第2話 陰謀

 刹那、瞳に映る景色が消えた。

 深い眠りが脳髄に浸透し、夜よりも暗い闇が彼を包み、惑わす。恐れとおののきがのぞ臨み、彼の身体は震えはじめた。生温かい風が頬をさすり、身の毛がよだつのを感じた。

 彼の正面に何かが出現した。

 姿を確認することはできない。視野は黒に覆われているからだ。けれども、何か感じるのだ。不気味な気配。彼はそれに触れようと手をだすが、無理だ。水をすくうような感触さえない。手は通り過ぎていった。

 重い沈黙がガラスのように一面に張り巡らされた。そして、沈黙を割ることなく、黒色が薄く引き伸ばされ、視界が明るくなってくる。太陽光のように上から下へ、下から上へ、白い光線が射した。

 そこには、人を象った物体が佇んでいた。鮮明に見えなかった。霞みがかったかのように振動し、いまにも消え入りそうだ。

 それの口が微かに動く。

 しかし、彼には何といっているのか、よくわからなかった。


 照りつける太陽は、焦げつくように地面を焼いていた。陽炎が立ち昇り、景色がぼやけている。土に吸収された血が、熱さで、少しずつ蒸発しながら匂いを発っしていた。

 彼ネメシスはひとり丘の上で突っ立っていた。

 なにか、自分の身体でないような感じがした。たぶんそれは熱射病だろう、とネメシスは頭を振る。やんわりと意識が戻ってきたが、丘の傾斜で倒れてしまいそうだった。

 風が涼しく誘い、銀にきらめく髪の間をすり抜けてゆく。ちょっと威張った感じの黒い瞳が鈍く光った。

 刻まれたはずの記憶なのに、彼は何をしていたのか、スッパリその部分が切り取られていた。

 ただ、わかることと言ったら、アデュの周囲に倒れた人の絨毯。自分がやったと思う感じが、拳にうっすらと痛みを残している。

「ま、いいや。いつものことだし」

 アデュは、軽く風に流して、その場を後にすることにした。

(何が起こったにしても、助かってしまったことに代わりはないからな)

 自分の手から姿を消した愛用の短剣に気づき、辺りを見渡す。一本は、足元に転がっていた。もう一本を探して少し歩くとそこに血に染まって倒れている男を見つけた。

「一人、殺めてしまったか」

 微かに残る記憶の断片、身体を貫いた剣が脳裏に映る。

「せめてもの償いだ」

 アデュは、膝をつき、手にした一本で地面に遺体を入れる穴を彫り始めた。

 人を殺すことに心が錆びれていく気がしてならない。

 アデュの青い瞳が猫のように細まった。

 殺気。

 吹き出す感情を隠す事を知らない正直者は、穴を掘っているアデュに正面から近づいて行った。

 アデュは、ゆっくりと顔を上げる。そいつは、鈍く光る銀の短剣を持っていた。重そうにヨタヨタと歩く姿は小さな影をふらつかせている。

 そいつは、子供だった。

 十歳、十一歳くらいの男の子だった。

 茶色い髪をさっぱりと短く切っていた。白い肌は透き通り、生まれたばかりの芽のような瑞々しさを持っている。見ていると吸い込まれそうな漆黒の瞳が、白い肌に埋もれていた。ただ、その顔には愛くるしい笑顔とはかけ離れた、怒りの心が映し出されている。

 ゆっくりと少年は、一歩、踏み出した。その歩みは徐々に速くなっていく。

「フェルト、危険だ! 戻れぇ!」

 遠くから緊張した女の声が飛んで来た。

 アデュは穴を掘るのをやめ、立ちあがり声のした方を見る。

 子供のずっと向こうに緑色の髪の女を確認した。横には金髪の男が並んでいた。二人はこちらに向かって走って来る。

(この小僧、フェルトと言うのか)

 アデュは、一旦視線をフェルトに戻した。

 アデュが目を離している隙に間近まで迫ってきている。手にした短剣は血に汚れ紅く染まっていた。

(俺の剣! こいつ糸で縫うか)

