1-6. 細密画、あなたが大切、悪巧み


 Edward



「今度は絵を試そう。印象に残っていること、何でもいいから描き起こせ」



 新しいエドの指示を、ニーモは素直に聞いていた。眠りから揺り起こされたような目でぼーっと紙とペンを見つめ、やがてコクリとうなづいた。


「……頑張ります」


 静かな気合のこもった様子で机に向かうニーモを残し、エドはアイシャと廊下に出た。


「なあ、若、ニーモちゃんって同業者なん?」

「あんな子どもが解剖教室に雇われると思うか?」

「鏡」

「……ほっとけ。何にせよ、あの子がどこかよその解剖教室で修練を積んだ可能性は低いと思うぞ」

「なんで?」

「彼女は『復活師』を聖職者と勘違いした。意味を知らなかったんだ」


 国王の認可を受けて合法的に提げ渡される献体の数は、英国全土で年間たった6体である。それゆえ現況、復活師との昵懇じっこんな付き合いなくして解剖教室の運営は立ちゆかない。


「解剖学を学ぶ者なら誰しも、死体調達屋の呼称ぐらい知ってる」

「じゃあ多分、どっか外国の出身なんよ。死体泥棒を『復活師』なんて罰当たりな名前で呼ぶん、この国だけでしょ?」

「マザーグースのパン焼き屋さんベイカーズマンがあるだろ?」

「あー、そっか、ロンドン出身か。うーん、せやけども……」

「ニーモが解剖教室の生徒でないなら、それはそれで話がややこしくなる」


 エドは手持ち無沙汰な様子で、革のゴーグルを磨きはじめた。硝子が暗い鏡のように自分の姿を映し出すのを思案顔で見つめている。


「ニーモの頭には、人体を切り開かなきゃ手に入らない知識が詰まってる。医者でも解剖学者でもない人間に、人体をさばいて中身を知る機会があるか?」

「なくはないやも?」

「例えば?」

「それこそ食屍人グールや、切り裂き魔ナイフマン

「……考えれば考えるほど不穏だな」


 その後あれこれ話し合ったが、有力な仮説は何一つ浮かばなかった。悩み顔のまま部屋に戻った途端、エドとアイシャは息を呑んだ。


 数十枚の素描が連なり、壁一面に人体の全てを映し出していた。


 壁の中央には別々のアングルから描かれた心臓のスケッチが4枚貼られ、そこから見えない脈管をたどるように、肺や腸、肝臓膵臓腎臓に生殖器の素描が並び、筋肉と骨格に描き分けられた四肢へと続く。脊髄の上に広がる頭部のデッサンは他より一段詳細で、舌や歯、眼球はもちろんのこと、脳や頭蓋、各神経に至るまで、あらゆる組織が細密にえがかれていた。


「……頑張りました」


 ニーモは、褒めてもらいたくてそわそわしている子犬のような顔をしていた。エドが頭を撫でてやると、くすぐったそうに目を細める。


「お前は本当に、とんでもない掘り出し物だよ」


 ――時間にして数十分。モデルもなく、記憶を頼りに描いてこの精度か。不世出の細密画家。彼女の絵を銅版画にして、ハンター先生の研究記録に添えればどうなる?  ヴェサリウスの『ファブリカ』を超える、医学書の革命が起こるんじゃ――。


 エドは手のひらを軽く握り、じっと見つめた。

 ――彼女の知識の出所を探るためなら、多少、体を張る価値はある。

 椅子に掛けてあったフード付きのマントを肩にかけると、エドはアイシャの肩を叩いた。


「アイシャ、留守を頼んでいいか?」

「え? 若、どっか行くん?」

「ちょっと共同墓場まで」

「ひょっとしてニーモちゃんが埋められてたとこ?」

「ああ。少し、手がかりを探しに行く」


 ドアに向かったエドは、マントをぐいっと後ろに引かれ、振り返った。


「何だよ、ニーモ」


 ニーモがマントの裾をぎゅっとつかんでいた。つい先ほどは撫でられて心地よさそうにしたいたのに、今はむすっと頰を膨らませている。


「……エドワードさんは、危ないことをしようとしてます」

「あ? 墓の様子を見に行くだけだぞ」

「……嘘です」


 ニーモとエドはしばらく無言で見つめ合っていたが、エドが先に折れたようで、両手を上げて降参の意を示した。


「……寝惚けた目してるくせに、やたらと気づくやつだな……ひとつがあるんだ。墓地に行けば、おそらく、お前を襲った犯人に会える」


 眠たげなニーモの目が、かっと大きく見開かれた。マントを掴む手に力が入る。


「……とは、何ですか?」

「帰ってきたとき教えてやるよ」

「……犯人を、どうするつもりなんですか」

「ぶっ飛ばして生け捕りだな。訊きたいことが山ほどある」

「……危ないです。相手は人殺しですよ?」

「相手は殺人犯じゃない。小娘一人仕留めきれない間抜け野郎だ。それに言ったろ? どうしても知りたいことがあるなら、なりふり構ってちゃ駄目だって」

「……あなたはもっと、自分の身を大切にするべきです」


 ニーモが心配そうな顔で言っているのを、エドは一笑に付した。妖しい輝きを宿した目を細め、不遜な顔つきで胸に手をあてる。

 

