第19話 無自覚な叫び


 同日夜、近衛の隊長であるレイエルは王女であり姪でもあるシャナの元へ向かっていた。

 思い浮かべるのは、最近頻繁に泣いているシャナの姿。ここ一年はほとんど泣いているところなど見なかったシャナが、ここまで精神を崩すのは何故か。

 考えても答えは出ないのに、レイエルはここ最近のシャナが心配で堪らなかった。

 ――もしシャナが、一年前以前に戻ってしまったら。

 ふと、その考えが頭を過り、レイエルはぞっとした。


 一年前、シャナはほとんど喋らない子供だった。

 終始何かに怯えるかのように萎縮して、血の繋がりのある家族にしか心を開くことはなかった。

 一番初めに喋らなくなったのは、シャナが二歳になった頃だった。

 目に見えて口数が少なくなっていくシャナに、周囲の者は戸惑い、どう接していいかわからなくなっていた。下手に近づこうとするとさらに殻に閉じ籠るシャナを誰もが心配し、連日、対策について話していた。

 原因もわからず、その上、シャナはその身に宿る魔力の大きさに度々体調を崩していた。

 日に日に疲弊していく小さなシャナの体は、そのせいで成長が遅かったこともありとうに限界を迎えていたのだ。

 その限界を越えてもなお休もうとしない――部屋の隅などに座り込んで動かないシャナに、変化が訪れたのはシャナが三歳になる半年前のことだった。

 その日、部屋から姿を消したシャナを探していたレイエルとガランは、廊下から突き出した石造りのテラスでシャナの姿を見つけた。

 シャナはそこで空を見上げていた。よく晴れた空に浮かぶ太陽が、外に立っていたシャナを照らしていた。

 空を見上げたまま動かないシャナにガランが呼び掛け、シャナが振り返った時には既に、シャナはシャナだった。

 ゆっくりではあるもののガランに駆け寄ったシャナはガランに抱き上げられ、微かな笑みを浮かべたのだ。

 目に見えてシャナの表情が動いたのはとても久しぶりのことだったので、レイエルもガランもとても驚いた。

 それから口数も増えたシャナは、徐々に話し始めるようになった。まだ呂律の回らないこともあるが、余程慌てて話さなければ、普通に聞き取れるまでになった。

 また、表情も豊かになり、今度はお転婆過ぎて心配させるようにはなったが誰もがその変化に喜んでいる。

 しかし、現在、シャナは元に戻ってしまうのではないかと疑ってしまうほど様子が違っていた。

 夜は泣いていて、昼間は時々ぼうっと空を見上げているのを見かけることがあった。


 思案している間に、シャナを守る近衛の部下たちがその部屋の前に立っているのが見える。彼らもこちらに気づいたようで、簡易の礼を取った。


「隊長、今のところ変わりはありません」

「そうか」


 レイエルが尋ねるよりも早くそう告げた騎士に、レイエルは頷く。もう一人の騎士が、心配そうに口を開いた。


「……姫様は、大丈夫なのでしょうか」


 その疑問に、同意するようにもう一人もレイエルを見る。

 心からシャナを心配してくれる彼らに、レイエルは安心させるように微笑んだ。


「怯えているわけではないようだから、大丈夫だとは思う。それに、怖い夢でも見ようものなら大騒ぎしているだろう」

「……まぁ、そうですね」

「何言ってるのかさっぱりだったけど、騒ぐだけ騒いでケロッとしてましたもんね……」


 まだセスやロトと出会う前のシャナが引き起こした小さな事件を思い出した部下たちが、乾いた笑みを浮かべる。

 レイエルはそれに苦笑して、部屋の扉に手をかけた。


「少し様子を見てくる。お前たちはそのままで――」


 ―――ゴンッ


「ごん?」


 レイエルが扉を押した瞬間、響いた鈍い音に騎士たちが首を傾げる。レイエルも訝しげに動きを止めた。


「……うなぅ」


 その後、猫のようなしかしそうではない鳴き声が上がったことで、鈍い音の正体に気づく。


「セス? すまん。そこにいたのか。どうした、シャナに何か……」


 普段はシャナの側で寝ている白虎のセスが小さな姿で扉の前にいることにレイエルが眉を寄せていると、セスは前肢で器用に扉を引いた。

 扉が開けられたことで、そこにいたもう一つの影が姿を表す。


「……シャナ?」


 そこにはシャナが、お気に入りの鞄を肩にかけて雨靴を履き立っていた。

 シャナはレイエルに名を呼ばれると、赤くなった目を擦りながら近寄り、レイエルの足にしがみついた。

 レイエルは、今まで一度も夜中に部屋を抜け出したことのないシャナのその姿に眉を潜めた。

 しかし、シャナを安心させるように笑みを浮かべる。


