第4話 別人

 ぽろん……。

 暗闇の中、静かにハープの音だけが響いた。

 波が漂うように黒が揺れていた、薄い黒から、深い黒、渾沌に身を潜めている。静寂に奏でる音色を共鳴させて……。

(また……?)

 アデュは、瞳を細く開けていつもの夢の光景に似ていることを確認した。しかし、何かが違っていた。

 胎児。

 そう、母親のお腹の中にいるみたいな温かさを感じていた。身体を真っ黒な波が包み揺り篭のように心地良く揺する。その流れに身を巻かせながら、うとうとと眠り始めた。

 ぽろん……。

 アデュの瞼が重くなってきた時だ。ハープの音が眠らせまいと奏でられる。

 ――眠るな。

 音にあわせて男の声がした。シーザーに似ていた。落ち着いていて、優しい……こ、え?

(声!)

 ハッとことの異変に気づきアデュは睡魔が襲う自分に平手打ちをかました。

 いままでと違う。

 異変。

 それは声がしたことだ。

 いつも見ていた夢は口らしきところがパクパクと動いていて何を言いたいのかさっぱりわからなかった。今は……聞こえる。自分の夢に出てくる登場人物の声が、聞こえるのだ。

 嬉しい、嬉しくてしょうがないのだ。

 夢が自分の頭の中で創られる物だとしたら、記憶などの情報の処理を目的としている物と、自分の心のどこかにある願望のような物が見えてくる。その二つの他にあるとしても自分の想像物なのだ。

 しかし、黒い夢、ただ暗いだけの夢、こんな物願望した覚えもないし記憶も情報もない。どれだけ自分の奥まで考えて見ても、そんな願望は塵一つで出てこない。

 アデュは夢への探求心が山のように積もっていた。

 ぽろん……。

 三度虚無に響き渡る音に反応して、黒がそれぞれの色を変化した。

 一つ。

 一つ瞬きをする度に景色が変わっていった。

 一回目。目の前に何もなかった。いや、見えなかっただけなのかもしれないが、薄っすらと光を放つ銀色の幕が広がっていた。アデュが五十人寝そべっても余るほどの大きな銀幕が浮かんでいる。

 二回目。幕の側、どこからともなく照らされて、銀色の物体、銀色のローブで全身を隠すように着ている者。もちろん顔も隠されているので男とも女とも言えない。銀ではなくて汚れた麻袋マントだったら、アデュの鏡とも見えなくもない。

 そいつは椅子に座り同じ色に輝きを見せるハープを持っている。四十七本の弦は一本一本に意思が通っているように独自に光を放ったいた。

(なんだよぅ、あれ?)

「始めまして、この姿で会うのは初めてですね。よろしくアデュ」

「よろしく?」

 男の声だった。二十歳過ぎの若者だろう。張りがあり、よく通る声だった。

「私のことは、そうだなぁ。……ルチアとでも呼んでくれ。ただの吟遊詩人さ」

「はあ」

「そこにいては良く見えない、もっと銀幕から離れないとダメだ」

 アデュは銀幕の間近で突っ立っていたのだ。

(見る? なにを)

「そぉれ、特等席まで飛んで行けぇ!」

 頭の淵に浮かぶ疑問に答えを出す間もなくルチアの声が空間を裂き耳を通る。

 余韻を残しながら消えていく声が途切れるとグイッと腰を引っ張られた感触がすると思った時には銀幕が視界にちょうど収まる大きさの位置にいた。

 自分が移動したのか、幕が移動したのかよくわからなかったが、ルチアが幕の側から離れていないことと、腰を引かれた感触がゆっくりと状況を説明していくようだった。

「どうだい、いい位置だろ?」

 離れたはずなのに声の大きさが変わっていなかった。声を張り上げている様子もなかった。

「いいです……けど……」

「それじゃあ、私も」

 声が終わったと同時に間近にルチアが出現した。何もない所から。

「瞬間移動か?」

 一人ごちるアデュを無視して彼は語り始めた。

「これから話すことは異界に住む男の話です」

「はあ?」

 ルチアの声に反応して、銀幕が茶色く変色したような映像を流し始めた。


 遥か彼方、全てが混ざり合うカオス渾沌があった。

 全ての存在が自分を造るために勤しんだ。それから数百億の年月を経て二つの界が出来た。ケティル神界とセラフィス死界と言う。二つは相反する理を創り出し、交わることのない時を刻んだ。やがて二つの界に住む者たちは、自分の世界を渾沌に浮かぶただ一つの存在にするためにいがみ合い、戦いの歴史が始まった。

 その戦いは人知を超えたものだった。ケティル神界とセラフィス死界、そこに住まう者一人一人が巨大な力を持っていたため二人がぶつかり合うたびに渾沌に余波が吹き荒れ、複雑に混ざり合っていた渾沌の一部が規則的に形成され一つ、また一つと新しい界が生まれて行った。

 二界は長い戦いの末に力を使い尽くし、渾沌の片隅に身を潜めて行った。数十の界を生み、そこに住まう者を作って……。

 君たちが住まう世界、パーシュ中界もその一つであり、幻獣と呼ばれる精霊の一種の住まう世界をネツァク幻界と呼ぶ。

 幻界に住む渾沌より選ばれた男。ルシファと呼ばれる者がいた。

 全身を銀色の羽衣で包み、地面につくほど長い銀髪は眩い光を放つ。六枚の羽は純白に透き通り緩やかなカーブを空に描く。

 曇ることのない純真な瞳は青く大らかに界を見つめている。

 三人の内の一人。

 伝達者と言う、渾沌と界を繋ぐ最高位の地位を渾沌より授かり、その六枚の羽で数多の界を自由に行き来出来る。その姿は暗黒の中を悠々と羽ばたく伝書鳩にも見えた.

