1-5. アルプス一万尺、ニンフの古帽子、ここ


 Edward



 アイシャがハンター邸の廊下を歩いていると、解剖実験室から少年少女の陽気な歌声が聞こえてきた。


「『パタパタこねてパタケイクパタケイクパン焼き屋さんベイカーズマン』」


 くだんのニーモとエドがマザーグースの歌を口ずさみ、手を打ち合わせて遊んでいた。ニーモはほんのり頬を赤らめ楽しそうにしているが、エドは真顔だ。

 アイシャはドアの隙間からじっとりとした視線を投げかけた。


「若……何イチャついとん……まさかあんた幼女趣味」

「ぶっ殺すぞ」


 歌遊びを中断すると、エドは椅子に腰かけ紙束に目を落とした。アイシャはエドの背後から彼の肩に両手を乗せ、その中身を盗み見た。

 様々な単語がとりとめもなく並んでいた――ドルリー・レーン劇場、盲目ブラインド判事ピークジョン・フィールディング、ボウ街のボウストリート警吏ランナーズごろつき兵士ブラックガード、テムズ河の氷上祭、業火ヘルファイアクラブ、スピタルフィールズ、モロッコ男、ロンドン塔の渡り鴉、熊いじめ、ジョン・ゲイの『乞食ベガーズオペラ』――地名や人名だけではなく、組織や風習の名前もある。2割か3割ほどは、アイシャの知らない言葉だった。


「これ何の記録?」

「ニーモが覚えていたことの洗い出し。知ってる言葉を片っ端から書き起こさせたもんだ」

「何でまたそんなもんを?」

「記憶の検証。そいつは今、自分の名前さえ思い出せない状態にいるらしい」

「……ほはー……そりゃまたすごい症例が来たもんやね」


 アイシャは単語の一つを目に止め、眉間に皺を寄せた。


「くあっくすれいばー……耳に覚えがあるんやけど、思い出せん。なんやっけ、ニーモのお嬢さん?」

「……嘘の医術でお金儲けしてるイカサマ師のことです」

「あー、思い出した、山師クァックスレイヴァ―。司教様が若先生を呼ぶときに使ってた罵詈雑言シリーズの一つやね」

「……本当は、そんな呼ばれ方されちゃ駄目なのに……」

「泥棒や怪しい実験ばっかやってるしねえ、言われてもしゃーない」


 アイシャは飄々ひょうひょうと笑って見せたが、ニーモは泣き笑いに似た顔で応じた。


「……本当は、とても、素敵な人なんですけどね」


 ニーモはうつむき、チュニックの胸元をぎゅっと握る。アイシャはニーモとエドを見比べて、何か察した顔をしたあと、にんまりと頬をほころばせた。


「もー、いじらしい子やなあ、可愛かわいない?  なあ、めっさ可愛かわいない?」


 アイシャはうきうきとエドの肩を揺らしまくった。エドは返事をする代わりに、裏拳でアイシャの額を小突いて黙らせる。「のあー」と気の抜けた悲鳴を上げるアイシャには目もくれず、エドは思索に耽った。


 ――色々試した甲斐あって、法則が見えてきた。

 ――ニーモが失った記憶は「自分自身に関すること」だけ。例えば、本で学んだ知識なら問題なく残っている。一方で、誰からその本を授かったかとなると、思い出せない――交友関係に関する話題、自分に関する記憶だからだ。


「しかし教養あるな、この


 字の読み書きは一通りマスターしているし、何より、なまりがない。

 18世紀のロンドン市民の声は「彩り豊か」と称されることがある。同じロンドン市内にもかかわらず、地区ごとに特有の訛りが存在したのだ。例えばアイシャはイズリントン地区独自の方言を使うし、エドの知り合いには一言でサザーク地区出身者とわかる特徴的な言葉を話す男がいる。

 ニーモの発音にはそうした癖がない。上流階級ないし中産階級の者が訓練のすえ身につける、正統な発音だ。


「……分かんねえな。商家や貴族の娘が、名無しニーモとして埋葬されるか? 誰かが告訴して騒ぎになるだろ……」


 目を上げると、アイシャが椅子に座ったニーモの背に立ち、髪を三つ編みに結っていた。アイシャは必要以上にニーモの首や耳をペタペタ触っているが、ニーモはくすぐったそうに目を細めるだけで、なされるがままにしている。