 フェルトは、その剣を振りかざし、イノシシのように周りには目も向けず突っ込んで来た。がむしゃらに振られる切っ先からは、紅い血が飛ぶ。

「うあぁぁぁぁぁぁ!」

 気合の入った一太刀が、アデュの喉目掛け突かれる。

 フェルトの攻撃は、目、喉、心臓と、当たればかなり危険な所ばかり狙ってきている。末恐ろしい子供と思いながらアデュは気を抜かずに避けていく。

 止まることなく振り回される剣は減速することはなかった。むしろヒートアップしている。

 フェルトから剣を取り上げるために腰にさした、もう一本の短剣を掴む。

 顔に迫る刃を払おうと一閃させた。しかし、運悪く自分で掘った穴に足を取られ、切っ先はフェルトの持つ剣から大幅にずれた所を切った。

「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 岩を貫通させるくらいの悲鳴が辺りに響く。

「あ!」

 アデュはその光景に我を忘れた。

 空を切るはずだった切っ先は、タイミング良く、血で滑って転びかけたフェルトの両目を浅くとらえた。

「フェルト!」

「これは、酷い!」

 二人はようやくフェルトの所まで来ると小さな身体を抱き寄せて傷を見る。

 緑の髪。

 アデュの頭の中にあった。

 エレハイム・E・ジークフリート。メリックの幹部である。

 緑の髪は近くで見るとエメラルドに光って見えた。視線の奥にある瞳は紅い炎を燃やしアデュの顔を睨みつけた。

「子供に手を上げるなんて最低だ!」

 もっともな意見を言った。

(興味深い)

