第2話 神保町の初吉の段

 安永二年。

 花のお江戸は、今年は特に、季節の巡りがいささか早かった。

 まだ四月だというのに、ぽかぽかとあたたかな陽気が続いた。鰹はすっかりこのお江戸じゅうに出回り、お天道様はご機嫌で、もうすぐやってくるはずの梅雨など素知らぬ顔だ。辛抱強く残った葉桜が、ついに観念してはらはらと散る。ぼんやりと霞のかかった青空の下、物売りの声がのびやかに響いていた。

 と……。

 そんな穏やかな空気をぶちこわすように、二人の女が華やかな小競り合いを繰り広げはじめた。互いの袖を引いたり振り払ったりと、口々に言いあっている。

「いやだよう、お不二ちゃん。あたし、そんな大事にするつもりはなかったんだ」

「いいからさ、初吉姐さん。ちょいと胸の内を聞いてもらうだけでも気が晴れるよ。こっちですからね」

 いかにもお侠な町娘らしい若い女が、年嵩のほうの羽織りの袖を掴んだまま放さず、強引な調子で一軒の店へと連れ込もうとしているようだ。

 もちろんそれが、屈強な男と小娘などという取り合わせならば、道行く誰かしらがかどわかしか集りかと番屋に駆け込みもしたろうが、今ここで互いの袖を引きつ引かれつしているのは、流行りの鴇色の絣に身を包んだ顔なじみの煙草屋の娘と、このあたりではちょっと名の知れた小唄の師匠だ。まるで年の離れた姉妹のやり取りのようで、誰も彼もが微笑ましく二人を見守っている。

「さあ、なかにお入りな」

 とうとう、若い娘が年嵩の美人を目当ての店へと引っぱり込んだ。

 その店の入り口には、錦鯉の泳ぐ様が描かれた暖簾が下げられ、墨色豊かな達筆で「よろずお口入れ致し候」「お人手お人となり、よろずお貸し出し」と書かれた上質の紙が張り出されてある。

 黒い瓦葺きの屋根の下には、『鯉や』と屋号の入った桐板が掲げられていた。

 間口は狭く、小ぢんまりとした土間の上に板の間という、口入れ屋としてはいささか狭苦しくも思える佇まいだ。しかし。

「こんなの、鯉屋の旦那にご迷惑だよう。商いでお忙しいだろうにさ」

 年増女がつくづく困り果てたように言う。

 それだけでも、この店の主人が周囲の信頼を得ているのが滲んでいる。人柄においても、商売の手腕においても。

「いやあ、迷惑なんてこたあ、滅相もござんせんよ」

 と、ひょっこりと奥から顔を出したのが、この口入れ屋の主、鯉屋利平その人であった。

 たいそう小柄な年寄りだ。年は六十を越えているだろう、真っ白な頭にちょこんと白い髷を乗せて、しわだらけだがつやのいい丸顔に、人好きのする笑みを浮かべている。

 商いは順調なのだろう。着ているものは質素だが仕立てが上等で、手にした煙管も煙草盆もぴかぴかだった。

 彼は、にこやかにふたりの女を眺めてから、馴染みの方の小娘に訊ねた。

「ときに、こいつあまた、何の騒ぎだね。お不二坊」

「その坊ってえのはやめとくれな、おじさん。あたしはお客を連れてきたんですからね」

 彼女がいっぱしの口をきくのも微笑ましいとでも言いたげに、利平はしわに埋もれた目をいっそう細めた。

「ほう……そうかえ」

 軽く頷いてから、彼は改めて来客を見ると、板の間の奥にある襖を開いて、畳敷きの部屋を示しながら言う。

「そういうことなら、ひとつ、こちらにお上がりになって下さいましな、初吉姐さん」

「あれま。あたしのことをご存じなので」

 名指しされて、年増女は驚きを隠さなかった。

「ええ、もちろんですよ、姐さん。お前さんは、このあたりじゃあ知られたお人です。たいそう売れっ子の、教え上手な常磐津のお師匠っさんだってね」

 利平のお世辞混じりの言葉に、初吉は恥ずかしそうなふりをして、袖で口元を覆った。

「やめておくんなさい、鯉屋の旦那」

 しかし、利平の方は彼女のちょっとした芝居など無視して、手前の小女を呼びつけただけだ。

「ちょいと、おろく。お客様にお茶をお持ちしなさい」

「あい、旦那様」

「相済みません、姐さん。まったく、気のきかない奴でねえ」

 にこやかに言う利平は、何の屈託もないように見える。

「どうぞ」

 と、すぐに茶と菓子が運ばれてきたあたり、機転が利かないとは思えなかった。小女とは言っても年の頃は三十路かそこら、それはそれなりの年季が入っているのだろう。

 奉公人の応対に、あるじもまた満足げだった。

「愛想のない女で相済みません、初吉姐さん。だが埋め合わせは、こいつでさしてもらいますよ。まあ、おひとつ食べてごらんなさいな。鈴屋の落雁ですよ。ねえ、お不二坊も食べたいだろう」

「頂きますともさ、おじさん」

 お不二、すなわち二人連れの女の若い方は、満面の笑みで頷き、ぴょんと跳ねるように板の間へと腰掛ける。

 それも当然のことだろう。鈴屋は日本橋の有名な菓子処で、大奥や諸大名、それから歌人に茶人、新吉原の太夫など、名だたる人々から贔屓にされているお店だ。最も評判を呼んだのは干菓子で、中でも屋号にちなんで鈴の方にしつらえた落雁は連日売り切れ続き、江戸っ子でも滅多にお目にかかれるものではない。何でも、京で修行した職人が丹誠込めてこしらえているとか。

 その上品な味は、初吉の心も解きほぐすほどに上質で柔らかだったらしい。

「おいしい」

 小娘の横に腰を下ろした彼女がほっと息を吐くのを見届けてから、この店のあるじはにこやかに言った。

「それで姐さん。どんな御用ですね?」

 不意に問いかけられて、初吉ははっと息を飲み、戸惑いがちに答えた。

「いえ、あたしゃそんな、これって話なんざありゃあしませんのさ。ただ、わけも分からずに、こうしてお不二ちゃんに引っ張られて来ただけなんですよ、鯉屋の旦那さん」

 それだけの言葉にも、老爺は万事承知したような顔で頷く。 

「なら、そのへんのわけと仔細は、お不二坊に聞こうかね」

「いいわよ」

 水を向けられた娘は、つんと尖った鼻を仰向けて笑い返してから、初吉へと遠慮がちな視線を投げかけた。

「ねえ、鯉屋のおじさんになら喋ってもいいわよね。姐さんのお困りごと」

「よしておくれな、お不二ちゃん」

「恥ずかしがることなんてないわよ、ほんとに平気なんだってば」

 何の屈託もなく言う娘に、初吉はいささか思案げに首を傾げながら言う。

「そうじゃなくってさあ……お前さんの口からっていうのじゃあ、何だか筋が違うような気がするよ。困ってるのはあたしなんだし、このあたしがうっかりお前さんに愚痴じみたことを言っちまったもんだから、こちらのお店を巻き込んでの騒動になっちまったんだしね」

 と、彼女は帳台に据わった老爺へと、意を決したかのように向き直った。

「ですから、あたしが事の次第をお話し致しますが、あんまり下らないんで、鯉屋の旦那は呆れ果てちまうと思うんですがね」

「どんなお話でも、喜んで伺いましょうよ」

 鯉屋の主人はただにこやかに笑うだけだ。

「なら、なんもかんも。そっくり打ち明けさせて頂きます」

 言いおいてから、初吉はすっくりと首を伸ばして、この店のあるじを真っ向から見据えた。

「あたし、神保町で常磐津を教えております。そいつあご存じなんでしたわね」

「ええ、そいつあもう。神田の初吉姐さんと言やあ、大店のご主人やご新造さん、ご隠居さんなんぞをお弟子さんに迎えていなさる、たいそう人気のお師匠さんだってねえ、界隈じゃあ評判でござんすから」

 老爺の言葉にも、彼女は堂々と頷く。

「あたし、弟子筋は選んでいますのさ。近所の悪餓鬼どもを教えたところで日銭の足しにゃあなりませんのでね」

 それだけの金持ちを相手に渡り合っているという気概が、初吉の態度からは見て取れた。

 だが、その自信に満ちた顔に、ふと自嘲めいた影が差す。

「ですが、あたし、ちょいと見当違いをしてしまいましてね」

「ほう」

「あたし、少し前から……そう、去年の夏過ぎから、日本橋の備前屋のご隠居で、万右衛門さんって旦那を教えてたんですよ」

「そいつあ大店だ」

 日本橋備前屋は江戸でも指折りの蝋燭問屋だ。諸大名の江戸屋敷はおろか、大奥の御用すら仰せつかっているほどの大店である。使用人は五十を越え、金蔵には小判が唸っていると、まことしやかに囁かれている。