 彼が降り立つ場所は白銀に煌き、全ての者がその慈悲深い姿を見ようと集う。


 ふっとアデュの目の前が赤く燃え始めた。唐突だった。銀幕はゆっくりとその身を焦がしながら消し始めていた。

 なにかの演出かと最初のうちは思っていたがどうやら違っていた。

 吟遊詩人は姿を消し、アデュに迫る紅蓮の炎は皮膚が爛れ落ちそうなほどの熱気を帯びていた。

「ルチア! なんだよ、これ? 物凄く熱い!」

 返事は返ってこない。戻ってくるのは火力に負けた自分も声だけだった。

 背中を駆け抜ける冷汗が心なしか気持ち良かった。しかし、それもただの気休め、どんどん熱さが増して行く炎に囲まれている中ではーー。

「うっ」

 耐え切れず呻き声を隙間から漏らすと喉元から、その隙間を大きく開き、叫び声が沸き上がってきた。

「あっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」


「はうっ」

 エレハイムは溜め息を漏らした。両手で頭を抱え込み机にもたれかかり額をつけている。目の前に迫る板を見ている瞳は険しく閉じられていた。

 第三貧民区域と王都ヴァンデの中間に位置する廃墟とかした神殿が建つ街に流れる川の橋の下、そこにメリックのアジトがあった。入口を岩で自然に隠し、人がやっと通れるほどだけ開いていた。中は広く作られている。昔、そこに住んでいた人が作った地下を使っているのだ。

 エレハイムがいる部屋は装飾がされて隅々まで掃除されていた。中にある家具はシーザーの部屋にあった物と変わらない、しいて上げるとすれば窓がないだけだ。

「どうしんだい……エリィらしくないな。溜め息だなんて」

 古風なロッキングチェアを子供のように揺らしながら、シーザーは心配そうな顔で尋ねた。

「うん。最近色々とね……」

「親父だぞ、若いのにそんなことばかり言ってちゃ」

 シーザーは手にした紅茶を一口飲むと小さく呟いた。

「アデュか?」

「そう」

 エレハイムは重そうに身体を起こすと真っ直ぐにシーザーを見すえた。

「彼の考えていることがよくわからないんだ」

「それはそうだ。他人だからな」

「真面目に相談している」

「真面目に答えたつもりなんだがな。そうは聞こえなかったか」

 そう言うと頭をポリポリと掻き一気にカップに残っていた紅茶を飲み干した。

「残虐非道だと聞いていた。フェルトも斬られた。しかし、昨日の一件では殺されかけた女の子を助けた。ただのロリコンって言うわけでもなさそうだし……」

「彼は優しいのだよ」

「優しいなら、何故子供フェルトを斬ったんだ。矛盾している」

「優しいが故に、信じる者には忠実に従う。それが自分の意思に反しても……」

「そこまでする価値のある人間なのかローレンと言う男は?」

「さあ」

 さらりとシーザーは肩をすくめた。

「さあって」

「人の心はわからない。だが、あいつは……」

「あいつは……何?」

「腹が減っているだろう。それに風呂には入りたいと思っている。彼の考えていることでわかることと言ったらそれくらいかな」

「腹……」

「もう一つ、自分が見えていない……かな」

「風呂……」

 確かに臭いと言われていたけれど、他に考えていることもあるはずだ。奴の真意が知りたい。そう思った時にはアデュと一度話しておいた方がいいだろうと、エレハイムは心に提案していたのだった。

 ッバアンッ。

「てっ、てーへんですよ! エリィさん、シーザーさん!!」

 けたたましい音をたてドアが開かれると真っ黒な瞳のカニカが勢いよく入いってきた。そうとう急いで来たようだ額から汗が溢れ出て来て頬を伝って顎から落ちていく。

「騒々しいな、カニカ。今、私カウンセリング中なんだけど」

 冷たくエレハイム。

「ドアの留め金が壊れてしまうぞ。ゆっくり開けた方がいいな」

 のん気にシーザー。

「んなこと気にしている場合じゃないっすよ。ジロンド派の連中が大軍連れて押し寄せてきているんです。今、街の入口のところに止まってます」

「何の目的?」

 それが問題だった。昨日の揉め事が関係していることは九割くらいか。それが原因で組織どうしの大喧嘩が始まって王の兵と戦う力が減って行くのは聞き捨てならない。手を組むと言うのなら大歓迎だったが。

「責任者出せって。直接言うそうです」

「じゃあ、決まり」

 エレハイムとシーザーは視線を交わすと同時に立ちあがりドアに向かった。

「直談判か」

「面白くなりそうじゃな。アデュも誘えばよかった」

 エレハイムはシーザーの一言が気にかかったがそんなことをいちいち気にしている余裕はない。何せ相手はジロンド派、ヴァンデ公国にある反王制組織の中で最も大きい、およそ五千人の大軍が話しの結果次第では一気に押し寄せてくるかもしれないのだ。


 太陽は地平線に体を隠し始めていた。大地を朱色に染め火事のように見える。反対の空では少しづつ薄い青を帯びて夜の訪れを告げていた。

 荒れ果てた街は家の屋根が落ちたり、壁に穴が開いていたりしている。中に見える家具も使い物にならないくらいグチャグチャに壊されていた。

 昔あった反乱軍狩りの忘れ形見のような物だ。忘れては行けないのだ、王に反旗を振るえば無残なまでに踏み躙られる。そのことを忘れて戦えば幾つもの街が復興できないくらいに破壊され、たくさんの血が流れ落ちる。

 街は語る。過ちを繰り返してはいけないと……。

「なんのよう」

 エレハイムが前に出て蟻のように群がっているジロンド派の男たちを睨みつけながら堂堂とした態度で言い放った。後ろではシーザーをはじめ数人が控えている。

 男たちの服の右胸には赤い羽を縫い付けていた。

 赤い羽を象徴としている。間違いない。エレハイムは確信した。この集団はジロンド派だと言うことを、カニカの間違いではなかった。

 ちなみにメリックの色は白。羽、布を身につけて目印にもしている。

 色は自分たちの組織を識別することと、掲げる主義、やり方を示している。

 ジロンド派は、赤、どんな手を使ってでも王座を打倒する意。

 メリックの白は、多くの血を流さずに王座を打倒する意。どちらも王座を打倒すると言う目的は変わらないのだが。

「なんのようだとぅ!」

「ざけんじゃねえ!」

「お前ら、仲間を傷つけてくれてどうもありがとう、お礼をしに来てやったぜ」

 数人が前に出てきて声を上げた。表情も眉が釣り上がり、目を血走らせて額に血管が浮き出ている。今にも頭に血が上り過ぎでぶっ倒れそうなくらい顔を赤らめている。

「冗談は止めておけ……」

 熱気を持った場所に似合わない冷やかな声が横手から飛んだ。

 白いデニムのシャツ、黒いパンツをベルトで止めただけのくだけた服装の男が岩に腰掛けていた。焦げ茶色の髪と瞳、浅く陽に焼けた肌をしている。美形でもなく不細工でもない顔は無造作に整っている。筋肉質でないスラッと伸びた細々した手足は、服の上からでは弱々しくも見える。しかし、その本質は……。

「マチス……シャレット……」

 口の中で苦虫が潰れたような深いが充満して来た。

 通称ボスザル。ジロンド派、全員を一人で指揮する若きリーダーで信頼も厚い。外見からは判断できないが格闘術を学び、素手で武器を持った相手とも物怖じしなせず、サルのような身軽さで戦っていると言う。