 アデュは、何の反応も見せずエレハイムの服を見た。

 ただのどこにでも売っていそうな服に金色の刺繍が施されてある。古代ルーン文字に似たそれから、アデュは何かしら感じるモノがあった。

「てあまと?」

「あ? あなた聞いてるの?」

 エレハイムは顔をゆがめ、不信な視線をおくる。

「エリィ、今は批難している状況じゃない。早く手当てしないと」

 金髪の男がフェルトを抱え立ち上がり、アデュに背を向ける。

 ずん。

 大地が大きく揺れた。

 地震とは違った一瞬の衝撃が足に響いてくる。

「何?」

 エレハイムが男に尋ねる。

「ジロンドの連中が大砲とか言う武器を使って攻撃を始めたんだ」

「に? 大砲だって!」

 二人の会話を盗んで聞いていたアデュが声を上げた。

「あの、城の壁を一撃で壊すと言うあれか?」

「あなた、人の会話を盗まないで」

 ヴァンデ公国の国外の地域で発明された大砲。火薬を使い巨大な鉛球を飛ばす兵器だ。ずっと遠くの国ではそれで戦争をして多くの被害を出したと聞く。

 ここヴァンデでは剣、弓などを使った闘いをしている。銃や大砲を造る技術がまだないのだ。

 外国から運んできても往復三年以上かかるため大砲のような武器を使って戦おうとすることは無駄でしかなかった。

「なんで、大砲なんかがあるんだ?」

「独自に造ったと聞きましたが」

「バーナー! そんなの相手にしてないで早く!」

 エレハイムが一喝入れるとバーナーは申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。

 ずん。

 再び地面が振動した。

 アデュは丘の上に立ち一望した。

 池の辺にある城からもうもうと黒い煙が上がっている。緑は蹴散らされ、城の城壁が所々に穴があき、鎧をまとった騎士と鍬や鎌で武装した農民たちが互いに傷つけあっている。

「これって」

 気が抜けたように彼方を見据える瞳は泳ぎ、精気が失われたようだった。

 ずん。

 三度、大地は強く揺れ動いた。

 大砲が打たれるたびに大地がきしみ苦痛の声を漏らす、城の緑が吹き飛び、気が倒れる。血が流れ落ち倒れゆく人の恐怖と絶望が辺りに漂う。

 アデュの頭に次々と死が見えた。

「って、突っ立て見てる場合じゃなかったよ」

 パチッと頬を叩いて気合を入れると、煙に包まれた主の城目指し歩み始めた。


 城内は混乱していた。

 いきなり訳もわからず城壁は壊れ、城の庭園には穴は開くは、兵たちは迅速な行動が出来なかった。

 ようやく事態を整理した時には武装した農民たちが城内に侵入して来て敵味方の区別することが面倒なくらい混戦として入た。

 兵たちも勢力を盛り返すべく戦い続けているが、陣形を組むことすら出来ないまま押されていた。

 それを城のバルコニーから眺めている男がいた。

 ブロンドの髪を後ろになでつけ、数本が額にかかっている。アデュと同じ青い水晶のような瞳をした三十代全半の男だ。藍色の詰め襟の服は身体に纏い落ち着いた雰囲気を現しているようだ。

 ローレン・ラス・ベリズナ。

 ヴァンデ公国を統括する国王というべき者だ。

 弱冠二十四歳でその地位に就き、今に至る。

 政治力、軍事統率力もさることながら、内に秘める野心は計り知れない。子供の頃の貧しくひもじい思いから来た思い、他人を踏みにじり得ようとした思い。

 自分の未来を掴むためには、誰かを踏み台にしなければならない。

 ローレンの意見だった。曲げることすら出来ない巨大な心の柱。

 今、苦労して手に入れた栄光が崩れようとしていた。

「ムシケラどもめ」

 湧き上がる怒りは止まることを知らなかった。

「農民の分際で畑でも耕していればいいものを!」

 ローレンは、掌にすっぽりと納まる大きさの小ビンを陽にかざした。

 それは薄紫色の光の帯をローレンの顔に降らせる。少し振ると小さな泡が立ち上がった。

 庭を眺めるローレンの後ろからキィィと音がして、巨大な窓が開く。

「ローレン。こんな所にいたのか」

 青い瞳の少年が顔を覗かせて言った。

 アデュである。

 額からはうっすらと汗が浮き出ていた。春の風が吹きつけると心地よく冷やされる。

「戻ったか」

「へい」

「で反乱はどうだった」

「小規模なものだ。わざわざ俺が出向くまでもなかったな」

 アデュは任された任務を報告した。国境に近い地方は、他国との交流などあり武装した革命家を名乗る者が多く出没していた。今回、国王の管下に入る村が幾つも攻撃されたために、アデュが直に出向いて鎮圧することが目的だった。

「そんなことより」

「わかってる」

 ローレンはアデュの言いたいことを察し、言葉を止めた。

「ムシケラどもが大砲とか言う武器を持ち出しいい気になって攻撃して来たんだ」

 言葉に怒りが深く刻まれていた。

「お前、戦っていたな」

 ローレンは、視線をアデュに向けボソッと呟いた。

「血の匂いがする」

 にやりと口を曲げ薄気味悪く笑った。

(ったく、犬みたいな嗅覚だな)

 アデュは毒づいた。

「その通りだよ」

「殺したな」

 アデュの身体が小刻みに震え始めた。自分でも何故だかわからなかった、ただ、震えは止まることなく身体を揺らし続ける。

 両手で全身を締めつけるも、なかなか止まらなかった。

「一人殺めてしまった」

 唇が微かに動き、聞き取ることが難しいくらいの小さい声で言った。

「たった一人しか殺さなかったか」

「たったじゃないさ!」

 アデュは声を張り上げ、ローレンの青い瞳をじっと睨みつけた。

 ローレンはしっかりとした足取りでアデュの前に立って優しく語りかけた。

「お前は優しすぎる。生き延びるためには人を殺すのもやむを得ない。その優しさはとっておけ、訪れる次の時代のためにな」

(やむを得ないモノなのか。人が死ぬことは?)

