドワーフの城塞都市シルヴァーフォートを中心とした領土と、人間のたちが住む領域を隔てる山の間に建てられたこのブレスタード要塞は、平時はドワーフ領から人間領を行き来する商人や旅人の安全を守り、戦時にはドワーフたちの動きを監視する要塞として建てられたものだ。
魔王の領土からは少し遠く、長らく戦争とは縁のなかったこの要塞はその役目の一部が失われつつあった。
しかし、その平穏な要塞には、赤々とした火の手が上がっていた。
ぐちゃり。と何かがつぶれる生々しい音が、城壁の上の一角で響き渡る。
踏みつぶしたものから噴き出した赤黒い液体を体に受け、生み潰した男は詰まらなさそうにそれを拭った。
男の体は人間の男性というにはあまりにも大きくかけ離れた体をしていた。肌は灰色で、髪の毛はなく、耳は鋭くとがり、鋭くとがった犬歯が閉じた口からはみ出し、異様に膨れ上がった筋肉は人間のそれとは大きく違っていた。
亜人種の一つオークだ。
『つまらん』
オークは人が口にする言葉とは違うひどく濁った言葉でそう吐き捨てるとともに、眼下に広がる炎に包まれた要塞の様子を眺める。そこには戦とは程遠い光景が広がっていた。
逃げ惑う人間の兵士を、オークたちが追廻、狩り殺す。そんな虐殺の様な光景だった。
『気に入りませんか?』
オークの頭に音のない声が流れ込んできた。
『言葉を話すことは出来ないのか?』
オークは怒気を孕んだ瞳を自分のすぐ後ろへと向ける。そこには真っ黒なローブを纏った人物が立っていた。フードを目深くかぶり、顔を伺うことのできないそれは、体を包むローブ越しの輪郭から辛うじて人の形をしていることだけが見て取ることができた。
『ドワーフとエルフと共に俺たちを苦しめた人間という種がどんなものかと期待したが……赤子のようにひ弱とはな。これならまだ狩りの方が楽しいというのだ』
いつまでたってもオークの問いに対する答えは返ってくることはなく、吐き捨てるようにオークは答えを返し、ローブの人物から視線を外した。
『人間の狩りは楽しくありませんか?』
視線を外すと逆なでするように、あの音のない声が頭に響いた。
『くだらない。俺は狩りをするためにわざわざここまで来たんじゃない。戦をしに来たのだ!』
苛立ちのあまり、怒気を孕んだ声と共に、勢いよく振り返り、ローブを着た人物が立っていた場所に、手にしていたファルシンを振り下した。
ファルシンは空を切り、強く地面をたたき砕いた。ローブを着た人物はすでにその場所には非ず、辺りを見回してみても姿はなかった。
おそらくオークの行動はすべて読まれていたのだろう。そう思うと再び怒りが湧き上がり舌打ちをする。
ガチャリと金属を打ち鳴らす音が響く。音がした方向へ視線を向けるとそこには、鎧を着こんだ兵士が一人立っていた。
逃げ惑う内にここへたどり着いたのだろう。兵士は驚きの表情を浮かべ、オークと目を合わせた。そして、体をびくりと震わせると小さく後ずさった。
兵士の姿を見てオークは再び舌打ちを零した。
オークは兵士へ向けて大きく一歩踏み出した。すると、兵士は一度背後を見ると、すぐに覚悟を決めたのか前へ向き直り、剣を引き抜き構えた。
その姿を見ると、オークは自然と笑みが浮かべた。
『があああああああああ』
兵士の覚悟は結局無意味なものとなった。大きく踏み込み、力強く振り下した剣は簡単にはじかれ、オークの剛腕によって頭部を掴まれ拘束されてしまった。
掴まれた兵士は拘束を解こうと手足を振り回し、オークの腕や体を叩く。しかし、オークはそれをものともせず、これから起こることの恐怖に顔を歪めに兵士の姿に、笑みを浮かべた。
オークは兵士の頭を掴んだ腕にゆっくりと力を込めていく。めきめきと兵士の頭部を覆った鉄の兜が歪んでいき、オークの強力が兵士の頭部へと伝わっていく。兵士はこのままいくとどうなるか想像してか、さらに大きく暴れ出し、腕を振り払おうとする。オークはさらに力を込めていく。
『あああああ――――』
赤い体液などが冷たい石畳にぶちまけられ、少し遅れて頭がいびつな形につぶれた兵士の躯が血だまりの上に落ちた。
『つまらん』
オークは血だまりの上で動かなくなった兵士を見下ろして、そう吐き捨てた。
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