「マチスさん、冗談は言ってないッス! 全部本気です」

「ふぅ……」

「少しは痛い目見せとかなきゃ、こいつらいい気になってまた――」

「うるっせえな。お前たちじゃ話になんないんだよ。喧嘩っ早いのもいいが少しは冷静に考えろ。頭を使え」

「へ、へい」

「下がってろ」

 マチスは手を振って全体を二十歩ほど後ろに下げさせた。そして、エレハイムたちの前に立ち一礼した。

「あらためて、マチス・シャレットだ。よろしく」

「エレハイムです。よろしく」

 差し伸べられた手を握り交わす。少し振れただけだったが二人とも敵意はないと直感した。

「早速本題だが」

「何か?」

「アデュと言う者に会わせてもらおうか」

「アデュ……!?」

 一瞬鼓動が揺らいだ。

「そう、剣のアデュ。第三区域にいたと聞いた。そして、騒動に首を突っ込んで来た……とも」

「確かに、首を突っ込みましたけれど……彼になんの用ですか?」

「ああ? どんな面か見てやんだよ」

 迷う。この状況からしてただならぬ物を感じていた。マチスの後ろにいる目付きの悪い男たちは今にも暴れだしそうだったが、なんとかマチスのおかげで理性を保っていた。

 もし彼アデュを会わせたらどうなる? まさかもなにもボコボコだろう。同情するつもりは更々ない、しかし会わせていいのかどうか? さすがに人を売ると言う行為は気が引ける。

「少し待ってもらえない。検討するから」

 ようやく出した答えにどういう反応を返してくるのだろう。エレハイムの頭の中はどんなことを言われても切り抜けるために必死に次の一手を考えた。

 自分の下した判断に悔いはない。いや、無意識の内に滑って出てしまった言葉ではあったが、それでいいと思った。

「いいぜ。待ってやる」

 拍子抜けした。ジロンド派のボスと言うからにはねちっこいかと思っていたが素直に言葉を返してきた。

「んじゃ、俺たちはこの近くにテント張っているでね、決まったらそこに言いに来てくれ」

 マチスは手を大きく振って退却を命じた。

 エレハイムたちはぞわぞわと遠ざかって行く巨大軍隊に胸をなでおろした。

「しかし、こんなに簡単でよかったのか?」

 やはりあっけなく終わった話し合いに不満を残して、イヤな気分になった。嵐の前の静けさって言う物にならないでほしいな。そう願いながら橋の下に帰ろうとした。

『あっちぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!』

 耳を通さず、届く声は脳に直に響いた。はっきりとしていない、擦れているが聞き覚えのある声だった。

 空耳……? 最初はそう思っていたがだんだんわからなくなっていく。メリックにも彼を恨んでいる人が大勢いるのだ。

「……まっ、いいや」

 エレハイムは一人ごちると歩く速さを上げた。


「あち! あち! あちぃぃぃぃぃぃ!!」

 その炎は本物だった。紅蓮に燃え盛り、全身を黒く焦がしていく、皮膚が剥げ落ちそうだった。

 アデュは天井から錆一つない太い鎖で両手を縛られ吊るされていた。周りは薄暗く天窓から唯一の光が指しこんできていた。

 どうやら服は着替えさせられていた。シマウマ模様の雑巾のような体に合っていない小さい物だ。

 足は地面についていない、あるのは頭まで浸かりそうな泉のような井戸だった。鎖は肉を食い、血が垂れ落ちてくる。周りには干した草を山積みにして囲み火を焚いていた。

 続に言う火炙りだろう。大昔、魔女を殺す時に使われた処刑方法だ。

「うう……」

 いちいち熱いと言うのが面倒になるほど叫びまくったあげく体力が削り取られてしまった。

「どうだ。魔女の子」

「苦しめ苦しめ、お前たちのせいで俺たちが苦しんでいるんだ」

「つぐなえ、生き地獄を見せてやる」

 干草に薪をくべ、火力をアップさせている男が三人周りを囲っていた。それぞれアデュをいたぶるのを楽しんでいた。狂気を持った眼差しは更なる負を求めた。

 絶望。

 恐怖。

 苦痛。

 憎悪。

 死……。

 彼らはアデュに、王、世界に対する怒りを強力にぶつけ続け、彼の身体から吹き出る感情を感じていた。

 しかし、アデュから発せられる感情はそれとは大幅に違う物だった。内に秘めている物はせせら笑いを上げる自分だった。

 本当に可笑しい話だ。自由だの、平和だの言っている奴らの本性を見ていると体に伝わる痛みが忘れ去られてしまう。熱さにもなれてきたのか神経がいかれたのか、そんなに感じられなかった。

「ぷっ」

 思わず吹き出してしまった。

「ん? なんだこいつ今鼻で笑ったぞ!」

「いかれたんだろ」

「だからって、罪を緩めるほど甘くないけどな」

「違うよ……」

 涼しい口調でゆっくりと話し出した。

「そう、違う。笑ったのはお前たちが可笑しいからさ。エレハイムみたいな女にペコペコしてるくせに、手が出せない者に対しては手のひらを返す。いつも自由だ平和だ叫んでるくせにやってることは矛盾だらけ……。こんなに面白いこと笑わずにいたら罰が当たるよ」

「んだと!!」

「てめぇ自分の立場わかってんのか!? 捕まってるくせに態度がでけぇんだよ!」

「フン」

 喚く男たちを鼻で笑い飛ばした。

「バカじゃない? 捕まってるからってなんで低姿勢でいかなきゃなんないの。そんな法律何処にもないね。大体、ペコペコする奴は痛めつけられるのが怖い動物以下の腰抜けだってこと。丁度あなんたちみたいな人間のことを言う、わかる?」

「こんの……おい! あれ!」

 一人指示を受け壁に取り付けられたフック状の物を止めた棒をはずした。ガクッと支えられていた力がなくなり、そのまま下の泉に落ちて行った。

 思っていたより深かった。水面が光に揺れているのがずっと上に見える。まずい状況だった。両手両足とも縛られているため泳ぐことが出来ない、海水と違って浮くこともない、沈んで行く一方だった。

 あいつらを怒らせたこと、不利だ。助けてくれる確率はほとんどない。今になって後悔したわけではない。後悔して慌てて騒いで息を直ぐなくしてしまうより、ただその場の流れに任せていれば『なんとかなる』そう思っていた。

(――来たぁ!!)

 鎖が引かれ体が持ち上げられて行く感触が傷口を通して伝わってくる。さすがに自分の体重が手首にかかるのはキツイ、どんどんきつく閉められ血が流れて行く。しかし、生きられることに比べればどうってことなかった。

 手首が水面がらでた、次に頭、体と速い勢いで引き上げられて行く。水中では浮力があってまだ耐えられる痛さだったが空中では気が飛びそうなくらい痛い。

(……痛いなんてもんじゃねえけど)

 緑色……。

 最初に目に入った色。

 必死になって鎖を引いている。手動らしい、あんがい単純な造りだ。

(そんなことじゃない!)