 アデュの考えていることを察してか、ローレンは彼の頭を撫でた。

 アデュより頭三つ分ある身長から投げかけられる眼差しは父親のような愛情と、兄貴のような穏やかさが混じっていた。

 アデュは捨て子だったのだ。

 どこからともなく赤子の彼を連れてきて世話をしていた。身寄りもなく一人寂しく過ごすアデュの側には必ず彼の姿があった。一緒にいる時間が長くなるに連れ二人は肉親以上と呼べる仲になっていった。第三者からはそう見られていた。

「頭を切り替えろ、人が死ぬのを見たくないなら戦え。勝者になって戦いのない世界を作ればいい」

「なるほど、そうだね」

 見る間に輝かしい笑顔を見せた。

 心の奥では「本当にそれは正しいのか」と疑問がひっそりと生きていた。

 ずん。

 体を揺する爆音は耳元で叫び、迷いを振り切らせる。

(今は、ローレンを守ることが先決だ。切り替えできるかな?)

 自分に言い聞かせバルコニーの手すりから身を乗り出し冷静に辺りを見渡す。

 戦況は不利だった。敵の持つ大砲は思ったより強力で味方の陣を作らせる間もなく連射してくる。その度に上がる悲痛な叫びがアデュの心を苛む。しかしそれに気を取られている暇もない。

(まずは大砲から兵を守るか)

「ローレン、一旦中に入っていてくれ」

「うぅっ」

「う?」

 うめき声を上げるローレンの方に振り返った。

 彼は拳を力の限り握り絞め露骨に怒りを表していた。

「見ろ!」

「どこを?」

 庭を指差した。そこは美しかった面影をなくし、荒れ果てた畑のように土が散らばり、透き通っていた小川も崩れ去っていた。

「私の城がムシケラ如きにここまでされたのだぞ。生きる価値のない、美を知らないヤツラに!」

 先ほどの落ち着きは嘘のようにヒステリーを起こしていた。

「っと言っても仕方がないので、さっさと殺っちゃいなさい。アデュ」

「何なんだよ、もう」

 アデュはへなへなと崩れ落ちた。

 ヒュ-ゥ。

 風を切る音がどんどん大きくなっていく。

 アデュは顔を上げるとこちらに向かって来る鉛球が目に入った。大きさは遠目で測って約直系1メートルはあると見た。加速がついたそれは華奢なアデュの体など、一撃で粉砕してしまいそうなくらいだ。

(狙いはここか)

「斬り込み隊長、私たちに逆らったこと後悔させちゃいなさい」

「オーケー」

 二刀の愛剣を手に持つと一つ跳躍して、飛んでくる鉛球に向かって突撃した。

 迫る黒光りする球に銀の閃光が迸る。

 摩擦音を漏らしながらビクッと震え、真っ二つに割られていた。

 斬り口を覗き込むローレンの顔に意味深い笑いが浮かぶ。

「見事だ。剣のアデュ」

 鏡のように彼の顔を映し出す面は一切の斑なく斬られ、曇ることはなかった。

「皆、敵の球は気にするな、俺が全て切り刻む。攻撃に集中しろ! 各班にわかれて陣を組め。C班後ろに下がれ! そこ! 左後方支援忘れるな」

 着地するなり素早く各兵に指示を与え始めた。弱冠十六歳と言う若さでありながら彼の大雑把な作戦は功を奏した。

 攻撃に専念することが出来ることを知ると彼の指示に従って、陣を組んで猛攻をしかける。

「あの指揮官、馬鹿か」

「一人で何発も飛んでくる球を止めるなんで不可能だぜ」

 敵の内の誰かだろう。彼に聞える口調で声を立てた。

 そう言っている内に重い爆音を轟かせ幾つもの黒い兵器が崩れた城壁の隙間から覗いた。

 不敵に笑うアデュの瞳からは安楽の輝きが満ち満ちていた。

(俺の異名は伊達じゃない)

 手にした剣を一瞥すると軽やかに振って見せた。簡単な動作に何かしら秘密があるとは思えなかった。

 青白い閃が見えたような気がした。

 本当に見えたのかどうかはわからない。風が揺らいだだけかもしれない。もしくは、頭の中に生みでた幻想なのかもしれない。

 ただ、それが一つ宙を飛来する鉛球に触れた瞬間。そこにあったことを疑ってしまいたくなった。鉛球は采の目に切られたかと思うと瞬きする間を置かず微塵に切り裂け、粉、塵となって風に吹き飛ばされた。