「俺は解剖教室の裏の顔、腐肉喰らいスカベンジャーの渡り鴉だ。汚れ仕事を一手に引き受け、捨てられるまでが俺の役目。自分の身を案じるなんて馬鹿げてる」

 

 ニーモは俯き、ほとばしる激情を抑え込むような声で言った。


「……あなたは、それでいいんですか?」

「構わないさ。俺は死んでいい。俺が命と引き換えで得た成果を、ハンター先生は絶対に無駄にしない」

「……自分を捨てた考えです。あなたには、大事なものがないんですか?」

「ねえよ、そんなもん。大体、自分の大切なものが何か思い出せないような奴に……」

「……わたしは、あなたが大切です」


 エドが、不意をつかれたように瞠目する。ニーモは胸を押さえ、絞り出すような声で言った。


「……わたしも、ついていきます。あなたを、一人にはできません」


 怒られるのではないかとびくびくしつつも、ニーモは、確かな決意をその瞳に宿らせていた。

 しばらく考え込むような仕草をした後、エドは小さく息をついた。


「……街に出たら、俺の手が届く位置から離れるなよ。いつまたぶっ倒れるかわからんからな」

 

 ニーモの顔が、ぱっと晴れやかなものになった。エドは鬱陶しそうに鼻を鳴らし、ニーモに背を向け歩き出した。


「俺は一旦自室に戻る。爆竹やら電気警棒やら、色々支度があるからな。アイシャ、ニーモに着替えを用意してやれ」 


 アイシャは溌溂はつらつとした顔で額に手をかざし「あいよ、了解! 手取り足取り着せ替えるよ!」と元気に応じた。何やら下心があるように見える。


 エドは廊下に出ると、歩きながら、ニーモのスケッチをつぶさに眺めた。数枚、壁からはがしておいたものだ。

 ――別に、あの娘の気持ちを汲んでやったわけじゃない。

 ――彼女には画家の才がある。言語情報よりも視覚情報にる性質。多分、ここでお喋りするよりも、市街に連れ出し色んなものを見せたほうが、記憶を呼び起こすのに効果的だ。それだけのことのはず――。



『あなたには、大事なものがないんですか?』



 ニーモの言葉が頭の奥に蘇る。

 エドは足を止め、吹き抜けの手すりに背を預けた。天井を仰ぎ、軽く握った拳を目にかざす。

 まぶたの裏に、腐敗した少女の姿が映った。少女はこちらに微笑みかけ、柔らかそうな金の髪を闇の中に踊らせた――皮膚は土色で、赤紫の痣がまだらに浮かぶ。白濁した眼球が腐り落ち、暗い眼窩がんかを覗かせる――懐かしい――メルに連れられ、初めて解剖したときの、あの屍体――。

 エドは手を外し、消え入るような声で言った。



「……大事なものは……昔なくした」




       *


 Nemo



「……あなたは、どう思ってるんですか、エドさんのこと」


 着替えをとりに部屋を出ようとしたメイドに、ニーモは声をかけた。アイシャはしばらく考え込むようにしたあと、少し照れたような顔で言った。


「あたしね、ハンター先生のお弟子さん全員を『若』って呼ぶわけやないんよ。立派なお医者さんになれそーな人……ご老体の意思を継ぐ資格がある人限定。でも、あの馬鹿は5年経ってもそのことに気づかんくてね」


 ドアを閉める直前、アイシャは悪戯めいた笑みを浮かべて手を振った。


「若をよー見とってね。勇猛果敢で才能の塊だけど、危なっかしくてしゃあないから」


       *


 部屋に一人残されたニーモは、しばらく椅子に座って所在なさげに足をぶらぶらさせていた。何とはなしに、解剖台に放置されていた単語の羅列を読み始める――まだ、エドが目を通していない部分だ。


「……あれ?」


 地名に人名、組織名や風習の名前がとりとめとなく並ぶ中、一つ、ニーモの目を引きつける言葉があった。



 ――オーガスタス・メルヴィルの悪巧み。



 ニーモは眉根を寄せた――これ、誰だろう。わたしが書いた単語なはずなのに、思い出せない。


『覚えてること、何でも書き起こせ』


 エドの言葉が脳裏をよぎる。



「……これは、覚えてることじゃない」



 ニーモはインク瓶に人差し指を浸し、さっと紙片に擦りつける。見知らぬ誰かの名前を、跡形もなく塗りつぶした。

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