 痛みで朦朧とした頭を振り、目を見開いてそれを見た。緑の髪の女だ。

 エレハイムは一人で鎖を引っ張り上げていた。

 なんのつもりか全然わからない。そんなこと問題じゃなかった。一人で引き上げていた、小柄とはいえ人を持ち上げているのだ、よほどがんばらないと年端もいかない女が持てるわけない。……はず。

 わけがわからないままアデュは地面に引き上げられ、鎖を外された。

「ごめんなさい」

「どうゆーつもりだ?」

 もうわけなさそうな顔を近づけるエレハイムを手で押し退け冷たく言った。

「仲間のミスはリーダーのミスでもある。許してくれなんて言わない、お前も酷いことをして来たからな」

(よくわからない人間だな)

「お前たち、敵でもこれはやり過――」

「なぜ助ける、こいつは生きる資格もない奴の仲間だぞ」

「そうだ、処刑するべきだ」

 エレハイムの声を払い除け男たちは反抗の瞳を光らせた。

「答えによっちゃあ、あんたでも酷いぜ」

 不敵に笑う男を睨みつけながら優しく言った。

「皆、うえ街の教会に行こう。主天使ルシファに祈る時間だろう、拷問は後からでも出来る」

 エレハイムの言葉に渋々うなずき部屋から出ていった。

「なぜ異端の烙印を押さない。奴らは僕と同じ、醜い夜叉を宿している」

「いや、私はそう思わない。彼らもあなたも100パーセントの夜叉など持っていない。持っているなら一時的な感情の爆発だけだ、それを諌めるのはあたしの仕事。祈りをささげると言う行為は、彼らの感情を静める」

「……」

 確信を持ったエレハイムの言葉に耳を傾けている。

「彼らはみな純真無垢なの、それでいて残虐非道、臆病者でもある、彼らを知ろうとしなければわからない、どう接すればいいのか」

「はぁ……」

「へへへ、これおじいちゃんの受売りだけどね……」

 にんまり笑みをこぼすエレハイムを見ながらアデュははにかんで笑い返した。まだよくわからないらしい。しかし、人間の持っている暖かさと言う物を少しだけだが肌で感じLといた時のことをふと思い出した。

「あら、本当。あの子が言っていただけのことはあるわ」

「あ……? あの子?」

「ほんと、臭いよ」

(またそれかよ)

 火に炙られても、水に沈められても匂いはしつこくこびりついていたらしい。彼はムッとした顔で視線をそむけた。

「腐るな、腐るな」

「バカ、腐ってねーぞ!」

 腐るの意味を腐食すると間違えて、本気で感情を見せた。

「外に川があるから、洗おう。洗濯物のように」

 窓から注がれる月の光は銀色に閃き、血の浮かんだ泉に反射して鮮やかなイルミネーションを天井に創り出した。地に濡れたアデュの顔を照らした。少しだけ、穏やかになっているのが微かに覗えた。


「なに見てんだ!」

 照れの混じった唸りが夜空を駆ける。

「え……本当に男かと、ちょっと好奇心で」

 上着を脱ごうとしているアデュを彼女はジーッとわき目もふらず見ていた。

 二人は、地下から這い出ると入り口から離れた所にあるボロ小屋に身を潜めた。正式に釈放したわけではないので、脱走したと思われる子とを避けるためと。この家は他のと変わっていて家の中に川が流れていたためだ。

「しかし……これは小屋と言えないのでは……」

 周りを目で追いながら呟いた。

 昔は小屋だったのだろう。石を摘んで出来た壁は重く頑丈だった。しかしそれも過去のこと、今は正面だけがしっかりとして残っているだけだった。左右は穴が開きいつ崩れるかわからない状況だった、後ろはもっと酷く原型すら留めていながった。もちろん屋根はない。

「脱がないのか」

「脱ぐよ……言われなくても。ガキじゃあるまいし」

「――!」

 上着を脱ぎ捨て露わになった裸体を見て彼女は瞳を見開いた。驚きのあまり声は喉元で止まり身動ぎすらしない。

「なにそれ!?」

「なにって、なにが」

 ようやく動きを取り戻した言葉を彼は、すぐに跳ね返してきた。

「その傷のことだ……」

「ああ、これ、これがどうかしたの」

 そう、男か女かで驚いたのではなかった。アデュの身体を美しく、残酷なまでに赤い筋が刻み込まれていたのだ。肩口から背中にかけて、腕に、腹に幾つもの傷口が裂けて通っていた。

「……どうしたの……」

「ただの勲章だよ」

「……勲章?」

「勲章、勲章」

「……嘘でしょ」

「当ったり、嘘だ」

「あら、あっさりと言うのね」

 拍子抜けしてか、エレハイムの緊張の糸が切れいつもの調子に戻ってきた。恐る恐る傷口に触ろうと手を伸ばす。それをアデュは払い除けた。

「触るな、まだ痛むから」

「どうしたの」

「ローレン……王にやられた。(たぶん)王は人の精神を麻痺させ、闘争心を高める薬を大勢に嗅がせた。その時に狂った兵士や敵につけられた」

「あの時、ジロンドが王宮に押し寄せて来た時ね」

「ああ……」

「酷い、ローレンって、やっぱり打倒すべきは王座ね!」

 拳を硬く握りしめて力強く宣言した。

「そして、もう一つ酷いよ。あなたの臭い」

「水でも浴びりゃいいんだろう」

 やけになってアデュは川の中に飛びこんだ。

 水は冷たく荒んだ体に染み込んできた。思ったより深く、胸まで浸かってしまった。

(ふう、お風呂みたいで気持ちいいわぁ)

 水攻めの時は思えなかったが水は気持ちがいい。疲れがとれて行きそうな気がした、そ

して、出来ることなら悪臭も流れて行ってほしいと心から願った。これ以上臭いと言われるのはさすがに精神的にダメージが大きい。

「ここに服、置いておくね」

 本当に男だったのか。なんか負けてそう。鼻まで浸かっているアデュを見ながら悔しい思いが出て来た。

 夜は深け込み、まったくの静寂の中、水がブクブクと水面に浮き出る音だけが聞こえてきていた。


 それから一時も経たない内にアデュは水から上がって来た。表情は先程と打って変わって険しく、瞳がギンギンに釣り上がっていた。

 用意された服を着ると表情は百二十度、豹変した。困惑になりながら身なりを確かめる。

「似合うよ、その服」

 エレハイムは面白そうに見ながら薄く笑っていた。

「お、お前は人をバカにしてるのか」

「違うよ、あなたの服は汚れてたから洗ったの。だから今はあたしので我慢して」

「しかし、なんでこんなスースーする奴を……」

 アデュはひらひらとスカートを揺らせながらイヤそうに言った。

(上着の赤いのは女物であっても着れるが、スカートと言う物は……)