「」

 訪れる長い沈黙。そこにいる者全て息を潜め空を見上げていた。誰もが口を半開きにしていた。

 それはそうだ。アデュの使った技はこの世界に使えるのは、一人、アデュしか使えない、人間に出来る技ではなかったのだ。

 剣圧と言う。

 精神エネルギーを刀身に溜め一気に放つ、切っ先から発せられる唸りが圧縮した空気の刃を生み閃となって飛んでいく。目標物に触れると圧縮された空気が破裂して、切り裂く。瞬間、空気の歪みができ全てのものが引き寄せられ、互いにぶつかる衝撃と摩擦によってさらに微塵に潰される。

 と言っても人を目標とした場合、皮膚を切り裂くことは出来ても万に一つ、身体を塵のように細かく押し潰すことは出来ない。

 しかし、それを初めて見る者にとっては、いきなり球が砕けたのだ、奇怪でしかないだろう。味方の兵の前でも使ったことはないため誰も動いている者はいない。


 ほっといていいのか?

 ローレンの頭の中で直に声が聞こえた。

 声の質は軽いが、雰囲気が重く圧し掛かってくる。身の毛がよだつ気がした。

「イヤ、これからだ。面白くなるのはな」

 懐から小ビンを出した。さっき眺めていた奴だ。

 使者の骸の始末は大変だぞ

「それなら心配ない。これが終われば引っ越すからな」

 おもむろに小ビンのコルクを抜いた。

 紫色の液体は空気に触れると白い蒸気を漏らし音を立てる。

 それを何気ない排水口にたらたらと流した。

 すぐに庭を渡る川の水は色を紫色に変え、臭いなき臭いを辺りに散りばめ始めた。

 味方の命すら断つ

「その通りだ。が、光の彼にどれだけ通じるか」

 願わくば、眠れる獣が目覚める事を。

 ローレンに聞えない心の内で彼は不敵に笑みを浮かべた。


 アデュは飛び交う球を撃ちながら、身体に異変のようなモノを感じていた。

 頭が重く睡魔に似た感覚がする。心が陰気な気分になるのを振り払いながら舌打ちした。

(おかしい? 急に身体が鈍くなったような?)

 頭上を飛来する球が止み始めた。アデュは敵陣に一人突っ込み傷をつける。と言っても切っ先は気を引くために振り、柄の部分で急所目掛け攻撃していた。

 開いた傷が塞がる前に味方の兵士が襲いかかる。その度に血の雨が降り、アデュの無鮮血が無意味に思える。

 どれだけ言ってもムダだ。彼らはアデュと違い余裕がなかった。アデュが攻撃してほとんどの鉛球は地に落ちることはなかったが、やはり先刻の手の出しようがない時の苦痛と恐怖心が心のどこかに在るのだろう。彼らはとっとと終わらせたい一心でいた。

(やはり冷酷にはなれないな)

 アデュは噴水のように飛ぶ紅い斑点を横目で一つ一つ確かめながら柄を振るった。

 不意に足を掴まれ体制を崩しそうになった。

 見ると紅く汚れた硬そうな手があった。

(?)

 声にならなかった。

 今目の前にある、現実を受け止めることが出来なくなった。

 手の持ち主は見覚えがあった。自分の隊に所属している者ではなかったが、違う隊の集まりに参加した時チラッと見た気がした。

 そんなことで驚いたのではない。

 そいつは、助けを求めてきたのかと最初は思ったが違っていた。顔の状態が異常だったからだ。

 目が地の淵を流れる溶岩のように血走り、狂気の視線を投げつけていた。正常ではないと本能的に感じ取っり、絡みつく手を振り解こうとするも虚しく後ろから足を払われ尻餅をついた。