 いま名前が出た万右衛門は、その備前屋の先代のあるじだ。還暦を前に身代を譲って、己は楽隠居を決め込んでいるともっぱらの評判になっていた。

「わしの知ったかぎりじゃあ、備前屋さんは跡継ぎがおもとさんってえお嬢さんお一人きりで、先の年の春だったか、お婿をお迎えになったそうだね。婿殿はたしか……万蔵さんっておっしゃいましたか」

「ええ、そうですとも。さすが鯉屋の旦那、よくご存じで」

 おもとというのが備前屋万右衛門の跡取り娘で、まるぽちゃのお多福、ぱっと見はいかにも箱入り娘という風情だが、芯のところは親譲りにしっかりとしているそうな。

 家付き娘というのは今も昔も強いものだが、入り婿の万蔵を尻に敷いたりはせず、内でも外でもきっちりと立て、商いのことには口を出さず、奉公人を大切にしているなどなど、市中にはいい評判しか流れていない。

「そんなら、姐さんのお困りごとは、備前屋の旦那でもお嬢さんでもなくて、そのご隠居さんなんだね」

「あい。そうなんでござんすよう」

 初吉は袖で口元を覆い、あたりをちらちらと見遣って……わざとらしく人目をはばかるふりをしながら、小声で言った。

「あたし……あたし、備前屋のご隠居さんに、後添えにきてくれって言われてるんです」

 彼女にとってはずいぶんな秘密だったのに違いない。しかし、鯉屋利平にとっては驚くべきことではなかった様子だ。

「そいつあ、御目出度いお話じゃあないかえ、姐さん」

「とんでもない」

 にこやかな笑顔に、初吉の方が仰天した顔になり、やおら早口なってまくしたて始める。

「あたしゃあ、手前の分際なんぞ弁えておりますわいね。ちいとばかり小唄の巧いだけの山出しの大年増が、大店のご隠居の後添えになんぞふさわしいわきゃあござんせん。そりゃあ、このお話に乗りゃあね、食い扶持についちゃあ後生何の苦労もなく暮らせましょうけれども。身代目当てで好きでもないお年寄りをたらし込んだ下衆の売女だなんて陰口を叩かれるのは、この神田の初吉の面子が立ちませんや」

 これには、利平の方が意外そうに目を丸くした。

「そんなことを仰る方がいなさいますので」

 しかし。

 初吉はこの言葉ではたと頭が冷えた様子で、口元に皮肉めいた笑みを刻んだ。

「当代の備前屋の旦那、万蔵さんにとっちゃあ、あたしゃとんだお邪魔虫ですもの。長年苦労してようやく手に入れた身代を、横からかっ攫う牝狐に見えても仕方ありませんよ」

 備前屋万蔵……いや、婿養子の悲しさくらい、誰でも分かるだろう。

 いくら先代から信頼されていると言っても、しょせんは使用人上がりの身の上だ。

 その先代、すなわちご隠居の万右衛門が後添えを迎えるだけなら、新たな姑が多少の贅沢をしたところで黙ってもいよう。年寄りに茶飲み友達ができるなら、ついでに商いのことに嘴を挟む暇がなくなってくれれば願ったり叶ったりだ。

 しかし、その女が若いときたら、話はまるで変わってくる。

 万右衛門の後添えが子でも生んだら、それがもしも男児だったらと思うと、万蔵は生きた心地がしないはずだ。

 なにしろ、大店の婿という自らの足下が一瞬にして揺らぐのだ。

 誰だって我が子が一番可愛い。年老いてから授かった子供ならなおさらのこと。

 いまだ備前屋の実権を握っている万右衛門ならば、万蔵・おもと夫婦から身代を奪って、後添えの子に全てを譲るなどという筋書きを思いついても可笑しくはなかった。

「だけど、あたしもねえ。そもそも、ご隠居さん……万右衛門さんのとこにお嫁に行くつもりなんてないんです。ご隠居のことなんて、好きでも嫌いでもございませんので」

 と、初吉は不意におどけたような表情を作って、軽く肩をすくめる。

「そりゃああたしだって、ご隠居さんの小唄の上達っぷりにゃあ鼻が高かったですけども、なんもかんも三味線を間に置いただけの関わり合いでございましてね。そんなお人のところに嫁に行く道理がありゃあしませんので、あたし、ご隠居さんのお申し出はお断りしてたんです。だってあたし、備前屋のご隠居と添い遂げるつもりなんてはなからないんですもの。だけれど、何度はねつけても、ご隠居さんは諦めてくれなくって」

「なるほど、つまりは万右衛門さんの独り相撲だったという次第でござんすね、姐さん」

「あい。仰るとおりで」

 鯉屋利平の言葉に頷いてから、彼女は不意に声を落とした。

「ご隠居さんがあんまりしつこいもんだから、あたしすっかり頭に血が上っちまって、ついうっかり、とんでもないことを言っちまったんですよう」

 そのとき初吉が袖で口元を隠したのは、辺りを憚ったのか、それとも、本当に恥ずかしかったからなのか。

「ふるさとに許嫁がいる、だなんて」

 重大な秘密を打ち明ける人のように言ったあと、彼女はほっとしたように、肩で大きく息をついた。

 鯉屋利平は、女の言葉の意味を噛み締めてでもいるのだろうか、僅かの間しわだらけの口元をもぐもぐと動かしてから、また目を細めて、穏やかな笑顔を浮かべる。

「ほう、お師匠さんにゃあ、許嫁がおいでなさるのかね」

「ほほ、ほ……。そんなもの、ありゃあしませんよう。そのくらい、鯉屋の旦那ならお見通しでしょうに、意地の悪いお人でござんすね」

 しかし、初吉は皮肉らしい目つきになって、老人の羽織の肩のあたりを軽く小突いた。

 それから不意に、彼女の顔から一切の表情が消える。

「おんなじですよ。備前屋のご隠居さんも、商いの世界で長年腕を振るった方ですから、あたしがはったりを使ったんだって、たやすくお見抜きになったんでしょうねえ。諦めるどころか、かえってあたしを脅し付けるようなことを仰ったんです」

 つめたい奈落の底にでもいるような佇まいで、初吉は抑揚なく言ったものだ。

「その許嫁とやらを連れてきたら信じてやる、許嫁の顔を立てて身も引こうが、そうでないなら己との祝言の差配を進めるって」

 彼女は呆れ果てたというより、疲れ切った顔をしていた。

 確かに、備前屋の隠居ほどの人物にそこまできつく迫られたら、女の身では逃げ道はないだろう。初吉の小唄の腕を持ってすれば、このお江戸を売ってどこぞにふけても、生きるだけならどうにかなるかもしれないが、これまで師匠筋となるべくして積み重ねてきた努力と人脈は泡と消えてしまう。せいぜい宿場町での流しか、初吉の年齢では夜鷹になっても可笑しくはない。

「そいつあ、備前屋のご隠居もちいとばかし意固地になっちまったようでございますな」

 そんな生き恥を曝すのは、三味線一本を頼りにして生き馬の目を抜くお江戸を生き抜いてきた女にとって、死ぬよりつらいことだろう。

 そこまで追いつめれば初吉が頷いてくれると、備前屋万右衛門は計算したのかもしれない。いや、きっとそうだろう。人の世の算盤使いは、商いの上での駆け引きと大して変わりはしないことくらいは、商人ならば誰でも分かる。

 鯉屋利平は、垂れ下がった真っ白な眉の向こうの目をにこやかに細めて、大袈裟なくらいうんうんと頷いた。

「このわしもね、備前屋のご隠居さんとおんなじ年回りの爺でござんすから、老い先短い年寄りが一度こうと決めたら引っ込みがつかなくなる、そのお心持ちはようく分かりますので」

 苦笑い混じりの言葉に、初吉は身を乗り出しながら反論しかけ……

「引っ込みがつかないのはこっちも同じですよう。それで、そこんところをお不二ちゃんに愚痴っちまったら……ここに」

 と、やおらしおらしく顔を袂で隠した。

 まるで慎ましい少女のような仕草で、粋な出で立ちにはまるでそぐわない。もじもじと恥ずかしげに、草履の足下を入れ替えたりしている。

 そんな姿を見て見ぬふりをしながら、この鯉屋の主人・利平は、平然と微笑みながら冷めた茶を啜った。

「そいつあ、急にこんな店に引っ張ってこられて、さぞや吃驚なさったでござんしょう。それで姐さん、お不二坊はなんて言いましたんで」

 年寄りの枯れた声に促されて、初吉は怖ず怖ずと言った。

「その……あたしの許嫁の身代わりを、こちらで手配して頂けるって」

 と、口に出してから、思い切ったように……いや、妙にわざとらしく、身をのけぞらせて高らかに笑った。

「そんな夢みたいなこと、ありゃあしませんわねえ。鯉屋さんはただの口入れ屋さんですもの、あたしお不二ちゃんに担がれたんですわね。ほほ、ほ……」

 彼女は出来るかぎり快活に振る舞ったつもりだったろうが、鯉屋利平の態度は違った。

「ええ、然様でござんすよ。お不二坊の言葉は、全くその通りで」

 茶碗を置くや、全くの真顔になって、自信ありげに頷いたものである。

「ええ、仰るとおり、うちは口入れ屋でございます。お望みのお人をお望みのところへご用立てするのが、うちの商いでございますからね。その、ふるさとの許嫁っていうのに、いい塩梅のお人をご手配致しやしょう」