 濃い紺色のスカートを遠い目で眺めながら悲しく思う。膝上であるのだ。

「あら、スパッツ履いていたのね……ザンネン」

「め、めくんじゃねーよ!」

 裾を持ち上げてなぜがしょんぼりするエレハイムに思いっきり叫んだ。飛び退きながらも彼女は言った。

「でも、これで薄汚いアデュだと、誰も思わないよ」

「うす……汚い」

 ちょっとショックだ。汚い。臭い。この所、不潔に扱われることが増えて行く。

(なんか、自分のイメージが崩れていく)

 かわいいの次は汚い。つくづく人間の心は解読しがたい物だと再認識してしまう。

「ううん、キュートでかわいい。アデュちゃん素敵ぃ」

「バカにされているとしか思えない」

 和やかな雰囲気になりかけた時、アデュの背に鋭い戦慄を持った冷たい物が流れた。体を震わせるイヤな予感。

「どうかした、アデュちゃん」

 愛らしかったアデュの瞳は、身の毛がよだつほど冷たく凍った鋭い眼光で彼方を見つめる。

「なにか……」

 そう言うとアデュは正面の壁に飛び乗り街の周りを見渡した。暗く沈んだ草原が広がっている、所々木が立ち、その周りに草が茂っていた。

「どうしたのか?」

 急に身動きがおかしくなったアデュをエレハイムは見上げるしかなかった。近づこうにも近づけない神経の壁が張り巡らされているようだ。

「……!」

 ひょぅ。

 なにかが空を切り裂き、暗闇の中アデュ目掛け向かって来た。それを無造作に受けとめる。

「矢!」

 それは先端に金属の刃が取り付けられた戦闘用の矢だった。

「何か言ったか」

「敵襲だ!」

 迷わず吐き捨て矢を虚空に投げ返した。

「敵って――!」

 エレハイムの声を切り裂き無数の涼しい音色が奏でられていた。その後には爆音が轟き、火の手が上がり、街全体を包み込んだ。

 遠くの方で炎に照らされ幾つの煌きが見えた。鉄を引き伸ばし薄くして作った鎧を着込んだ軽装兵の部隊。手には細身の剣を持っているのが見えた。

「何が起きたんだ!」

「言ったろう! 敵襲だって」

「うわぅ!」

 遥か頭上から一条の矢が降り、エレハイムの間直で爆音と炎の渦を上げた。

 アデュはすぐに飛び降り火の中に飛びこんだ。

「アチチチチ。今日は火難の相だぁ!」

 激しい非難の混じった鋭く甲高い声が炎の中からすると、エレハイムを抱えたアデュが飛び出して来た。

 目を閉じて死んだように横たわっているが、外傷はほとんどない、あるのは黒ずんだ煤だけだ。

「最低なことをする」

 矢が落ちて来たところを微かに捕らえていながら助けることが出来なかった自分と、敵に向かってイラだった声で呟いた。

 しかし、爆発の原因はわかった。

 矢の先端には、刃が付いていなかった、変わりにピーナッツの形をした物があった。たぶん、その中は空洞になっていて、中に爆薬か、なにかを入れておく、衝撃を加えられたら火花が飛んで爆発させる仕組みだろう。

「うっ……!」

 エレハイムが擦れた唸りを上げた。

「大丈夫?」

「え。ああ、なんとか無事みたいね」

 きぃぃぃん。

 けたたましく、金属が磨れる音が当たりに飛び交い、頭に厭らしく響いて来た。次に太太く力の入った声が嵐のように巻き起こる。

「始まったか」

「何が」

「何って戦いだよ」

「ええ! ジロンドの連中がキレて襲って来たのか!」

 エレハイムはアデュの腕から飛び降りるとドアのない入り口の影からこっそり覗き込んだ。幸い少し高い位置に建っていたため少しだけだが見通しがきいた。

「何これぇ!?」

 身を翻し、アデュを直視した。

 いたる所で燃え盛る炎は昼間のように辺り一面を赤く照らし、消えるどころか更に勢いを増していた。見ると風船らしき物を投げ込んでいる。地面に当たると破裂して中から液体が飛び散り、炎に触れると爆発的に燃え始めた。

「ジロンドじゃないね。おそらく、王の部隊だと思う……」

 引火する液体を持っている者で、最初に思いつくのは、あの男だけだった。

「そんな……」

 呆然と立ちつくしながら呟いた。ひどくムカついている声で……。

「最低だ。これじゃ生き地獄」

「突っ立てる場合、違うと思うけど」

「そうだった。皆の所に行かないと」

「うあちぃー!!」

 二人が今まさに全力で駆け出そうと思った時だった。川を挟んだ向こう側から叫び声を上げ、疾走して来る赤い影、それは背中を炎で真っ赤に燃やしたマチスだった。

 その勢いのまま川に頭から飛びこむと盛大に水蒸気を上げて深く潜る。

 しばらくすると顔を水面にちらつかせ、二人の前に這い上がって来た。

「まいったぜ。まさか焼きびと人間にされるとは、意標をつかれてしまった」

「マチス……あなた何やってるの?」

「フッフッフ。遠くの方からいたいけな婦女子の水浴びを覗いていたのだ」

「はあ……?」

 エレハイムは、ただただ意味もわからず間抜けな返事を返すだけだった。アデュに至っては初顔のこの男に対して、

(次から次と、何故こうも変人がうろついているか)

 しかも自分のことを女だと思っている、思想家と言うのは変人の集まりかと誤解を招くありさまである。

「冗談はさておき、実は……こっそりアデュ君とやらに会ってみようかと、一人敵地に忍び込んで来たわけだ。そうしたらいきなり火花は飛ぶは、背中は燃えるは忙しい限りで会う時間もないんだ」

「……会ってるよ。目の前にいるじゃん」

「は……エリィ、今なんと」

「だから、そのいたいけな婦女子がそうだって言ってるの」

 アデュを指差しながらキョトンとしているマチスに向かって断言した。すっとぼけた顔が見る見る内に真面目な顔になっていくのが伺えた。

「てめぇ、いや、君がアデュ!」

 マチスはアデュの手を握りしめて瞳を見下ろす。

「そうですけど。おたく……どなた?」

「俺、俺はマチス。ジロンドのリーダーだ」

「ああ、聞いたことある。通称ボスザル、猿のような身のこなしで格闘術を使いこなす、奇怪な生物ってネ」

「サルって、酷いな」

「二人とも和んでないでシーザーの所に行くわよ」

 二人の顔の間を押し退けるようにエレハイムの声が入りこんだ。

(何処をどう見たら和んでいるように見えるのか?)