「どうしたんだ、シャナ。何かあったのか?」

「……ちちうえのとこ、いく」

「ガランのところへ? ……今から行こうとしてたのか? だが……」

「いくのっ……にゃいてるのっ」


 誰が、そう問おうとしてレイエルは止めた。

 ここ最近の問題を考えてレイエルがいくつかの可能性に至ると、シャナはなおも口を開く。


「ないてるから、しゃな、いくのっ」


 必死に泣くのを我慢しているようなシャナに、レイエルは数拍して、シャナを抱き上げた。


「隊長?」

「陛下のところに連れていく。この時間なら、あちらとの連絡も終わっているだろう」

「なら、俺たちも……」

「いや、お前たちはここにいてくれ。念のため、見られないように移動する。シャナが部屋にいるように振る舞ってくれ」


 困惑する部下たちに、レイエルはそう告げた。足元では、セスがロトを背に乗せ歩き始めている。

 躊躇いながらも顔を見合わせた部下たちは、ややあって頷いた。レイエルはそれに頷き返すと、その場を後にするのだった。







 月の光が真っ暗な部屋の中を照らしている。

 窓から外をぼうっと見つめていた少年は、その明るさにふと空を見上げた。

 雨がいつの間にか止んでいることに気づき、久しぶりの夜空に目を奪われる。

 決して満月ではないけれど、ほぼ丸に近い形をしてる月が悠然とそこに浮かんでいる。


「なんで……今、」


 何故今になって、雨が止む。

 自身の心情を表しているかのようだった空が突如晴れた。

 それはまるで自身の心が苦しみから、悲しみから、解き放たれたようで――。

 しかし少年は、愕然とした。


 ――それじゃまるで、俺が、母さんを。


 自分の代わりに空が泣いている。そんな、身勝手な自身の心を空が、嘲笑っているような気がした。

 同時に、どれだけ悲しくても涙の出なかった自分に絶望した。

 もしかして自分は、悲しんでいたつもりで、本当は、悲しくも何とも思わなかったのではないか。

 そんな非情な考えが浮かび、絶望し――やがて、少年は考えることを止めた。

 つい先日もそうやって、少年は街の人々に対する憎しみを心の底に閉じ込めたばかりだ。

 しかし、自身の感情を上手くコントロールできていると思っている少年は知らない。


 その押し込めた感情に、囚われかけていることを。

 少年という人間が一人、壊れかけていることを。

 感情という感情が、五感という五感が消えかけていることを。


 その兆候は既に表れている。

 初めは、涙。次に、食欲。そして、睡眠。

 睡眠に関しては、睡眠を取ってはいるが精神的な影響がまるで効いていなかった。体だけが睡眠を貪り、心は、ほとんど覚醒したままだった。

 そして今、少年は、本当に壊れかけている。

 すべての始まりである、自身への不信、そして、不安から――。


 幼い頃からずっと不安を感じていた。

 “赤”を纏う――その事実をその意味を、ずっと考えてきた。

 しかしそれは、答えなどあるはずもなくただ不安を大きくさせていくだけだった。 

 そんな中で、少年にとっての救いは母親の存在だった。

 愛情を惜しみ無く注いでくれる母親がいたからこそ、少年は少年でいられた。自分を見失わずに済んだのだ。

 さらに、同じような“赤”を持つ友がいる。その友人家族の存在も少年にとっては大きかった。

 しかし現在、少年は一人だった。

 最愛の母を亡くし、ここ数日、友の姿も見ていない。

 孤独という事実は、少年に考えさせることを止めた。

 もう他人の言動に怯える必要も、嘆く必要も、不安を感じる必要もない。その事実が少年の心を急速に凍らせ始めたのだ。

 そして少年は、何も感じるはずがないのに穏やかな気分になって目を閉じた。

 もういいのか、と少年の意識がどこかへ沈み始める中、少年は気付かなかった。

 自身の瞼の下で、その瞳が光を帯びていることに、その瞳がわずかな熱を持つことに。

 そして、その変化の理由は唐突に訪れる。


 ―――がたんっ。


 突如聞こえた物音に少年が目を開けたとき、それは、部屋の奥に現れた。

 驚きに立ち上がった少年の体に軽い衝撃が訪れたのは、その直後――。


「う、っうわああああん――――――!」


 そして、少年は見つけることになる。探し求めた、たった一つの答えを。

 突如現れた少女に泣き付かれた少年の頬には、一筋の涙が伝っていた。






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