「ほんとのことなんで?」

「お任せくださいまし、姐さん」

 戸惑いを隠さない女に、利平は畳み掛けるように笑った。

「ですが、もちろんうちも商いでござんすので、お代は頂戴しますよ」

「いかほどで」

 その自信に満ちた態度に、初吉、いや、お初はすっかり飲み込まれてしまったのか、ぽかんと目と口を開いたまま訊ねた。

 常磐津の師匠のそんな面付きなど滅多に拝めるものではないはずだが、利平はそちらをちらりとも見ずに、わざとらしく古びた算盤を弾きながら言う。

「こいつあ、備前屋のご隠居さんに諦めを付けてもらえればそれでいいんでござんしょうから、そうですなあ、一日につき一両と申し上げてえが、このお不二坊の手前もあるしね、一日あたり銀十匁でお引き受け致しやしょう。そんなら、初吉姐さんにもなんとか工面できる額じゃあないかね」

「何日くらい、その身代わりのお人はあたしと関わりになるんです?」

「ほんの数日のことですからご安心なせえな。せいぜい長くて五日かそこらでしょう。初吉姐さんとその許嫁は、いかにも仲睦まじいって様子でいるところを、ご隠居さんにご納得頂ければいいんですからね」

 利平のいかにも商人らしい振舞いに、ついに得心したと見えて、初吉ははっきりと頷いた。

「そんなら、あたしゃ何の不足もござんせん」

 その答えに、利平は白髪頭を自ら軽く叩くと、しわだらけの顔に満面の笑みを浮かべる。

「よござんす。ここまで聞いたら、この利平はもうすっかり本腰、どんな男衆でも差配する自信がありますが、初吉姐さんのお話をもう少しだけ聞かせておくんなさい。不躾とお怒りになるのはご尤もですが、初吉姐さんの生い立ちを、もう少し詳しく教えて頂かないことにゃあ、姐さんとくだんの許嫁さんとやらの、仔細が分かりかねますからな」

「そいつあ、きっとお要り用なお話なんですか」

「ええ。もちろんですとも。と、申しますのもね……初吉姐さん。その、許嫁ってお方は、本当にいなさるんじゃあないのかい」

 老爺の穏やかな声に、初吉ははっと息を飲んだ。

「ええ、そうです……そうでした。でも、むかし、むかしの話でねえ」

 皺の奥の目が、全てを見透かしているかのように彼女へと注がれている。

 観念の苦笑いが、初吉の頬に浮かんだ。

「洗いざらいぶちまけますよ。ですが、ほんとに下らない話なんで、鯉屋の旦那、呆れっちまったら、正直にそう言っておくんなさいまし」

「滅相もない。隅から隅までお聞きしましょうとも」

 鯉屋利平はそう頷き返すと、帳台から小ぶりだが分厚い帳面をおもむろに取り出し、客の物語を一言一句書き漏らすまいとするように、驚くべき早さで筆を走らせ始めた。

「あたし、田舎のね……渋谷村の水飲み百姓の娘に生まれましてね。弟と妹が八人もおりやした。物心ついたときから下の子の面倒を見て、ちいとばかし分別がつくようになったら田んぼで土をこねてました。飯の支度に鶏の世話にって、毎日毎日、食うや食わずで骨の髄までくたびれ果てるまで働いたもんです」

「姐さんのお年なら、二まわりほど昔ってところかね。日照りやら大水やらで、渋谷村のあたりもそりゃあ大変だったろう」

 利平の相槌に、初吉は悲しげに笑った。

「ええ、そうです。そいつあもう、大変でしたよ。そんでも……あの頃は、しあわせだった」

 そうして、彼女の思い出話が始まった。

「うちの近所にね、どっから引っ張ってきた屋号かは知りませんが、植松っていう小さな植木屋がありましてね。そこの倅の、菊太郎って子が、あたしの二つ上で」

 当時の渋谷村と言えば、上様ご天領以外は、ほとんどが手つかずの野っ原と実りの少ない田んぼだった。余った土地に、他所から流れてきた植木職が住み着いて、細々と植栽の手入れなどで生計を立てていたものである。彼女が語った植松という一家も、染井や巣鴨あたりからはじき出された植木屋だったのだろう。

「よく働く子でねえ。まだ餓鬼なのに、親の商いを手伝って、庭木の手入れから盆栽まで、たいそう上手にやっておりましたよ。手先が器用で、気だても良くて、在所じゃあ本当に評判の倅だったんです。だけど、それを鼻にかけたりもしなくてさ」

「仲がおよろしかったんですねえ」

「ええ……いつもあたし、菊のことを頼りにしていました」

 と、利平の言葉に、初吉は見る見るうちに目を潤ませて、それでも泣くのを拒むように、ひとつ大きく息をついた。

「菊は……菊太郎は、本当によくしてくれたんです。おなかの虫を鳴らしながら弟をあやしているあたしのところに、小さな握り飯を持ってきてくれたりしたもんですよ。手前のところもそんなに豊かじゃあないっていうのにねえ。親に知られないように、飯を食ってるふりをして懐に隠した米粒を握ったもんだから、潰れて硬くなって、ひどいにおいがした代物だけど、あたしはほんとに有難くて、ほんとに嬉しくて」

 肺臓の中身と一緒に、彼女は心の内まで吐き出したのかもしれない。

「うまいようって、あたしが握り飯食って笑うと、菊も笑ってくれましてね」

 初吉はそのときと同じように悲しい笑いを浮かべながら、ついに打ち明けた。

「あたし、菊のことが大好きだった」

 片田舎の小娘が、心中立てなんて言葉は、きっと知らなかっただろう。それでも彼女は、夢を見ていたのだ。はっきりした、美しい……何の保証もない、浅はかな夢を。

「姐さん、そのひとに惚れていなすったんだね。そんな好いたお人と、どうして一緒にならなかったんです」

 とうとう耐えかねたようにお不二が声をあげたが、初吉は何もかも諦めた様子で、もう一度、寂しげに笑った。

「死んじまったんだよう」

「死んだ……」

 お不二は大きな目を見開いてから、ぱちぱちと瞬かせた。まるで、たった今耳に入ってきた言葉をあたまから追い出そうとするかのように。

「ああ、そうさ。菊太郎は死んじまった。庭木の手入れで呼ばれた先で、松の木から落ちて。戸板に乗せられて運ばれてきたあいつを、あたし、見たんだ。右の額が、熟れすぎた果物みたいに割れちまってさ」

 しかし、初吉は少女に向かって、言い聞かせるように呟く。

「真っ赤だったよ。あいつ、真っ赤だった」

 そのとき、彼女はどんなに泣いただろう。

 泣いて泣いて、あんまり泣きすぎて、もう涙も枯れ果てたとばかりに、初吉はにっこりと笑った。

「だから、あたしゃあずっと独り身なんです」

「なるほどねえ」

 鯉屋利平は、得心した様子で頷き返す。

「わかりましたよ、初吉姐さん。つまるところ、お前さんはその菊太郎さんに筋を通したい。まことの心中立てでござんすね。だけれど、言い交わした相手がいると啖呵を切った手前、当の許嫁、その菊太郎さんを目の前に連れて来なけりゃあ、備前屋のご隠居さんは得心なさらない」

「あい」

 初吉が小さく頷くと、利平は女の方へとわずかに身を乗り出して、囁くように言った。

「なら、その許嫁とやらのご代役、こちらが手配致しやしょう」

「鯉屋の旦那。こんな荒唐なお話、まことに受けてくださいますんで?」

「もちろんですともさ」

 不安げな初吉に、この白髪の老爺はただ穏やかに頷き、女の手を取って軽く撫でただけだ。

 たったそれだけの仕草に、初吉をここに連れてきた娘は、悪戯っぽく微笑む。

「これで万事うまくいくわよ、初吉姐さん」

 そのとき初吉は……何故だろうか、鯉屋利平とお不二のまなざしに、たいそうな頼りがいというか、疑いようのないまことがあると感じた。

 ほんとうに、何もかもがうまくいく。

 そう信じていいのだと、いや、信じなくてはならないのだと、彼女は腹を決めた。

「でしたら、さっきのお話どおり、まずは五日ばかりのお代で、銀五十匁お支払いします。長引くようなら、日割りでお願いしますよ」

「承知致しましたよ、初吉姐さん」

 そう安くはない額を、まるで汚いものでも捨てるように板場に投げ出して、初吉はその小さな口入れ屋を出て行った。

 じっさい安いものだ。

 たかが金で、あたしのこの気持ちが片付くものなら。

「だけど、そんなこたあ、ありっこないやねえ」

 晴れ渡った午後の空を見上げてから、彼女はひとつ愚痴て、悲しげに笑った。


 それから一日、また一日が過ぎた。

 鯉屋からは何の連絡もなかったから、初吉はなかば自棄がちな気分に陥っていた。このまま備前屋のご隠居さんの後添えか囲い者にでもなるのが、あたしの一番いい道筋だって、誰も彼も思っているんだ。