「ううん、もう少し剣のアデュのかわいらしい声を聞いていたかったけれど」

(オゾマシイ)

 キュルルルルルルルルルルルルルル!

 地面を揺るがす強烈な震音に三人は足をふらつかせながら膝をついた。

 空。暗黒に射す赤い閃光に身を躍らせ巨体の何かがあった。空気を震わすはおん羽音を響かせ猛スピードで降下してくる。徐々に大きくなって行くそれを見ながら、アデュは最悪に気分を害した。

「ビースト:マンティスサイズ……」

 見た目はただのカマキリだったが、大きさは異様に大きかった……。

 ビーストとは、ローレンの作り出した魔道生物のことを言っている。

 生物の遺伝子を改造したり、体内にある幾つかの細胞に接触し、そのリミットを解除する。そうすることでバランスよく保たれていたモノが崩れ、暴走し変貌を遂げさせる。その数少ない成功作がこのマンティスサイズだ。

 昆虫であることを示す固い外骨格と他者を食らう獰猛な性格の持ち主だ。力も小さかった時より更に強くなり、大きさに比例してそれは反則的なものになっているはず。

 鋭い鎌を携えているところから略称でサイザーとも呼ばれている。

 速いスピードのわりに静かに地面に降り立つと裂けた口先をもぞもぞ動かし、首を動かした。目は耐えず辺りを一望していたがすぐに一点を見つめた。

「んだ、あのカ、カマキリは!?」

「つーか、カマキリって言えるのあれを?」

 エレハイムとマチスは、ヘビに睨まれたカエルのように身を凍らせ、尻を磨らせながら後ろに下がって行く。

「ビーストだよ。ローレンの作った魔道兵器だ」

「なに、ローレンって王のか?」

「つーか、あんなの作ってる趣味が考えられない! 変人だあ!」

「エリィ! 違うぞ! あれを従えているすっげー奴だ。超が付くぜ!」

「二人とも、ボケてないで逃げたら。半端な気持ちで戦ったら、確実、死ぬよ」

「逃げるったって何処にだ」

「自分で考えて……」

 縋るようにとりつくマチスに突き飛ばして言って退けた。

 キュァ!

 サイザーは短く咆哮すると鎌を振り上げアデュ目掛けて風の唸りを上げて襲いかかって来た。透明で光沢のある羽が残像を残しながら羽ばたき、更に加速させる。

「こっちに来るよ! どうするのアデュ!」

「まだ逃げてなかったの!?」

 アデュは二人の気配を背に受け退くことの出来ない戦いが始まった。

 逃げたら二人が殺される、逃げたら二人は殺される。アデュの中に義務感と違うモノが存在を大きくしていった。

 腰の後ろにさっと手を廻し、一つ異変を見つけた。いのち生命に関わる重大問題だった。

「まずい」

「えっ? まんじゅう?」

「エレハイム……俺の剣って何処置いてあるか?」

「私の……部屋――っ!」

 三人は青くなっていた顔から色素をなくし、空気よりも静かに真っ白になって佇んでしまった。

 サイザーは、その間にも間直に迫ってきている。もう逃げている時間すらない。

 ――やれやれ、しかたがないな。

 アデュの頭の中を困った口調で声が流れた。

 夢に出て来た男の声。

 すぐに聞き分けることが出来た、そして瞬時に気分がおかしくなりそうだった。

 夢じゃない。現実に聞こえている。

 幾つもの可能性が交錯している、自分の他に自分がいるのだ。そう思うと自分の存在が不浄の物になっていく。

 偽物の自分。

 知らない人格。

 分裂した意識。

 どちらかが影、自分、それとも他の自分。

 ――違う。

 それが否定の声を上げ、続ける。

 ――アデュは一人だ。

 彼に与えられる光の刃はたくさんの思いを抱き、更なる鋭利な物と化す。

 体が勝手に動いた。自由の意思をなくした両手は胸の前に交差され、眩い光の種を掌で握り、力強く振り払った。種は引き伸ばされ丁度アデュの使っていた短剣と同じくらいの大きさにその身を変えた。

 それがごく当たり前に思えた時、サイザーに自分から向かっていった。

 二つの力はぶつかり合い虚空に映る切っ先を交えながら戦う……。

 サイザーの攻撃を難なく交わすと隙を見てちまちまと鎌一ヶ所狙いで攻撃して行った。好きでこぢんまりと攻撃している訳ではなかった。サイザーの体全てが硬い殻に覆われていたのだ。鎌と腕、腕と本体を繋いでいる細い接触部分でも容易に斬れる硬さではないし、口の中に攻撃しようとしても硬く閉ざされ物言わぬ人形のようになっていた。いくら剣の達人と言ったところで相手は化け物、慎重にこしたことはない。

「面の皮ぐらい柔らかくしておいてほしいな」

 皮肉をわりと危機感を持っていない表情で言ってのけた。その顔を見て、エレハイムたちも少しは安心を取り戻した。

 数回、剣を交えただけだがその剣の恐ろしさがしみじみわかって来る。サイザーの硬質の鎌は亀裂が一本太く入り砕けようとしていた。

 一度後ろに下がってもう一度加速をつけて全力で踏み込む。その時だ、サイザーの意外な行動に面食らった、虫は虫で色々考えている、と。

 壊れかけた鎌を思い切り地面に叩きつけ自ら砕いたのだ、破片が勢いよく飛ぶ。意標をつかれた攻撃に加速したまま破片の嵐に飛びこみ、皮膚にめり込ませて行った。

「あぎゅう!」

 苦しみに歪みそのまま、サイザーの脇を転げ過ぎていた。幸い砕けた側だったため切り裂かれることはなかったが、さすが昆虫、鋭い反応速度で足を振り上げ踏みつけようとした。ギリギリで避けることが出来たが、今の一撃の重みはアデュにとってキツイ物となった。

 キュア!