「出会っていきなり距離近えな」

「ええやん別に。で、若の考えはまとまった?」

「方針は定まった。このまま知識を洗い出して彼女の素性を特定する」

「ふーん、何やいろいろ試してたみたいやけど、進んでんの?」

「そうだな、一応、手がかりを一つ見つけたか」

「ほほー、どんな?」

「幼児がよくやる歌遊びの振り付けを体で覚えてた。しかも、ウェストミンスター地区周辺でしか流行はやってない替え歌をな。幼少期をこの界隈で過ごした娘だと思う」

「あー、なるほど。さっきのはそーゆー」

「これだけやってまともな成果はそれだけだ。先が思いやられるよ」


 エドが長い溜息をついた。ニーモは自分のせいでエドが苦労するのが申し訳ないらしく、小さくなってしまっている。そんな2人を見比べて、アイシャはニーモに聞こえないよう声を抑え、エドに耳打ちした。


「あんまり面倒臭そうにするもんやないよ、若。ほら、ニーモちゃんに気ぃつかわせるし」

「こちとら嫌々やってんだよ」

「嘘やね、話を楽に済ませたいなら、昨日のうちにトドメさしゃ良かった話やん」

「……なんでお前らはそう、悪鬼みたいな発想すんだよ」

「お前?」

「気にすんな」

「別に、一考はするでしょ。躊躇ためらいなく実行に移すんは、メルにいぐらいやと思うけど」

「あいつの話は止めろと言った」


 エドはあからさまに顔をしかめ、解剖台に腰かけた。


「しかし、闇雲に洗い出すんじゃ効率が悪いな……いっそ、深い知識を狙ってみるか?」

「狙う?」

「例えば、ニーモにパンの製法に関する専門的な問いをぶつけて、答えが返ってきたとする。その場合、彼女はパンの専門家に違いない。ニーモを連れてあちこちパン屋を回れば、やがて彼女の雇い主に会えるはずだ。他には、そうだな……彼女にラテン語の古詩を暗唱するよう命じたら、すらすらそらんじてみせたとする……その場合、彼女を文芸サロンに連れていくといい。会員が、彼女のことを知ってるかもしれねえから」

「考え自体はわるないけど……パンのレシピも古詩もないしなー、この家。それやるには資料が足りんよ」

「どうせしらみ潰しでやるんだ、試せるものから試していこう。何か詳しく知ってることはねえか、アイシャ?」

「うーん……あたしの詳しいことかー」


 ニーモの首に手を回して抱きつくと、アイシャは天井をぼーっと見つめた。



「ニーモちゃん、ニンフの古帽子はお好き?」



 ニーモがきょとんとした顔をしているうちに、エドが動いた。アイシャの後頭部を平手で殴り、部屋全体に乾いた音を響かせる。


「めっちゃ良い音鳴ったあぁ……飛ぶ……あたしも記憶が飛ぶ……うわ、顔こわっ……ごめんて若……出来心やから」


 精霊ニンフは古来より美女の代名詞とされていたが、かつては売春婦を示す語としても使われていた。また、古帽子オールドハットは女陰を示す古い俗語だ。


「これはほら、あたしらみたいに、育ちの悪い子しか知らん知識やろ?」

「本音は?」

「男女問わず、可愛い子に隠語浴びせるとゾクゾクする」

「思った以上に本音が本音で引く」

「でも、あれね。あたし、卑猥な言葉に頬を赤らめているよりも、卑猥な言葉の意味が分からんでぼけーっとしてるのほうが興奮するみたい……若、あたし、自分の新たな側面に気づいたかもしれん」