 鯉屋の旦那も、お不二ちゃんも、あたしが年寄りの茶飲み話の相手になるのがちょうどいいって、そう思ったかもしれないねえ。

 初吉のいつもながらの気丈さを残しているのは、枕元にずいとばかり沈められた剃刀のみだった。

「いざとなったら、あたし、やってやるからね。菊さん」

 喉笛でも手首でも、いつでも切り裂けるように。

 あたしは、あたしの手で、ちゃんと死ぬ。

 布団の下で、その刃物は静かに、輝きをひそめていた。


 そんなふうにひとり思い詰めて、弟子筋も皆が案じるほどにやつれた彼女のもとに、不意な来客があったのは、初吉が鯉屋を訪れてからちょうど三日後の、まだ靄の立ちこめる明け方のことであった。

「もし……もし」

 と、板戸を軽く叩く音とともに、朝ぼらけの中にいるであろう人物は、低く枯れた声で訊ねた。

「もし、ちいとお尋ね致しやすが、こちら、お初さんの……いえ、初吉姐さんのお住まいで間違いのうございますか」

「あい、然様で」

 寝床から目をこすりながら起き出した初吉は、前の晩もひどく酔わねば寝付けなかったのであろう、ひどく嗄れた声だった。

 戸板の向こうにいるのが男だと気付くと、彼女はそれまでの宿酔が嘘のようにしゃっきりとして、寝間着代わりの浴衣の前を整えながら訊ねた。

「お前さん、誰だえ」

「あっし、鯉屋の旦那さんから万事申しつかって参上しやした。兎も角、ここを開けておくんなさい。人目についちゃあいけやせん」

「ああ、そうでしたか」

 初吉はほっと胸を撫で下ろした。ようやく、待ちに待った相手がやってきたのだ。

 これであの煩わしい爺さんから逃げられる。鯉屋さんを頼って良かったと、心から思った。

「いま開けますよ」

 と、板戸と格子を内から開けながら、初吉は不意に眉をしかめた。

「さ、早く上がって下さいましな。ご近所さんにこんな話、聞かれたら嫌だもの」

 相手の言う通りだ。世知辛い長屋暮らしではないにせよ、井戸端の女衆の噂話に一度乗ってしまったら、尾鰭がついて取り返しがつかなくなる。

 男は、大人しく従い、我が身を土間へと滑り込ませた。

「へい、そんじゃあ遠慮なく」

 後ろ手に戸口を閉めて微笑んだ、その姿を見て、初吉は言葉を失った。

「……えっ」

 息を飲んでいる彼女に、男は優しげな笑みを浮かべて頷く。

「ああ、お前さんが初吉姐さんでござんすね。鯉屋の旦那さんから万事承っております。あっし、お望みのとおり、菊太郎さんってお方のお身代わりで参りました」

 まだ周囲を憚ってはいるが、穏やかで親しみのある声音で、彼は名乗った。

「銀次郎と申しやす。お見知りおきを」

「ええ、はい……銀次にいさん」

 初吉は戸惑った。というよりも、ひどく狼狽していた。

 彼の声が、まるで喉のいい浪曲師の歌のように、頭の上の方を通り過ぎてしまって、耳で聞いているような気がしない。

 それほど心地よい声音だった。渋谷村あたりの、江戸弁崩れの話し方も、ひどく懐かしかった。

 何より、銀次郎という男の姿が……

 年の頃は三十路も半ば、藍染めの『植松』の屋号の入った半纏羽織、肩には植木職の道具入れを担いで、よく日焼けしたがっしりした体と四角い顔、その額には大きな古傷の痕が、醜く残っている。

 もしも菊太郎が生きていたら、きっとこんなふうだったろう。きっと、こんな男になっていたはずだ。そうしみじみと感じて、胸がいっぱいになる。

「さ、どうぞ、こちらへ」

 と、囲炉裏の方へと男を案内しながら、初吉は実に満足していた。

 さすが鯉屋の旦那だ、どこからどうやって、こんなにぴったりのお人をお探しなさったのかはあたしには分からないが、本当にいい仕事をしてくれなさった。銀五十匁なんて安いものだ、一両払ったってよかった。

「あれまあ、すみませんねえ、こんな格好で。いま、ちょいと身支度だけしてきますから、それからお茶なんぞいかがですね、銀次にいさん」

「そいつあ有難え。渋いのをお頼みしますよ」

「あい」

 菊太郎が渋茶が好きだったことまで、この銀次郎さんって人は知っているのだろうか。でも、そんなことを言った覚えはこれっぽっちもないから、きっとたまたまなんだろうね。

 寝間着から絣へと手早く着替えて、初吉は不意に姿見の覆いを外した。

 帯の位置が少し気に入らない。襟元も開き過ぎのような気がする。いつもどおりに着たというのに。

 そのあたりを直して、ついでに髪を整え、口元に紅だけさすと、彼女はいそいそと台所へ行った。

「朝餉はどうします、銀次にいさん」

「勿体ねえ。昨日の冷や飯でも頂戴できりゃあ上々でさ」

「それじゃあこっちが気がとがめますよ。ちょうど、頂き物の卵があるんです。葱と卵の雑炊に漬け物ならどうです」

「そいつあいい」

 初吉は銀次と快活に喋りながら、竃に土鍋をひとつ置いた。

 壁の吊り下げ篭から卵をふたつ取り出し、手近な葱を適当に切り刻み、それを冷や飯と鍋にぶち込んだだけだが、味付けを味噌にしたのは、渋谷村では当たり前だったおじや飯を出すのが、彼にはふさわしいと思ったからだ。それから茄子のぬか漬けと梅干しを小皿に添えた。

「こいつあ美味そうだ」

 と、鍋の煮える香りを嗅ぎながら、銀次郎が不意に言う。

「ところで、初吉さん。その、妙に他人行儀な口ぶりはやめておくんなさい。お前さん、あっしの幼なじみの許嫁ってことになっていやがるんですから。こんなやりとりでも、備前屋のご隠居さんの耳に入ったら困る」

「そいつあそうでござんすね」

 初吉はそんな当たり前のことにようやく気付いて、くっくっと喉の奥で笑いを噛み殺してから。

 図切るかぎりの作り笑顔を浮かべて、「然様で」と言い放った。

「なら、銀次にいさん。あたしのことは、初と呼んでおくれな」

 当意即妙に、男も頷く。

「ああ、そう呼びましょうとも。おいらのことも、菊太郎と」

 初吉は笑顔で頷き返した。

「あい、そうしますよ」

 幼なじみの頃に言い交わした間柄なら、そのくらい打ち解けた口調の方がいい。二人は既に、自分の演じるべき役割を理解していた。

 このお人が、あたしの菊太郎。

 懐かしい、いとおしい、優しい、あの菊太郎の身代わり。

「だけど、お前さん、菊にはちいとも似ていないや」

 初吉……いや、お初の口元に浮かんだのは、なんとも苦い笑いだったが。

 それを受けても、銀次郎の表情は穏やかで、彼女の体をつつむように寄り添い、そのまま初吉を座布団の上に座らせた。

「似ていようがいまいが、備前屋のご隠居が得心して下されば、それでいいんじゃあないか。なあ、お初」

「ええ。そうです、そうです……銀次にいさん。いえ、菊さん」

 まだぼんやりとしたところの残るお初の答えにも、銀次郎は十分満足したように大きく頷いた。

「おいらもできるだけのことはするから、お初もせいぜいうまく立ち回っておくれ」

「あい……」

 蚊の鳴くような声で頷くのが精一杯だった。

 初吉、いや、お初には、いま目の前にあるのが嘘、何もかもが作り物だと知っていながら、生まれて初めて味わう幸福感に蝕まれつつあった。

「なら、飯にしようよ。おいら、腹が空いちまってさ」

「あい。ちょうど卵がいい頃合いだから。熱いから気をつけておくれ」

「お前の飯は美味いなあ、お初」

 ふたりは質素な雑炊を、昔のように互いの茶碗に取り分けて、ふうふう言いながら食べた。

 湯気の立つ飯を勢いよく食らう菊太郎こと銀次の姿に、初吉は取り憑かれでもしたかのように目を奪われた。視線を逸らすことなどできなかった。

「菊さん……」

 黒目がちの大きな目から、きらきらと涙が流れ落ちた。

 生きていてくれたら、ちょうどおなじくらいの年頃。

「お前さん」

 自分のことをひとりおいて死んでしまった菊太郎を思ったら、いくらでも泣けた。

「どうしたい、お初。火傷でもしたかい」

 銀次郎はあくまでも優しく、初吉のことを気遣ってくれた。

 本当に、このひとが本物の菊太郎ならいいのに。

 初吉はそんなことを考えすらした。


 翌日から、菊太郎を装った銀次郎は、近所の一軒一軒に顔を出して回った。

「ちょいとお邪魔いたしやします、ご挨拶に伺いましたんで。あすこに住んでおりやすお初の……いえ、初吉の許嫁で、渋谷村植松の菊太郎と申します。どうぞ、ひとつよろしゅうに」