 サイザーは間髪いれず壊れた方の腕を一振りする。すると緑の光が伸び、鎌の形をとるとガラスが砕けたような音をたてて地面に落ちていく。

「復元したのか……」

 エレハイムは苦しそうに言う。彼女の言った通りまるっきり壊れる前と変わらない形がそこにあった。

「――っ痛ぅ」

「アデュ!」

「エリィ、うかつに動くな。危険だぞ」

 横たわっているアデュに向かう影を見ながらサイザーは検証し始めた。

 ――苦シメテ殺セ。

 ――容赦ハ、スルナ。

 ――獲物、アデュ。

 ――任務内容、復唱完了。

 他者に関する命令はされていない。どうすればいいのか入力されていない。

 サイザーはどう行動すればいいのかわからず、ただ、石のように止まっていた。

 サイザーの動きのほとんどは、入力された命令で動いているのだ。兵器として活用するには普通の昆虫のように本能のまま動いていては使い物にならない。よって改造する際、ほとんどの記憶を消して新たに作りなおした。戦うところは本能を基に更に高度に作り変えたらしい。

 しかし、サイザー自体、最初の作品であるため作りは雑だった。

「なんか知らないけど、ラッキー」

「今の内に逃げるぞ!」

 機能を停止した魔虫を尻目に二人はアデュに駆け寄った。

「動ける?」

「いや、物凄くキツイ」

「エリィ、話しは後にしてくれ、そっちの肩ゆっくり持ち上げて」

 二人はアデュを支えながら足音立てずに去ろうとした。

「逃がすな! 全員蹴散らせ!」

 サイザーの瞳が声に反応して薄く光ると羽を広げ、跳躍する。よろめく三人に蹴りを食らわせ、背中を踏みつけた。

「ようし、そのまま踏んでいろ」

「はあ?」

 その声に三人は戸惑いを見せた。

 特徴的な女声、忘れようにも忘れない聞き覚えのある者の声だった。

 エレハイムとマチスの視線が一点を交える。

「……?」

 視線の的である彼もまた理解に苦しんでいた。

「驚いているだろう。どうだ自分の声を耳で聞く気分は? アデュ?」

 間違いなくアデュの声だった。それは炎をバックに背負って近づく男の口から、聞こえた物だった。

「バーナー!」

「フェルト!」

 エレハイムは男を見て、アデュは後ろを引きずられて歩く少年を見て驚愕した。

「動くな」

 のたうち背中に食い込む重い棒からなんとか抜け出そうと必死になったいるアデュの前に立ち、顔面をつま先で鋭く突いた。鼻っ面にあたり血がたらたらと流れ落ちた。

「かわいい顔が台無しだぜ。へえ、女装癖があったとはな、光の奴の考えていることはわからん」

「バーナー、どうゆうことよ!」

「どうって……?」

「なんでこのカマキリが、あなたの言うことを聞くのかって聞いてるの!」

「別にぃ……」

 なーんにも考えていないような、神経を逆撫でする口調で言うと、アデュの頭をぐりぐりとねじり踏んだ。

「サイザー、解放しろ」

 言われた通り足を上げ、バーナーの後ろに廻った。

「アデュを縛れ」

 キチキチ。

 口から裂け出た牙を震わせ鳴くと、大きく顎を下げ開く。背中をさすりながら立ち上がるアデュに照準を合わせると口から黒茶色の糸が噴出した。糸はアデュの体を縛り、周りの民家の壁に蜘蛛の巣を作り中心に持って来た。

「何する」

「何って、縛ったのさ」

「……」

「観念したか?」

「ローレンは、そんなに僕を苦しめたいと言うのか……?」

 いつになく、深い悲しみの鼓動が胸を打った。俯いて顔を隠しているが、酷く辛そうに見える。

「その通り」

「僕とローレンは敵どうし……」

「その通り!」

「戦うしかないの」

「いや、お前はここでおっちんじまうから戦うことはないね」

 ギリ。

 全身に力が入った。糸をちぎって今すぐ決着をつけたい気持ちに狩られた。

「おおっと、無茶すんな、こっちには人質がいるんだ」

 フェルトを前に押しやり、喉元にナイフを突きつけた。

「痛い! エリィ、こんな卑怯者とっととやっつけてよ!」

「うっせ!」

「卑怯者め。卑怯者のアデュ!」

 その言葉ににやりと笑いを浮かべる。確かに目は見えないし、アデュの声でしゃべっているのだ、間違えて当然なのだが……。

 縛られている当の本人はあ然とした顔でわめくフェルトを見つづけた。

「サイザー、あの二人の口を塞げ。いらぬことを言われると都合が悪いからな」

 命令通り二人も瞬時に縛り上げ口を塞ぎ、アデュの横にくっつけた。

「ふぐ、ぐぐぐぎゅ!(この糸、変な味する)」

「何言ってるか、わかんないよ」

 敵に捕まったのに、全然動じず飄々とするアデュは威圧感を持っているようだった。

「何故慌てない。少しは感情を表してくれないと面白くないじゃないか」

「……これでも慌てているのよね」

「ふぐぐ。(そうは見えない)」

「ふぐぐぐぐぐ。(エリィ、静かに)」

「二人とも黙ってくれない。真剣な話なんだから」

 アデュの全身から、怒気がぞわりと立ち上る。

「……」

「ようやく黙ってくれたか……」

「何の目的でこんな事をするんだ?」

「さっきも言っただろう。ローレンの命令だって、お前を死ぬ寸前までいたぶれってさ」

 足元に転がっていた瓦礫の破片をつま先で持ち上げ、アデュに向かって蹴り飛ばした。身動きが取れなかったためもろに額に低い音を立ててぶつかった。

「あと、目の前で人を殺して狂わせろ、ともな……」

(おいおい、そんなまさか……)

 いやな、もわもわする気持ちが肺の中で蠢いているようだ。

 内臓が縮み上がり、今この男が成そうとしていることに嫌悪している。

「安心しろ、一人づつ、じわじわなぶり殺してやるからよお。面白い仕事だぜ、人を殺すだけの簡単なもんだから……」

 カッチィィィン!

 今アデュは、猛烈にハラワタを煮え繰り返していた。人を殺すのが簡単だあ!? それはいくら簡単な物でも人間としてやっていいことと悪いことがある。

 ドクン!

 怒りに反応してか急に心臓が強く烈しく鼓動した。もしかしたら、もっと奥にある心が打ち鳴らした物かもしれない。

 ――静めろ、怒りを持ってしては継承は出来ない。

 ――自らの選択した感情は、一つのバランスを崩し破綻を呼ぶ。

 ルチアの声も頭に力強く響くが、今まで表さなかった感情を押さえることが出来なくなり始めていた。

悲しみから始まり怒りで終わる負のエネルギー。どうすることも出来ない。

 ――仕方がない。

 ――時期は早過ぎるが……今これを掴むことが出来なければ、奴らの思うがままになってしまう。

 ――希望の光は終曲を奏で、終わりと始まりを告げる。汝に示す力は諸刃となり自らを生け贄とするだろう。

 ――レイ……カウント。

 ドクン!

 更に強く叩かれる鼓動は、全身を震わせおののきが感じられた。

 異変に気づいたのはフェルトだけだった。

 目が見えないことで潜在的な物を感じる力が目覚め、ぼんやりと映し出したのかもしれない。

 瞼の暗い中を銀色に輝く光が大きくなっていく。

(熱い、冷たい)

 アデュは背に重く圧し掛かる何かを除けようと身体が発火し、噴出する汗で不快な空間に置かれた。

 ――己を知る事は如何なる物を知ろうとする事より難しい。

 難しく囁くルチアの声を頭で受けた。

(さっぱり、わからないよ)

 自分の意思と裏腹にどんどん身体が硬くなっていった。

 ブチブチ!