「お前の新情報は要らねえんだよ。もういい。他を試せ、他を」

「他かー……うーん……ごめんね若、ここまでみたい……あたしはもう、あたしの持つ知識の全てをぶつけたよ」

「そうか、お前が17年間生きてきて得たものは、卑猥な語彙か」

「頭ん中そればっかなんよ。えへへへへへー」


 怪しく笑って、アイシャはニーモに頬ずりする。エドは無言でニーモの手をとり、アイシャから引き剥がした。子猫を守る母親のようにニーモを背に庇う姿勢をとる。

 完全に色情魔扱いされてしまったアイシャだが、ニーモがエドに握られた手を愛おしそうに見つめているのを目にすると、悔いはないと言わんばかりの晴れ晴れとした顔をした。


 そのとき、ダンと激しい音が空を裂き、三人の視線を引いた。


「……ミーナ?」


 一羽の小人うさぎピグミーラビットが、床に足を打ちつけていた。スタンピングと呼ばれる、うさぎの威嚇行為である。


「ミーナはお子様だから、若が誰かの肌に触れると不機嫌になるんよ。この子多分、若のことを飼い主じゃなくて恋人と思っとるよね」


 アイシャがそう言うと、ニーモとエドが揃って同じ向きに首を傾げ、声を重ねた。


「ミーナは子どもじゃないけどな」

「……ミーナちゃんは子どもじゃないですけどね」


 2人がそれぞれはっとした顔をする。ミーナが「寂しい!」と叫び出すような顔ですり寄ってくるのを拾い上げ、エドはニーモに問いかけた。


「ミーナを目にした奴は大抵、こいつを子うさぎだと勘違いするんだが……何を基準にこいつを成体と判断したんだ?」

「……同種を見た覚えがあって……彼女は、うさぎの中でもかなり小柄な品種ですよね?」

「まあ、その通りなんだが」

「……あ、でも、白い毛並みの子を見るのは、初めてだと思います」


 エドが口元を覆い思案にくれていてると、アイシャが横から問いかけてきた。


「何? そんなおかしな話なん?」

「ミーナは、ジェームズ・クックの帆船レゾリューソン号がアメリカ西部から持ち帰ってきたつがいの子孫。ロンドン塔の王立動物園にも同種がいない、希少種中の希少種だぞ」

「へ?」

「それを、見たことがある……?」


 エドはしばらく考え込んだあと、「質問だ、ニーモ」と声をかけた。


「大英帝国が誇るエリート内科医の鞄には、水銀に石灰水、怪しげな薬草や虫の死骸が詰まってる。大抵は薬として役に立たないし、そうでないなら有害だ。しかしそうしたゴミの中にも、ただ一つだけ有用な薬がある。どれだと思う?」

「……ローダナム?」

「内科医はそれで何をする?」

「……もう助からない患者に、安らかな死をもたらします」

「……素で言ってんのか皮肉をこめてんのか……まあ、間違っちゃいない」


 ローダナム――それは16世紀の錬金術師パラケルススが開発した医薬用エキスである。18世紀にはイギリス全土に広まって、鎮痛剤や止瀉ししゃ薬、咳止めとして重宝された。現代の人々には、常習性を指摘され医薬としての栄華を失ったことで知られる薬だ――別名を、阿片アヘンチンキという。


 エドは薬品棚に手を伸ばした。防腐液に漬けられた、作りかけの臓器標本を解剖台の上に置く。


「心臓、肺、肝臓、あるいは膵臓か、さあ、どれだと思う?」

「……心臓ですね、でも……」

「でも?」

「……血管に着色樹脂を注入して、狭心症の兆候を視覚的に見やすくしています……これを作った人は、天才です」

「……お褒めの言葉どーも」


 言葉とは裏腹に、エドには自作の標本を褒められて嬉しく思う余裕はなかった。彼の頭上では今、無数の疑問符が踊っている。振り返ると、同じく強張った顔をしたアイシャと目が合った。


「若……あたし完全に置いてきぼりなんやけど。これ、どういうことなん?」

「見ての通り大命中だ。深い知識に触れられた」

「……えっと、でも、この場合、聞き込みに行く場所って……」

「世界の珍種新種を集めた博物館、実用性の高い薬学知識を求める研究所、あらゆる病状の屍体を揃えた標本製作室……そらら全てを兼ね備えた学び場で、彼女は知識を蓄えたんだ」

「……それって」


 エドは踵を上げ、軽く床を踏み鳴らした。



だよ」



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