「えっ……」

 と、挨拶を受けた者たちはめいめいに当惑した声をあげたが。

「へえ、お初とは渋谷村の同郷で。おいら、このたび親父から商いの方を任されましたので、ようやくお初と祝言をあげることになりましてね。ああ、いえ、商いと言っても、みなさん屋号でお分かりでござんしょうが、うちんとこは、小さな植木屋なんで」

 菊太郎と名乗る男がにこにこと、実に人の好さそうな笑顔で……いや、いかにもしあわせそうに言うものだから、誰もがその言葉を信じた。

 人々が額のひどい傷跡に目を奪われると、菊太郎はいかにも恥ずかしげに俯いたものだ。

「ああ、この傷でござんすね。お見苦しいものをお目にかけて申し訳ござんせん。餓鬼の頃に、植木から落ちたのでさ」

 彼は、そう言いおいてから、またぱっと輝くような笑みを浮かべた。

「こんなみにくい顔のおいらのこと、お初はずうっと好いていてくれてるんで。あんな美人が、他にいい男がいくらっでも見つかりましょうに。あいつ、おいらじゃなきゃあ杯を交わすのは嫌だって言うんでさあ。……おっと、こいつあとんだ惚気話しちまった」

 聞いている誰もがつられて笑ってしまうような、なんともあどけない話だった。

 そうして、初吉のまわりには、あっという間に噂が流れた。

「あすこの常磐津のおっ師匠さんは、ふるさとの植木屋とくっつくんだとさ。これまで大店の旦那衆を撥ね付けてたのは、そのいい男に心中立てしていたからなんだって」

「うちにも挨拶に来たよ。ありゃあなかなかの色男じゃないか。額にひどい傷跡はあるけれど、目鼻立ちが良くて……」

「ちょいと、あたし見たんだよ。初吉姐さんが、田舎ものらしいが風采のいい男と連れ立って、そいつあ嬉しそうに弁天様にお参りに行ってるのをさあ。ありゃあもう、姐さんのおなかにはややこがいるね。あたしの目に狂いはないよ」

 女たちの井戸端の立ち話は、まことしやかに、実に楽しげに繰り広げられる。それがいいことでも、悪いことでも。人から人に伝わるうちに、派手に肉付けされていくものだ。

 それらの華やかな噂話が備前屋のご隠居の耳に届くのにも、それほど時間はかからなかったと見える。

 初吉がはじめ恐れていたことが、すぐに最高の結果になって返ってきたのだ。


 稽古にかこつけてやってきた備前屋万右衛門が、厳しい顔で切り出したとき、彼女は内心ほくそ笑んでいた。

「初吉や。あの噂はまことなのかえ」

「とせんな噂でござんすか」

「お前さんが、男と……いや、許嫁と暮らしはじめたと、わしは聞いたぞ。まことか」

 その問いかけに、彼女ははっきりと、自信に満ちた笑みを浮かべて頷いた。

「あい。まことでござんす、ご隠居さん」

 さすがですよ、鯉屋の旦那。何もかもご存じなのでござんしょう。

 銀次さんは本当によくやってくれています。

 あたしの菊太郎が、まるで生き返ったみたいだ。

 そう心から思ったからこそ、堂々と言えた。

「ご隠居さんが仰ったんですよ。言い交わした相手が本当にいるならここに出せと。だからあたし、言い交わしたお人をこのお江戸まで呼び寄せたんです」

「だったら会わせてくれ。わしのこの目で確かめたい」

 それでも、備前屋の隠居は諦めなかった。

「しかと確かめたなら、潔くお前のことは諦めよう。だが、ただの噂か、はったりだったのなら……」

 と、備前屋万右衛門が言いかけたとき。

「はったりなんて滅相もござんせん。備前屋さんのご隠居に、そんな真似をする度胸なんざ、おいらにゃあ、はなっからございませんので」

 すらりと音をたてて、奥に続く襖が開け放たれた。

 その先には、肩幅の広い男がひとり、恐縮しきった様子で畳に頭を擦り付けている。

「このたびは、お目もじ頂けましてありがとうござんす、備前屋のご隠居様。おいら、初吉の……いいえ、このお初の許嫁で、菊太郎と申します」

「お前さんが……」

 備前屋のの隠居・万右衛門はそれきり言葉を失って、何度か上がる苦いつばを飲み下した。

 現れた男は、座布団も敷かず、大大名でも仰ぐように平伏して、屋号だろうか、白い円の中に松の字を染め抜いた羽織を身に着けている。

 もちろん大判小判ならば、備前屋万右衛門の方が明らかに勝ち目があっただろう。

 しかし、万右衛門は急に落ちつかないというか、尻の下に虫でも入り込んだような気分になった。

「いや。それはちょいと、都合がよすぎやしないかね、菊太郎さんとやら。わしが後添いにと言い出すまでは、初吉はお前さんのことなんぞ一度も口にしたことはなかったのだよ」

 そんな万右衛門の嫉妬混じりの疑心をまるで気にしたふうもなく、ただ大店のお方を敬うような態度で、菊太郎と名乗る若者は続ける。

「へえ、仰るとおりで。おいら、渋谷村のつまらねえ田舎者でござんすから、この花のお江戸で弟子まで取ってるお初のことは諦めるつもりでおりやした。備前屋さんのご隠居と張り合うつもりなんざ、はなからございません。だけども……」

 と、菊太郎はそのときになってようやく顔を上げ、まっすぐに備前屋のご隠居の目を見て、訴えるように、いや、懇願するように言ったものだ。

「おいら、こいつに……お初に、誰より幸せになってほしいんですよう。こいつ、餓鬼の頃から日々の食い物にも苦労して、弟妹の面倒を必死で見て、田畑で働きづめでした。なのに、とうとう親から売られてさあ。二束三文だったけど、たったそれだけでも、お初の家じゃ……俺らの村じゃあ大金だった」

 彼の口から悲しげに語られる初吉……、いや、お初という女の半生は、実に悲しく、実にありふれた、よくあることにすぎない。貧農の娘たちは当たり前のように売られる、たった数文で我が身を売るために。

 だが、菊太郎はそんな恐ろしい思い出の中で、不意に口元に笑みを刻んだ。

「そんな様からどんな地獄に堕ちたっておかしくねえ、夜鷹かどぶ板女郎だっておいら驚かねえってえのに。ねえ、ご隠居様、お初は大したもんだと思いませんか。このお江戸で、女の身一つ、手前の器量だけで身を立てて、常磐津のおっ師匠さんなんてさ、ようやく人並みな暮らしができるようになって。今の今まで、つらいこたあ山ほど味わっただろうに、こいつときたら、いつも笑っていやがるんです。だから、この先もずっと、こいつにだけは笑っててほしいんですよう」

「菊さん……」

 と、思わず彼に寄り添った初吉の肩を抱きながら、菊太郎は呻くように切り出した。

「備前屋のご隠居。いえ、万右衛門さん。この菊太郎、一生のお願いがごぜえます」

 それは魂の叫びだと言ってもよかった。

「どうか、どうか、金輪際お初を泣かせないって、おいらに約束しておくんなせえまし。そんなら、おいらは喜んで身を引きます。おいらみたいなしみったれた田舎の植木屋より、大店の後ろ盾のあるお人の方がずっと安心だ。いくらだって贅沢させてやれるでしょう。そのくらい、おいらだって分別がつきます。だから、後生ですから、このお初を幸せにしてやってください、備前屋のご隠居。お願いいたします、お願いです」

 菊太郎は両手で顔を覆っていたが、指の間からぼろぼろと涙がこぼれている。

「いやだよう、菊さん」

 泣き崩れる男の方に取りすがって、お初は自らも嗚咽を耐えることが出来なかった。

「ねえ、お願いだから、そんなこと言わないでおくれ、そんなひどいこと。あたし、あんたがいてくれればそれでいいんだ。あんたがいてくれたら、どんな暮らしだってしあわせなんだよ。お銭なんていらない、どんな貧乏でも、どんなことでも辛抱できる」

 お初は彼の胸元に顔を埋めて、そのまま泣き崩れた。

「だから、あたしから離れるなんて言わないで」

 そのとき、彼女は確かに感じた。

 まだ幼かった頃、菊太郎の体から漂ってきた木々の香り、松の樹脂の甘さや杉の葉の爽やかさ、苔の瑞々しい弾けるようなにおいを。

 このひとは菊さんだ。

 お初は何もかも忘れて、そう信じかけていた。

 そして、不意に男の体を抱きしめて、悲鳴のように叫んだ。

「菊さん、もうどこにも行っちゃあいやだよう」

「泣くんじゃねえ、お初。おいら、ここにいるじゃねえか」

 菊太郎のはずの男は、傷のある顔に優しい、穏やかな笑みを浮かべながら、お初の乱れた髪を直すように、いや、童女の髪を整えるがごとく、繰り返し彼女の頭を撫でてやっていた。