 見ると今度は農民がそこに立っていた。

 彼も同じく目が充血し、不規則に息を吐いていた。

 周りを見ると敵味方関係なくそんな状態だった。

 麻薬を大量に投与したような苦しむ素振りからは、人間とは思えない形相でいた。

 アデュ以外の全てがそれだった。

 ある者は息が出来ないのか皮膚から血が滴り落ちるほど掻きむしり。

 またある者は、頭を地面に何度も叩きつけ、狂ったように喚く者もいた。

 地獄。

 もしそんなモノがあるのならこれだとアデュは肌で感じた。辺りに血の臭いが充満し、口の奥がムズムズしてくる。針山に立たされ、足の先から強烈な電撃が全身に掻けぬけ、その後には、ただ、気が動転しそうな戦慄が頭からつま先まで駆け降りた。

「くゅわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 獣の雄叫びのような一声が空気を裂き、それに続き、たくさんの悲鳴が耳障りな振動をたてて耳を突き抜けていく。

 思わずアデュは両手で耳を塞いでしまった。

 その行動は身に降りかかる火の粉を払うことを出来なくさせてしまった。

 尻餅をついた姿勢のまま一度起き上がるために足を掴んでいる兵士をやむなく顔面を蹴りつけた。兵士は顔を蹴られ退くかに見えたその時だ。

 兵士は体を仰け反らせたかと思うと近くに転がっていたサーベルを取り、迷うことなくアデュを突き刺した。

「ぎっ!」

 脇腹に熱がこもり次第に激しい痛みに姿を変えていった。

 意表をつかれた。異常な状態だった兵士が自分を攻撃しないと誰も言っていない。奥歯を噛み締め自分の不甲斐なさを呪おうかと思った。しかし、その考えもすぐに捨てた。

 アデュは持っていた短剣で兵士の片腕を切り落とした。

 脇腹の痛みと共に心が痛み出す。

「悪いな。だが、自分が生き残ることを一番に考えろって言われて来たからな」

 崩れ倒れる名前も知らない兵士に詫びを入れる。

(ごめん)

