第6話◆幼なじみとピアノの練習
休日、ソファーに深く腰掛けテレビをぼんやり眺めていると、隣のミウの家からピアノを引く音が聞こえてきた。
「知らない曲だ」
僕は立ち上がった。どれだけしっかりとした音で聞いても、曲名を僕の記憶から引き出すことはできい。馬の耳に念仏だ。しかし、いつも聞こえてくる曲でないことに違和感を覚え、僕はミーアキャットが巣穴から顔を出すように玄関から外を覗いた。
同じフレーズが何度も何度も繰り返される。聞こえてくる音色は、どこか不安が混じっていて弱々しい――怯えだろうか。僕はミウの指先の震えを感じたような気がした。鍵盤を探り探り押していく響きから、容易に弾き始めだと想像できた。
その聞きなれない曲は、学校で昼休みのBGMとして聞こえてきた。
中庭のベンチでダラダラと寝っ転がって、音色に耳を傾けると、練習の成果がはっきりと現れているのがわかった。よちよち歩きの子鹿が、ようやく四足になれ、軽やかなステップで野原を駆けまわるように、するすると音楽として響く。音を楽しめているのが、何となく伝わってきているようだった。
ベンチから3階の音楽室の窓を見上げると、カーテンが風に吹かれて揺れているのが見えた。ゆるやかな風のなかで、ミウがピアノを引き奏でる。指先が鍵盤の上を滑ると、それに合わせて髪も跳ねるだろう。そんな後ろ姿を想像して、僕はうとうとと眠りについた。昼休みはもう終わる。それまで日向の暖かさと、ミウのピアノの音色に包まれ至福の時間を送ろう。
その時、意図せぬ鍵盤の響きが聞こえた。
譜面上に存在してはいけないはずの、たった一音。
僕の目は覚めた。
そして、ピアノの音は聞こえなくなってしまった。
ミウが新しい曲を練習し始めて、すでに1ヶ月以上経ったと思う。
放課後、僕は部活中に聞こえてきた、あの曲――いつまでたっても曲名は覚えられなかった――に引き寄せられ、そっとトイレにいくふりをして、校舎に戻った。
「部活休んでまでピアノの練習してるのか」
階段を忍び足で登っている時だった、それまで聞こえてきた音色が静かに消えていった。まるでスマホの電源が無くなって、画面が真っ暗になった時のような無力感を感じる。音に色がついていたなら、ミウのピアノの音が消えたことで、周囲は昼間から月明かりもない夜の暗闇にパッツリ切り替わってしまったようだ。
僕は闇の中を手探りで進むように、ゆっくりと階段を登った。
気配を殺したまま音楽室へ向かい、開きっぱなしのドアから中を覗きこんだ。
すでに陽は傾き、音楽室は朱色に染まっている。
窓際のピアノの前にミウはひとり、ぽつんと座っていた。肩を落とし、うなだれている。夕日の逆光と、彼女の髪が顔を隠し表情が見えない。
僕は、彼女の膝の上の握りこぶしに気づきはっとした。
手の甲に涙が落ちていたのだ。
夕日が差し込み、眩しいばかりに光を放っている。
驚いた僕は、思わず声を漏らしていた。
ミウが気付き、振り返る。
その勢いで、幾つもの涙が宙に舞い、美光を放つ。
「あっちゃん」
意外な人物だったのか、ミウは、きょとんとして呟いた。
「どうしたの?」
「ピアノの音聞こえたから」
「あぁ、そっか」
ミウは、シャツの袖で顔をこすり、そして照れ笑いを浮かべた。
僕は、なんと言っていいのかわからず眉をひそめたままその場に立ち尽くしていた。気の利いた一言でも言えれば、場をもたせられるのに。僕の思考はそこまで早くはないのだ。
しかし、僕の危惧とは裏腹にミウの表情は少しずつ明るくなっていった。シャツで顔を拭く度、一枚一枚顔の垢が落ちて、生まれ変わっていくようだ。ものの数秒で彼女から光が溢れ、音楽が無くなったことで訪れた闇を吹き飛ばしていく。そう。音楽を挽いている彼女から、エネルギーが溢れて僕の気持ちに明かりを灯していたのだ。男って単純だ。ミウが元気な顔を見せてくれるだけで、どうして嬉しい気持ちになるんだろう。
ミウは僕に何かを伝えるように強く頷き、そして背筋をぴんと張ってまたピアノに向かった。外に迫った群青の夜を感じさせない響きが、ピアノから響く。
空元気なのか、本当に気持ちを切り替えたのか。
その指先からは、譜面に込められた感情を奏でるだけで、ミウの気持ちは見えてこなかった。
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