「どこにも行かねえよ。お前が他の人の嫁になっても、おいらあ、お前のことだけ思っているから」

「菊さん、いやだよ。あたし、あんたのお嫁さんになるんだ。約束したじゃないか」

「あんなの、餓鬼の自分の約束事だ。反古にしたって、おいらは恨まねえ」

「反古にされたら、あたし恨みますよ」

 お初と菊太郎の会話は、互いのまなざしや口調、ちょっとした仕草のどれひとつをとっても、ただひたすらに相手の将来を慮っているようにしか感じられなかった。

「あたし、あんたが大好きなんだよう」

 万右衛門は面食らった顔で、ただぼんやりと目の前の二人を見ているだけだ。

 やがて彼は、ぽんと両の手を打ち鳴らして、お初と菊太郎へ近づきながら言った。

「そうかい。そうだったんだね」

 しわだらけの顔には、何もかも納得尽くとでも言いたげな笑みと、ついでにかすかな涙も光っていた。

「ようく分かりましたよ。お前さんがたが、どんなに互いに好きおうているのがね」

 どんなに老いぼれていても、否、老いらくの恋に目が曇っていようとも。

 このお江戸日本橋、将軍様のお膝元に一代で財を成した男の器量は、やはり大きかった。

 備前屋万右衛門は、畳に押し付けられた初吉の手にそっと触れてから、自らも深々と頭を垂れた。

「初吉。いや、お初さんや。無理を通そうとして、すまなかったね。こいつあ独り相撲どころか、年寄りの冷や水じゃったよ。まったく、倅にどれだけ笑われるか知れたものじゃあないわい」

 それから、何もかもを察して、いや、何やらせいせいとした様子で、かれは皮肉っぽく笑いながら去った。

「菊太郎さんとやら。このひとを大事にな」


 とはいえ……

 備前屋万右衛門が破れた恋のために残したのは、情に満ちた一言だけではなかった。

 かれは、今は隠居の身とはいえ、備前屋の大看板を背負っていたほどの男だ。

 きっぱりと初吉とは縁を切る、常磐津の稽古も一切やめると倅夫婦に宣言し、世話になっていた芸事の師匠の祝いだからと金二十五両と、三三九度の杯に使ってくれろと朱塗りの角樽を手配して、わざわざ番頭に届けさせた。

 見事な引き際だ。

 これでもう、しつこく年寄りから言い寄られることもなくなる。

 もう何の憂いもない。そう思えば、身も心もしゃっきりとして、気分は浮かれるはず、だったのだが。

 なんだか、落ちつかない。

 備前屋の番頭が帰ってから少しして、かれの置いていった小判を眺め下ろしながら、奇妙で不快な感覚に、初吉は苛立っていた。

 ただ正座しているだけでもあしのうらがぴくぴく引き攣るような、いや、膝から下が自分のものじゃあないような気がする。

 それでも、いま分かっていることを口に出さずにはいられなかった。

「備前屋のご隠居さんは、得心して頂けたようですね」

「ああ、そうだよ」

 菊太郎も、当たり前のように頷く。

「これでお初も肩の荷が下りたろう。おいらもほっとしたよ」

 その眩しいばかりの屈託ない笑顔に、初吉はなんとも言いようのない内心の恐怖を押し殺しながら、平静を装って言った。

「ほんによござんした。菊さんも気を張ったでしょう。冷やだけど、おひとつどうです。気がほぐれますよ」

「こいつあ有難え。一口だけもらうよ」

 初吉の差し出した茶碗を受け取って、かれは一気に酒を干した。

「ああ、うまい。さすが、お江戸の酒ってえのは、だいぶんすっきりしてるんだねえ。おいら、こんなの飲むのは初めてだよ」

 かれはそう言いながら、少しだけ恥ずかしそうに笑った。ちょいとした田舎者、すなわち渋谷村の出自なのを、自ら憐れんででもいるかのように見えた。

 その、伏し目がちに視線を逸らす姿に。

 初吉は、愛しい人の面影をはっきりと重ねた。

 菊太郎はいつもそうだった、ひとの目を真正面から見られずに、そっと眼差しを落として微笑む。その控えめな笑顔が、彼女には眩しくて、いとおしくて堪らなかった。

 あたしの菊さんが帰ってきてくれたんだ。

 ようやく、心の底から信じた。いや、感じたと言った方がいいかもしれない。

「あたしも一杯、付き合ってもいい?」

「もちろんだともさ」

 脅えながらも甘えてみせたのは、彼女の理性の、最後の抵抗だった。

 しかし、優しく肩を抱き寄せてくれた腕に、初吉は自然と身を委ねていた。

「おいしい」

 男の胸はあたたかく、懐かしいにおいがした。

「ああ、ほら。ごらんよ、お初。綺麗な月が出ているよ」

「本当に綺麗……」

 格子戸の向こうに、満月には少し足りないくらいの月が出ている。

 その青い光を見たとき、初吉は思わず身震いした。

 あの頃のことを思い出して。

 ただ生きるのに必死だった。

 それだけじゃあない。

 あたしは、妹や弟たちを、血を分けた親から守るのに必死だった。

 忘れてしまいたい。まるで無かったことにしちまいたい。

 そのくらい、辛くてみじめな毎日だった。

 お父つぁんは、あたしたち娘のことは、どれも女郎屋にいくらで売れるかだけの目で見ていたし、おっ母さんは、弟たちのことをただの穀潰しだとしか思っていなかった。

 いいや、穀潰しどころか塵滓だ。あたしは見たんだ。おっ母さんが、孕んだ子が生まれてきちゃあ困るからって、真冬の氷の張った井戸水に腹まで浸かって、あたしの弟か妹かを流しちまうのを。

 何もかも、反吐が出る。

 思い出すだけで、鳥肌が立つのだ。

 だが、菊太郎との思い出だけは違った。

「お前、昔もこうしてさ、おいらの握った飯を頬張りながら、うめえうめえって泣いたよな」

「うん」

「あの頃から、お前は何も変わっちゃあいねえ。おいらも、なあんにも変わらねえよ」

 初吉の、いや、お初の人生の中で、ほんのわずか、幸せだった子供時代を、こうして受け入れてもらえることで、彼女はふたたび、あの幸福な時に戻ることが出来たのかもしれない。

「菊さん」

 だからこそ。

 こうしなくてはならないような気がした。

「菊さん。ねえ、菊さん」

 お初は自ら襦袢を解いて、かれのてのひらを胸元へと誘った。

「お初。いけないよ」

 面食らった体で咄嗟に手を引っ込めたかれに、お初はついに、必死の思いで訴えた。

「菊さん。あんたが本当の菊太郎じゃないってことくらい、あたしにも分かってるけど」

 その切れ長の、黒目がちな目に、いっぱいに涙が溜まって、今にもこぼれ落ちそうだった。

「でも、お願いだよ。菊さんのつもりで、一度だけでいいから、あたしを抱いておくれな」

 女の身で、そんなことを口にするのは、どんなに勇気がいったことだろう。

 しかし彼女は、何の迷いもなく続ける。

「それっきりでいいの。あたし、菊さんにどんなに蔑まれてたって構わない。だって、あたしなんて、そもそも金持ち相手に三味線鳴らしてご機嫌とってる下衆な女だもの」

 夜鷹や溝板女郎にならなかったのが不思議なくらいだ。

 進んで体を売ったことは無かったが、無理強いに手篭めにされたことはあった。

 自分はとっくに穢れている。汚れきった生き様に、とっくに慣れてしまっていた。菊太郎にふさわしい女だなんて、とても思えなかった。

 だからこそ。

「お願いだよ、菊さん。たった一度っきりでいいんです。大好きなひとに、あたしとあたしの持ってるもの、何もかんも、あげたいんだ」

 それが初吉の答えだった。菊太郎への心中立て、その願いがかなうなら、命だって惜しくはない。

 しかし、当の『彼』は、優しい笑みを浮かべながら、困ったように首を振った。

「そんなこたあできねえ」

「どうして」

「できねえよ。だって」

 彼は当惑と後悔と、名前のない様々な思いを瞳の奥に巡らせながら、お初の白い手をそっと握った。

「お初。おいら、お前が大事なんだ」

 その手を握り返すと、彼は優しい笑顔のまま、穏やかな声で語りかける。

「大事で大事で、どうしたらいいかわかんねえくらいだよ。だから、さ。お前とそうなるのは、きっちりと祝言をあげてからだ。れっきとした夫婦になってからでなけりゃあいけねえ。でなきゃ、お前のお父つぁんとおっ母さんに顔向けできねえ。そうだろ」