 軽い音を立てて、アデュを縛り上げていた糸は無惨に引き裂かれた。

(おもーい。乗るな―)

 ――さようなら、君の役目は終わりだね。

 ――この身体。

 ――私が貰う。

「はあ!?」

 これが今日最後のアデュの言葉だった。

 ルチアは、意識内にあるアデュを完全に取り込み外部から接触を断ち、自分の一部にした。いや、自分をアデュの一部にした。

 アデュは束縛から抜け出すと横にいた二人の糸を断ち切り、家と家を繋いでいる糸の上に静かに静止した。

「何がおこったんだ!」

 バーナーは唇を歪め、忌々しげに吐き捨てた。

「覚醒」

「覚醒って……何?」

 エレハイムの問いにアデュは首を横に振った。

「いいえ、いい間違えた。覚醒ではない。本来アデュの持っている力の一部分を私が使っているだけだ」

「あなた、何者」

「ふつつかな精神の塊と言ったところですか。ルチアと言います」

「ふつつかな塊……ルチア」

 復唱するエレハイムを見てアデュの顔は微笑んだ。

 今まで見たこともない、穏やかな表情。

「ホントーに、別人になってる……」

「はい。彼の悪しき者が力を持ってしまいますから一時、私が制御しようと」

「……?」

「彼の心に閉じ込められていた感情の爆発は自分を偽ってきたこと、自分が傷つけた人、たくさんの罪悪感は、強い負を呼びます」

「あー、いまいち……わからないのだが?」

 マチスは、腕を組みながら見つめた。

「つまり、怒ってキレそうになった。ですね」

「うーん」

「わかりましたか?」

「……」

 そのまま、黙りこくってしまった。

 キュアッ!

「いいかげんにしろ。何が覚醒だ、ヤっちまえ!」

 バーナーは目を血走らせ、叫び声を上げた。

 何かに怯えているようにも見える。

「いいでしょう。あなたたちを倒すことが目的です」

 そう言うとアデュの身体はふわりと空中に舞い、不敵に笑みをこぼす。

「一度だけのチャンスです。私が手を貸すのはこれで終わり、せいぜい派手に行きますからね!」

 瞬間の光が辺りを照らしつけた。

 銀色の閃光が瞼を打ちつけ、目を開けることすら出来ない。

 太陽にも負けない神々しい光はすぐに止み、アデュの姿が見えて来た。

 夜空を彩る星の光に似た銀髪は足首よりも長く伸びていた。

 全身を銀のオーラが包み込み、まさにルチアの名に相応しい光だった。ルチアの名前はルチ――光と言う意味から来ていた。

 サイザーは、羽を震わせると、本能でか、手加減なしの本気で飛びあがった。わかるのかもしれない。生命が亡くなる時が……。

「レイ――」

 ルチアは右手を優雅に突き出すと言葉を紡いだ。

「――カウント!」

 突き出された掌に青白い光の球が束ねれられた。

 何かを押すような動作で球を打ち出すと、一気に伸び極太の奔流となってサイザーの身体を貫いた。

 サイザーは仰け反ることもなく、一瞬の内に粒となって消えて行った。

 闇夜の中で、それは地上の夜空のように美しく輝いた。

 ルチアの使う物。

 魔導。

 短い言葉の中に膨大な意味を携えた超魔法。

 ≪レイ・カウント≫もその一つで、幾つもの形、質を持っている。

 たとえば形は、一本の裂閃、二本以上の乱閃あったり、球体である。

 質は、物理的ダメージや精神的な物、熱のような属性を持った物など幾つもあり、バリエーションだけで百以上は創れる。

 いいことづくしのようだが、魔法のように他者から手伝ってもらうのではなく、自分が導いてくるため、強い精神力がなければ、廃人となってしまう。

 その代わり、他を経由しないため、すさまじい魔力を誇っている。

 サイザーを貫いた奔流は、大気を燃やしプラズマを迸らせ、地面に突き刺さる寸前で幾つにも分裂してやがて消えてなくなった。

「な、んだよ……あれ?」

 マチスは震えながら言った。

「うげぇえ!」

 嘔吐する声を吐き捨てながら、バーナーは殴り飛ばされ家に背からぶち当たった。

 立っていた場所には、銀を纏ったルチアの姿があった。

 レイ・カウントの閃光の影に隠れてこっそりとバーナーに近づき、不意をついて攻撃したのだ。

 か細い腕が放つ拳は、最初はボディに突き上げる、するとバーナーの身体をやすやすと宙に浮かせる。そこに二撃目、頬に強烈なストレートを決めた。風に煽られた木の葉のように吹き飛んで行き家の壁もろとも崩れ落ちた。

「いやあ、飛びましたね」

 瓦礫に埋もれるバーナーを見てクスクスと笑みを浮かべた。

「それでは、一つ、ボーナスでもあげますか」

 そう言うとルチアは、地面にへばっているフェルトを起こした。

「……?」

 わけもわからないまま立ち上がったフェルトの両目を、包帯の上から優しく触れた。

 離すと薄っすらと銀色の光が跡を残したがすぐに消えた。

「おや? ……逃げられちゃいましたね」

 今一度、瓦礫の方に目を向けると、残っているのは砕けた石だけ、人の影など跡形もなく消えていた。

 ルチアが言うと同時に身体から光が離れ、空の彼方に飛んでいった。

 ドテッと紐のように崩れ、アデュは地に突っ伏した。

「いってー何だったのか?」

「とにかく、アデュを起こしましょう」

 エレハイムは言うとアデュに寄り、身体を揺さぶった。

「おおーい! 大丈夫かエリィ!」

「シーザー、カニカ! それとその他」

 エレハイムは駆けつけてくれた仲間に歓喜の声を上げた。

 すぐにフェルトとアデュを担ぎ、マチスを先頭にして逃げる準備にとりかかった。

 一行は黒を混ぜた蒼のたいくう大空を燃やす烈火を背に、暗く静まり返った草原を歩き出した。


シーザー:『奴らは王の兵だった』

エレハイム:『アデュも言っていた。まさか、こんなことになるとは……』

シーザー:『バーナーにせよ、何にせよ。王は本気だ。そろそろ刻が満ちたのかもしれないな』

エレハイム:『明日。厳しくなりそうだ。マチスたちにも手をかしてもらおう』

シーザー:『……(悲しくもなる)』

エレハイム:『待っていろ。滅ぶべき種族。滅ぼされるべき種族! 終焉に笑うのはどちらか決着をつけてやるから』

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