人貸し屋利平大黒帳
猫屋梵天堂本舗
第1話 鯉屋
安永の世は、実に穏やかなものであった。
公方様はおおらかなお方で、諸大名や旗本御家人のみならず、市井のものどもも実にのびやかに日々の暮らしを楽しんでいた。
それは、浅草今戸の大川端でも同じだった。
いくつかの船宿の間に、絵図にも名前が載らないほど小さな橋があって、地元の者は辻占橋なんぞと洒落た風情で呼んでいた。
猪牙舟に乗った道楽息子どもが吉原遊郭へと繰り出すのを、橋の上からあどけない辻占売りの小娘が見つけて、そのたびに手を振っているのがその由来だそうな。
昼は、のんびりとした釣り船の櫂の音や、物売りの声がどこからともなく流れてくる。
なんとも穏やかな、下町の有様だった。
そんな辻占橋の近くに、その店はあった。
人貸し 鯉屋
よろずお口入れ申し上げます
と、吊るしの看板に、墨色鮮やかな筆書きで記されている。
六間ほどの間口は、この看板の商いにしてはいささか狭いという気がしないでもない。
どうやらこの店は、口入れ屋、つまり今でいうところの職業斡旋業のようだ。
ふつう、口入れ屋というと広い間口に広い土間が当たり前で、そこに仕事を求める人足や暇をもらった渡り中間あたりの堅気崩れから、飯の種にありつくためなら何でもしでかすような無宿者までがごろごろと座り込んでいるものだが。
しかし、この店のありさまは、あんまり静かだった。
まるでここには、人っ子一人どころか、小煩い蝿の一匹すらもいないかのよう。
小ぢんまりとした三和土はあるが、そこにはただ屋号の書かれた藍染めの暖簾が風にはためき、季節外れの風鈴が、時折思い出したように冷たい音色を響かせるだけだ。
それだけでも異様なのに、暖簾をくぐってすぐの二畳ほどの土間のところに、でかでかと半切の紙に、それも妙に達筆な筆で書かれた文言が張り出されている。
いわく……
御定法に逆らわぬ仕事のみお受け申します
いかなるご身分および老若男女にかかわらず 人の売り買いは請け負いかねます
ひとごろしの斡旋は致しかねます そのようなお話は耳に入り次第番屋にお届け申します
それに当たらぬお人の差配につきましては、何なりとご相談くださいまし
ごく普通の、御上を重んじる文にも読める。
しかし同時に、なんとも奇妙な文句にも見える。
何がどうというのではないが、この店、普通の口入れ屋とはどうも違うようだ。
だが……
「ごめんくださいまし」
それでも客は来るようだ。
この鯉屋という口入れ屋、いや、人貸し屋とやらがいったいどのような商いをしているものか。
それを、しばらく眺めてみることにしよう。
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