「菊さん」

 お初の目に、みるみるうちに涙が浮かんだ。

 その肩をしっかりと抱き寄せて、彼はきっぱりと言う。

「晴れて祝言をあげたら、お前も立派な植木屋の女房だい。お前、花のお江戸に慣れっちまってるだろうから、田舎の暮らしなんかすぐに飽きちまうかもしれねえけど」

「いいの。あたし、あんたといられるなら、それだけでいいのよ」

 仕舞いの方は冗談めかした言葉にも、お初は真剣なまなざしのまま頷いた。

「ほんとよ、菊さん」

「ああ。分かってるよ」

 と、彼は、お初の肩を抱いたまま、布団の方へと歩みを進めて、彼女の耳友でそっと囁く。

「だから、今夜はこれだけで勘弁してくれ」

 言いざま、彼は女の体もろとも布団へと倒れ込み、女の頭を自分の胸元に引き寄せて、そのまま目を閉じた。

「うれしい」

 浴衣越しに伝わってくる、生身の体のあたたかさに、お初は陶然とした。力強く抱きしめられ、彼にぴったりと寄り添って、今まで味わったことのない満ち足りた気分と、安らぎを感じていた。

 彼が優しく、頭を撫でてくれる。

「おやすみよ、お初」

「あい、菊さん」

 お初はその夜、何年ぶりか……いや、生まれて初めてかもしれない、穏やかで満ち足りた眠りを味わった。

 悲しい、辛い過去を夢に見ることはなく、ただ、幸せだった。


 やがて、目が覚めたとき。

「菊さん……菊さん?」

 彼女は、寄り添っていたはずの男がいないことに気付いた。

 はじめは、彼がちょいと井戸端まで顔を洗いにでも行ったのだろうと思っていた。いや、そう思おうとしていた。

 だが、あたりを軽く見回しただけで、お初はすぐに悟った。

「菊さん! どこなの!?」

 布団はすっかり冷えきっていた。そう、まるで、誰もいなかったかのように。

 戸板は内側から心張り棒がかけられ、男物の着物や履物は跡形もなく、食器も酒器も一人分が台所に整然と置かれ、土間には女物の履物だけ。

 菊太郎の、いや、初吉以外の誰かがいた気配すらない。

「菊さん、菊太郎、どこ行っちまったの!?」

 早起きのご近所さんには容易く聞き取られてしまうほどに声を張り上げてみても、結果は同じだった。

 独り身を貫いていた頃と、全く同じ景色が広がっていた。

「菊さん……」

 彼が消えてしまった。

 あたしの菊太郎が。

 そう思ったら、ろくに身支度も整えないまま、初吉は駆け出していた。


 さっきの、悲鳴にも近い声を耳聡く聞いていたのであろう、このあたりでは一番の早起きで地獄耳のおろくという婆さんをつかまえて訊ねる。

「おやあ、初吉姐さん、今日は随分お早いね」

「菊太郎さんを見なかったかえ、おろくさん」

「いやあ、あたしゃ知らないねえ」

「さいですか。慌ただしい頃合いに邪魔して悪かったね」

 と、婆に逆手をつかませて、

「もし菊さんのこと、ちょっとても見たり教えてくれたら嬉しいねえ」

「こいつあどうも、ありがとうござんす」

 だれに聞いても万事にこんな調子で、かといって市井の人たちが、菊太郎をことさらに匿い立て、隠しとおす理由もない。

「備前屋のご隠居が、まさかかどわかしなんて……」

 そんなおそろしいことまで脳裏をよぎったが、備前屋万右衛門本人はもう年だ、若い植木職と言えど簡単には拉致できないだろうし、食い詰め浪人者を集めて襲撃するとなれば、こんな数日で腕利きが雇えるはずもない。ましてや、初吉の家は綺麗にというより、度を超したくらいに完璧に戻されていたのだから、常磐津の稽古場以外には入ったことのないご隠居さんには無理な芸当だろう。


 何がなんだか分からない。

 分かっているのは、菊太郎がまるで霞かなにかのように消えてしまったということだけだ。

「菊さん、菊さん!」

 それでも彼のことを諦めきれなかったお初は、彼の名を叫び続けて、神保町界隈を丸一日彷徨い歩き続けた。

 足が棒のようになって、いつもの洒落た着こなしは嘘のようにくたびれ果てた様子で、ふと。

 お初は不意に、ふと思い当たった。

 この、何もかもの仔細を説明してくれそうなお人が、たった一人だけいる。

 あたしの頼みを聞いて、菊太郎を……死んだはずの菊さんをこの世に呼び起こしてくれたひとが。

「鯉屋の旦那」

 よろよろとした足取りで、お初が鯉屋の暖簾をくぐったとき、彼女の声はすっかり嗄れ、髷は崩れて、どこに履物を落としてきたのか、裸足は血まみれだった。

 しかし、そんな女の姿を見ても、鯉屋利平は顔色一つ変えず、人好きのする丸顔ににっこりと笑みを浮かべて、当たり前のように迎える。

「ああ、こいつあ初吉姐さん。備前屋のご隠居さんは、首尾よく追っ払えたそうでござんすね? そいつあ何よりでござんした、上首尾上首尾」

 かれの満足げな態度に、初吉は一瞬怯んでから、喉から絞り出すような調子で叫んだ。

「備前屋のご隠居のことなんざどうでもいいんですよう」

 彼女は実際、ほとんど悲鳴に近い声で続ける。

「菊さん、あたしの菊太郎はどこに消えちまったんです」

「何を仰っていなさるので?」

 鯉屋利平は、むしろきょとんとした様子で目を見開く。その表情に苛立って、お初は金切り声をあげた。

「あんたが寄越してくれた菊太郎ですよ!」

 そう癇癪を起こしてから、彼女は体じゅうの力が抜けたように、鯉屋の土間にへたり込んでしまった。

「ああ、そいつあ、お心得違いでござんすよ、姐さん」

 利平の声が、お初にはどこか遠くからのもののように聞こえていただろう。

 かれは、お店の一番目立つところに張り出されている『よろず人貸し承り候』の文句を片手で指し示しながら、穏やかだが付け入る隙のない態度で言い放つ。

「うちは、所詮ただの口入れ屋でござんすよ。初吉姐さんがご所望になったのは、おさななじみの菊太郎さんの身代わりだ。そういう次第だから、わしもその役目にふさわしい男を手配しただけで。備前屋のご隠居を厄介払いしたからには、もう用無しでござりんしょう」

「分かってます。分かってますとも」

 初吉の理性は、備前屋の隠居を追い払えただけで満足すべきだと、はっきりと警告している。あれが身代わりの菊太郎である以上、深入りすべきではないと。

 だが、それでも。

 かれに抱き寄せられた時の、言いようのない幸福が、お初を駆り立てていた。

「だけど、どうしても会いたいんですよ。ねえ、鯉屋の旦那。ずっとずっと昔、子供の頃に好きだった人が、それも、とっくに死んじまったお人が、見た目は年なりに老けたけど、それ以外は昔と少しも変わらずにそばにいてくれたの」

 たった数日だというのに、かれとの穏やかな暮らしは平穏そのもので、それが偽りの、金で買ったしあわせなのだとは、とても思えなかった。

「あたし、この目で菊太郎が死ぬのを見てたのに」

 松の木から落ちたって、戸板に乗せて運ばれてきたかれの体が、だんだんと冷たくなっていく。

 見ていただけじゃあなく、ずっと寄り添っていて……とうとう、最期に口から血と泡を吐いて、それきり動かなくなった。

 あたしのことを見てもくれなかった。声をかけてもくれなかった。かれの手をどんなに強く握っても、ただ滑り落ちていくだけだった。

 まるで悪い夢だ。

 いいや。あれが夢であってくれたら。

「あたし、菊さんに会いたい」

 この数日過ごした男がほんもので、死んだ菊太郎がまがいものだったとしたら、あたしはどうするんだろう。

 こんなつまらない人生なんて放り投げて、ほんものの菊さんと生きていきたい。

「鯉屋の旦那が手配してくれたお人が本物の菊さんじゃあなかったとしても、あたしは別にいい。ほら。お金なら払うからさ……二両あります。お頼み申します、後生だから」

 嗄れた喉から声と同時に血でも絞り出すような初吉の訴えに、とうとう鯉屋利平は重い口を開いた。

「しょうがありませんねえ」

 と、老人は反古の紙の比較的小綺麗なところをむしり取って、口元で塗らした筆でさらさらと何やら書き置き、初吉の方へと差し出した。

「ここにお行きなさいましな。ですが、がっかりなさいますよ」

 いかにも渋々と教えられた場所は、猿若町の小さな芝居小屋だった。

 初吉の家の目と鼻の先だ。

 こんな間近に彼がいたのだと思うと、お初は矢も楯もたまらず、挨拶ひとつもせずに鯉屋から駆け出していった。

「やれやれ……がっかりなさいな」

 人貸し屋のあるじが溜め息混じりに呟いたことすら、きっと彼女の耳には届かなかったことだろう。


 草履の鼻緒が切れたのを、そのまま道端におっ放り捨てて、お初は駆けた。素足のままで、道行く人たちが奇異の目で見ていることにも、足の裏に血がにじんでいることにも気付かぬままに。

