契約

オーロラ・ブレインバレー

第1話 血の手紙

 青く澄みきった空の彼方へ春がゆっくりと流れる。

 優しく吹く風はアデュの頬を霞め、空に舞い、陽に照らされ新緑にきらめく草の詩を運ぶ。

 丘に立ち彼方を見る瞳は、池のほとりに建てられた宮殿をさしていた。

 明るい土色の城壁が囲む中庭は、小川が流れ緑が美しく飾られていた。建物も美しく建てられたばかりのように光って見える。

 アデュは、石に腰掛けた。

 赤みがかった茶色い髪が風に遊ばれ淡く閃き、青い空を切り取ったような澄んだ瞳が眩しそうに細まる。白い肌は、ちょっと触れただけで、砕け散りそうなほど繊細に見える。

 瞳の青より深い色の神父、修道僧が着る法衣に身を包み、動きやすいように前を開けてある。

「失礼」

 後ろから声が流れる。

 振り返ると皮の鎧を着て、軽装した男が一人、そこに立っていた。左腰に留められた剣の柄に手をのせ、穏やかとはとても言えない雰囲気をまとっている。

「国王親衛兵特別隊、隊長アデュさんと御見受けするが……」

 ――そんな大層なもんじゃない。と言おうと口を開こうとしたが、男の側から窮屈そうに悲鳴を上げる声が耳に入り言うのをやめる。

 脳裏を霞める桃色が小さく萎れる。

 瞬間、風が滑らかに動き、男に向かって細く吹く。

「足、退けな」

「えっ」

 いきなり顔の目と鼻の先に現れたアデュに驚き、男は後ずさった。

 野原を駆ける疾風のごとく、アデュは男に音もなく一瞬で近づいたのだ。

 アデュは、そこにしゃがみ込むと小さな生命に手をそえる。淡い桃色の花が黒ずみ、緑の茎は途中で折れていた。一輪の生命の糸が切れた。

「孤独と戦った者に光を……(なんてな)」

 膝をつき、胸の前で手を組み、目を閉じて物言わぬ骸にささやく。

「おい、質問に答えろ!」

 男はイラだった形相で、剣を抜き、アデュに突きつける。

「女に手を上げることは、我々の教えではない。たとえ国王の兵でもーー」

「――!」

 男の言葉をさえぎり、アデュは体をねじり、残像すら残らない速さで足刀を放ち、見事に男の鼻っ面を叩く。男は、そのまま宙を飛び、背中から倒れた。

 倒れた男にアデュは、視線をおくる。無言のままカッと開いた瞳には、怒りと悲しみが渦となって混ざりあっていた。

「これが答えだ……あと、僕……男だから、覚えといて」

 気を失い沈黙する男に凛とした口調で言った。

 声変わりしていないのか、口から流れてくる声は、凛とした中に柔らかさと慈悲の交じった少女の声だった。

 アデュは、容姿や声のせいだけでなく身長も同い年の男子と比べると低い方なので、女の子と間違われることが多い。彼自身は、気に留めることはしない、むしろ感謝している。この容姿のおかげで他人からかまってもらえるからだ。空腹の時でも、ちょっと突っ突けば食べ物をわけ与えてくれる。

「おい大丈夫か」

「だから気をつけろって言ったんだ」

「見かけにだまされて何人の人が死んでいったことか」

 どこからともなく、一人、また一人と男たちが出てきて、気を失った男にゆっくりと近づいて声をかける。

(仲間か……?)

 倒れた男に近づく男たちを横目で見ながらアデュは大きく息をついた。

(宮殿を目の前にして、待ち伏せかな)

 アデュは、彼らの手首に巻かれている白い布に目を向けた。『メリック』アデュの脳の浅い部分に浮かぶ船を探り当てた。

『メリック』

 それは、ここヴァンデ公国の王制に牙を向き、妄想的な思想を作り上げ、人々を惑わすものと言われている集団だ。

 自由を敬愛して、国王の独裁を打倒し、自分の意思で自由に過ごすことのできる国を作ると宣言した。

 およそ三百人という少ない人数でありながら、その勢力をじりじりと広げている。

 全国民の半数近くがメリックの思想に賛同し、各地で反抗の意を示している。その結果、自由を掲げる新たな派閥が出現してきていた。

 それぞれ、市民と一緒に小規模な反乱を起こしたり、王の管轄下の街を襲い解放したりいる。

「お前、剣のアデュだな」

「覚悟しやがれ」

 男たちは、手に手に鍬や鎌など農具を持ち、鋭い目つきでアデュを睨みつける。

「農民は、畑でも耕してな。凶作だよ、今年は……」

「なにぃ」

「畑ほっといて、いいのかそれで……?」

 飄々とアデュは、言ってのけた。皮肉ではなく正直に。

 彼らはもともと農民の出だ。戦う事を知らないが、革命に参加するために軍隊を作り、向かって来る。武装してもその力はたかが知れているが、人数にものを言わせてくるので一歩間違えれば死を迎えることだってある。

 ジリっと近づいて来た。今は、戦うことに興奮している。目が赤い。

(言ってもムダ……か。仕事しろよ、まったく困った奴め)

 アデュを取り囲み、逃げ場をなくして一斉に仕掛けて来るつもりだろう。その数、およそ五十人。

(さてどうする)

「殺っちまえぇ」

 考える間もなく男たちが襲ってくる。

 アデュは、打たれてくる鍬や鎌の間をすり抜ける。腰の後ろに手を廻し、目にも止まらない速さで打ち出す。

 農具の柄から先が地面に転がっていく。

 アデュの手には混沌に閃く銀色の短剣が一本づつ収まっていた。

 二本の剣は流麗な弧を描き農具を切り裂き、柄頭の部分が男たちのみぞおち目掛けて風を起こし。時に浅く切り伏せた。

 全ての動作が、川の流れのように穏やかで、風のように強く凪いだ。

 見ている者を魅了させる身のこなしは、優雅な舞いを披露する。するとそこには、紅い華が鮮やかに吹き散って、色を添える。

 剣のアデュと異名を言われるだけのことはあった。

 次々と倒れていく仲間を見ても怯むことなくどんどん押し寄せてくる。蜘蛛の巣のように鬱陶しい限りだ。

 精悍な裸体をさらした男が向かって来る。手には、刃の切り落とされた元鍬の棒があった。

 それをがむしゃらに振る。

 アデュは、払い、突かれる棒を見定め確実に必要最低限の動作で交わしていく。

 棒を振る速度が徐々に遅くなっていき、すっぽ抜けた。

 風が背を押し、隙の塊のような男に刃を浴びせる。

 脇腹を裂くはずの切っ先は、鋭い衝撃に大きく揺れた。

 すっぽ抜けた棒が石に当たって跳ね返り、アデュの手の甲を強く叩いたのだ。

 軌道を修正する間もなく、剣は男の胸に抱き、その身を赤く染め上げた。

 おびただしい量の血液が地面に落ちると、土がコウモリのように吸い尽くしていき、やがて腹が膨れると赤い海がそこに現れた。それは、止まることなく大きく広がっていく。

 血……?

 ――?

 ――人?

 ――死?

 脳裏に響く声は誰の声かアデュにはわからなかった。低いのや高いの、くぐもったのやしがれた……声。

 自分かもしれない。

 他の誰かかもしれない。

 「――!」

 喉の奥から響く奇声は音になることはなく、風に消える。

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