 アデュは刺さったサーベルを抜くと地面に突き立てた。墓標の代わりだ。

 痛みが増す傷口がらは赤々とした血が流れ青い衣を染めていった。

 辺りを見渡すと奇声を上げながら味方同志または、敵味方が刃を交えていた。先程の慎重な戦い方だった者たちは、人が代わったかのように狂い剣を振るう。

 容赦なく剣の雨が降り一人を相手に何人もが手を取る。グチャグチャの肉片にまで磨り潰すと手を取り合っていたのが嘘だったかのようにお互いを斬りつけあった。

 見るも無残になった仲間がそこにいる。イヤいた。

 顔は原型を留めていなかった。皮膚はもちろんのこと骨までもが砕かれ白く光って見えていた。

 狂う者たちは本能のままに戦った。人間としてではなく、血を求める野獣のように。

 不意に殺気が向けられアデュは息を潜めた。

「ま・さ・か!」

 全ての者がアデュに視線を送っている。

「ちょっとぉー!」

 ちらりと過ぎる血肉の塊。

 全身から血の気が引いていく気がした。この状況から推理して見ると行きつく先にあるものは。

「ぎゃうあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

「やっぱり、そうなるか!」

 一斉に襲いかかって来た! 味方だった兵士、部下も、もともと敵だった農民も一致団結したかと思うくらいの協力ぶりを見せつける。

 アデュは命の灯火を途絶えさせないためにも刃物の嵐の中をゴキブリのような速さで掻い潜っていった。色が黒だったらゴキブリそのモノだろう。

 とにもかくにも生き残ればそれでよかった。

 しかし、アデュの勝利の女神はそう簡単に微笑んではくれなかった。むしろ足を払われて転ばすだろう。

 アデュは避難するためにちょこまかと動き回り相手をかく乱して、わけをわからなくなくした所で木の枝に飛び乗った。

 傷が痛んだ。激しい動きが血の巡りを良くし、どんどん血を噴出させていった。

 手で押えて見ても隙間から零れ落ちる。手当てをしようにも、全身から力が抜けていくような感覚が襲い、中々行動に移せない。

 まだ、アデュが枝の上にいることに気がつかないで入る者たちは、もう、敵と思うよりほかならなかった。

「もう、ダメなのか?」

 誰にも聞こえない自分の声が耳から入っていく。途方もない不安感が迫りくることに恐れていく自分がそこにあった。

 ふと視線の投げた所に川が流れていた。

 自分の心と違った澄んでいて、綺麗な水が渡っている。

 もう一つの川は紫がかった水と違った液体が流れていた。

 瞬間、ピシャリと脳の細胞が閃いた。気がした。

 ローレンの書斎兼、研究室の本棚にあった小論文にある事項を思い出した。

 自慢げな表情が思い出された。大発見だと子供のように騒ぐローレンのいつもと違った一面が彼の目に焼きついていた。

(違う。それじゃない。中身は)

 新種の毒薬!

 水や空気に触れると毒素を出す紫色の液体。それをすった人間、もしくは動物は恐怖心など負の心に影響を及ぼす信号を脳に伝え、混乱し、周りにある存在に不安を感じて、それを消そうと必死になる。殺す、壊す。この二つが頭の中に渦巻くと言う。

 身体的な面では大体の人が目を充血させ、他の副症状ではだらしなく口が開かれる人もいれば全身に痺れが起こる人もいる。

(まさか。ローレンがそんなはすないよね)

 半ば言い聞かせて頭を振った。だが、そのまさかの確率が高いと思う。信じたくない気持ちがそうさせないだけであって。

 薬の調合方法を書いた資料や作った品はローレン本人が完璧に管理していたのだ。

 みし。

 心の葛藤が冷静に活動していた自分を見失わせた。

 バキ!

「あらぁっ」

 気づいた時には後の祭。

 乗っていた枝が軟弱だったのかアデュの体を支えることが出来なくなって根元辺りから折れてしまった。

 アデュもそれに気づかずにいたため真っ逆様に落ちた。

 幸い、落ちたところは芝生の生えた柔らかめの場所だったので運良く助かった。

「」

 いや、落ちたこと自体運が悪かったのだが。針のようなチクチクと刺さる視線を肌に感じアデュの背中に冷たいモノが流れた。

「ぎゅるる」

 唸り声。威嚇しているのだろうか?

「いやぁ、いい天気ですね。じゃそう言うわけで」

 その場を凌ごうと試みて気軽に話かけ、そそくさと歩み去ろうとした。しかし、女神はアッパーカットを食らわせた。

 思いっきり振りかぶってスイングして来る鍬の柄が不適な笑い声を起こす。

 しゃがんで交わすと身体全体をバネにして大きく跳んだ。

「働き過ぎは身体に毒毒だよ。少しは怠けないと」

 手を振りながら、その場に似つかわしくない笑みをこぼす。

 無知な少年。さよなら。

 耳元で唸る春風が急に人の声を奏でた。

 ローレン。十数年の間一緒にいた者の声だった。間違え様もない、頭の中で大きく陣取っているのだから。

 不意に春風が強く吹いた。海上を走るモノよりも、草原を渡るどんなモノよりも速く。

 空中で足を掬われる。そんなこと起こるはずがないと誰もが思うはずだ。アデュもそうだった。しかし、それは現実に起こったのだ。

 何かが押してくるふわっとした気分になる。

 体制が崩れ、よろめきながら落ちていく。

(女神のいじわる!)

 苦痛を吐く気に慣れなかった。

 意識が朦朧としていく。

 石が水飛沫を上げ沈んでいくのが見えた。

(あれってばオレだよ)

 運が良かったのか悪かったのか判別するのは誰もいなかった。

 流れに任せ下っていく身体は軽く血が抜けていくのがわかった。

 睡魔と違った眠りの鼓動が体を包み、霞みゆく視界の奥にほくそえむ者が一人見えた。いや、心に映ったものかもしれない。ただ、苦痛に歪む自分が深く沈んでいった。

(さよな、ら。ローレン)

 悲しみを吹き消すように風は穏やかであり、暖かい陽光を背に浴びて空を仰いだ。

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