 そうして、走って走って、ついに『嵐雀丸一座』の真っ赤なのぼりを見た時、彼女はようやく思い人のもとに辿り着けたのだと確信した。

 それが、鯉屋利平から打ち明けられた芝居小屋に間違いなかったからだ。

 そう大きくはないが、壁も屋根もいちおうは体裁を保っていて、木戸銭を集める小口や呼び込みの台もある。

 一枚目の座長・嵐雀丸をはじめ、女形ではそこそこ名の売れはじめた嵐蝶丸、戯作者の長山琴松など、芸人の名や演目が書かれた色とりどりの垂れ幕やのぼりが小屋のまわりをびっしりと取り囲んで、それらが風にひらひらとはためく様子は、まるで色彩の氾濫だった。

 だが、今はまだ刻限が早いのか、小屋の木戸口は閉められていて、当然客足もなく、ひっそりと静まり返っている。

「菊さん、菊さん!」

 お初はどこか入れる場所はないかと、板べりや格子窓を揺すったり叩いたりした揚句、とうとう裏手に小さな戸口を見つけた。おそらくは一座の者が雑用のために出入りするのであろう、目立たぬように周囲の壁と同じ色合いに塗ってある。

 彼女は戸惑いすら見せずにその戸板を開け、先へと進んだ。

 埃っぽくはなかったが、いささか黴臭いにおいに満ちた空間で、彼女ははじめ、脅えた様子で訊ねた。

「菊さん、いるんでしょう?」

 だが、その声音は次第に強くなっていく。

「あたしよ、初よ、あんたの女房よ。いるんなら出てきておくれな」

 だが、小屋の中はしんと静まり返っている。

 不気味なほどに、何の音もしない。

 感じられるのは、自分の心臓の音だけだ。

 初吉はついに、その土間に崩れるように膝をついて、両手で顔を覆った。彼女が必死に声を押さえながら泣いているのだとは、誰が見ても明らかだろう。

 その痛切な、激しくしゃくりをあげる泣き声に、ようやく気付く者があった。

「あれえ、こいつあ姐さん。よくお出でなさいました」

「菊さん……?」

 この数日で聞き慣れた声が耳の奥を振るわせて、初吉はぱっと顔を上げた。泣きはらして化粧も崩れた顔はひどい有様だったが、それでも相手の男には、彼女が誰なのかはっきりと分かったようだ。

 しかし。

 初吉の側からは、相手を見る目は、まるで違った。

「あんた、誰よ」

 その声は震えている。

 初吉はおののいていた。

 自分が知っているはずのこと、いや、自分が信じていることが、今この瞬間に揺らいでいるのだと、本能で察知していた。

 目の前の男は、人なつこい表情のまま笑う。

「ですから、初めてお目もじ頂いた時にお話したでござんしょう。おいら、銀次郎ですわな。この嵐雀丸一座の、馬の足で」

 そんな話をしただろうか?

 お初の記憶はおぼろげで、深い靄に包まれているようにしか思い出せない。

「だけど、あんた菊さんだろ。そうだよね、その、額の傷……」

 たったひとつの、子供時代の悲しい思い出を、お初は無理やりに引っ張り出す。

 辛すぎて思い出したくもない、初恋の人の死に至る傷のことを、お初はようやく言葉にできた。

 だが、いま目の前にいる色男には、額にも顔にも、ひとかけらの傷もない。

「芝居小屋ってえのは何でもありますわいな。古傷くらい、化粧で容易く作れますのさ」

 銀次郎は手元の鏡台から、掌にちょうど乗るほどの大きさの油紙の包みを取り出し、それをゆっくりと開けて見せた。

 薄茶色の油紙の中には、蝋細工か、いやもっと様々な材料が練り込まれて、いかにも本物らしく作られている古傷の、ぺらぺらとした、まがいものの傷跡が入っていた。

「こいつを、おいらの額に貼りまして、つなぎ目は白粉で誤摩化したんですよ。よくできておりましたでしょう」

 そのぺらぺらの菊太郎の額に刻まれた傷に大きく震える手を伸ばしながら、初吉は悲鳴のような声をあげた。

「そんな……そんな、菊さん」

 本当に、数刻前まで寄り添っていたはずの男が嘘の塊だったことは、初吉にとっては思いがけないほどの衝撃だっただろう。

 その場に呆然と崩れ落ちた初吉を横目に、藤娘の格好をした美しい役者がひとり、楽屋の方から駆け出してきて、銀次の傍らに甘えた様子で寄り添う。

 それからまるであどけない少女のような姿で、舞台化粧もそのままにしなを作った。

「おや、まあ……銀次のあにさん。このおひとはどなた?」

 その艶めいた問い方ひとつとっても、男心を鷲掴みにして放さないであろう。

「鯉屋さんのまわしてくれたお客さんだい」

「そうなの。あたしゃてっきり、あんたが大年増が好きなのかと思ったわいな」

「女なんぞ好きなもんかい。俺にゃあお前だけだ」

 と、銀次郎はくすくす笑いながら、初吉の方へと藤娘を軽く押し出す。

「初吉ねえさん。このあたりじゃあ評判だからご存じ置きかもしれねえが、こいつあ、うちの一座の看板役者の、嵐蝶丸ともうしやしてね」

 そこまで聞いて、初吉……いや、お初は、彼の言わんとしていることを理解した。

「俺あ、こいつといい仲なので」

 当代、役者として舞台に立っていいのは全て男である。

 つまりは、そういうことだ。

「ひっ……ひっ……」

 お初はみるみるうちに目に涙を溜め、やがて泣いているとも喚いているともつかない声をあげながら、この小屋から逃げ出していった。

「うわあああーん」

 たとえ金で買った許嫁だったとしても、同じ女ならまだ張り合えたかもしれぬ。

 だけれど、衆道だなんて。

 そんなの、どうしようもないじゃないか。

 お初は、逃げるしかなかったのだ。

 走って走って、どこをどう抜けたのか、手前の家のすぐ近くの小路に出ていることに気付いたのは、それから小半時も経ってからだった。

 額や首筋にびっしりと浮いた冷たい汗のせいで、それがあの芝居小屋でひっかかった忌々しい蜘蛛の巣なのか、それとも乱れた己の髪の毛なのかの区別すらつかなかった。

 菊さんには、いや、銀次郎さんには、あたしなんてそもそも眼中にすらなかったんだ。

 あんなに優しくて生真面目な菊太郎を、あのひとはただ演じきって、そもそものあたしの頼み事……備前屋のご隠居に後添えの話を諦めて頂くって、それだけやって。

 あたしの頼んだ仕事が終わったら、もう赤の他人なんだ。

 菊太郎はもうとっくに死んじまった。

 なのに、あたしはそのことを、あの身代わりの銀次さんと過ごす間、きれいさっぱり忘れて……騙されるどころか、何もかも心から信じきっていた。

 菊さん、菊さん。ごめんよ。

 あたし、あんたのことだけ好いてたはずだったのに。

 菊太郎に申し訳なくてたまらなかった。

 あの、美しい庭園の見事な松の枝から菊太郎が落ちたのは、きっちり庭木の手入れができる一人前の職人だと証明したかったからだ。

 まともに暖簾分けしてもらえるようになれば、しがない植木職でも所帯を持てるだろうと、菊太郎は寝る間も惜しんで働き続け、そのどうしようもない結果として……死ぬべくして死んだ。それしかなかったのだ。

「ごめんよう……ごめんよう……」

 泣きわめきながら駆け出していく女を横目で見送ると、支度中の芝居小屋に、また静けさが戻った。

 あたりには、小道具やら張りぼてやらが所狭しと詰め込まれていて、その場に残ったふたりの男はいささか狭苦しかったのであろう。

 女の喚き声が耳を済ましても聞こえなくなってから、途端、銀次郎は口元だけで軽く笑った。

「もうそんなにくっつかなくていいぜ、蝶丸」

 それに答えた若衆は、ぱっと銀次郎から身を翻して、その眼前に右の掌を突き出した。

「言われなくてもそうするさね。気色悪いったらありゃあしないね。それより、さっさとお駄賃おくれよ」

「あいよ」

 銀次郎は銀一分を彼に渡しながら、皮肉っぽく笑う。

 銭をしまいながら、嵐蝶丸も邪悪なほほえみで答えた。

「それにしたってまた、手ひどい振り方だねえ、銀次あにさん。お前さん、そのうち刺されるよ」

「ひどくていいのさ。ひどい方がいい」

 と、銀次郎は不意に目を細めた。

「これであの姐さんも、菊太郎さんってえ幼なじみの思い人が、この世にはもういねえんだって身にしみなさったはずだよ。これからは先を見据えて、生き様をお決めなさるだろうさ」

 その影の差した横顔は、妙に清々しい。

 実に落ち着き払って、まるで今の空模様の話でもするかのように軽く、彼は言う。

「鯉屋の旦那は、俺が備前屋のご隠居を騙すところも、初吉姐さんを騙しきれないところも、なんもかんも分かっていなさったんだ」

 そう語る口許に刻まれた笑みは、むしろ悲しげであった。

「俺なんて、しょせんは馬の足、大根役者だからな」

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