29歳、文学博士号を取得した僕の、唯一の進路は魔法使いでした

@kyp

序論

 日記。あるいは手記。査読の心配の無い文章を書くのは何時ぶりのことだろう。プロ野球選手よりなることが難しい、しかし待遇は少年野球の監督並みという文系研究者の道を志してから、既に五六年が経過しようとしている。来る日も来る日も冗長で畳語的な論文を生成する日々、当初は豊穣な実り多き沃野に見えた専攻フィールドが、実は荒涼たる不毛の原野に過ぎないことに気付いたのはそう遅いことではなかった。しかも剥き出しの荒野に蠢くのは研究者という名前付きの獰猛なクリーチャーで、時折湧く麗らかな学問の泉もすぐに奪われ飲み干されてしまう。涸れかけの水源を巡って怪物たちはひどく争い、片方が倒れるまで取っ組み合いの喧嘩をし続けるが、終わった頃にはもう水源は泥だらけ、勝者も敗者も疲れきった目でその戦場を離れ、すぐに新たなるオアシスを駄目にしに出かける。

 ……いけない、本筋とは直接関係しない業界の悪口なんかで、つい無駄に紙幅を埋め尽くしてしまった。これも普段の癖だ、書くことによって何か新しい情報が増えるわけでもないのに、文字数、ひいては論文数を稼ぐためだけに引き伸ばせるところは限界まで引き伸ばそうとしてしまう。この前の久保(2017)で行ったあからさまな字数稼ぎなんか思い出したくもないが、まあ安藤(2017)よりはマシだろう。いけない、普段の癖で文献の引用をしてしまった。そういえば安藤、あいつは進路決まったのかな。あの性格と学識の組み合わせだ、どんな道を選んだってうまく行くはずもないが、同じ破滅でも自分で方法を選べるなら少しは楽というものだろう。僕も自分の意思で進路を選びたかったものだ。……進路、職業、本来少しもやりたくはないが、社会の中で生きていくにあたって否が応にも向き合わなければいけないこと。マルクス主義のことは今考えないようにしよう。

 ここまで脇道的な文章を書いてどうにか逃避してきたが、もうそれも無理というものだろう。査読なんての僕がこの手記を書く理由は、決してアカデミアの悪口を言うためではなく、最近入門書で知った学説をわざと難解ふうに言って自尊心を満たす最低なスノビストを中傷するためでもなく、もちろんマルクス主義の再検討でもなく、ここ数日にあったことが、僕の信念に照らし合わせる限り明らかに異常で、書き残すだけの価値があると思ったからだ。この文章には章立ても脚注もない、いわんや先行研究の検討なんてのもない。なんでかって、この事態がどの学術論文でも取り上げられていなくて、新規性の塊でしかないなんて、そんなことはもう分かりきっているからだ。

 単刀直入に言おう。僕、久保保くぼたもつは魔法使いになった。今自分で書いていても、悪い冗談のようにしか思えないが、残念ながら本当のことだ。


 なお、「魔法」及び「魔法使い」の定義については、研究者の間で意見が分かれているところであるが、本稿の目的はあくまでその主観的な記述に留まるため、この手記では特に取り扱わないものとする。

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