1-3. 早すぎた埋葬、白うさぎ、巨人の骨

Nemo


 何処までも空虚で暗闇で、少女は意識を取り戻した。芝生に顔を近づけたときの、湿っぽい土の香りがあたりに漂う。雨の臭いに、少し似ていた。

 目覚めてすぐ、肺や心臓を押さえつけてくる閉塞感にあえぎ震え、自分が置かれた状況を理解する。

 ここは、棺の中。

 出られない。

 一人ぼっち。

 生き埋め。

 蛆が皮膚を食い破ろうとしているの蝕知して、少女は悲鳴を上げた。まともな声は出ない。乾ききった舌と唇が、痙攣けいれん的に震えるだけだ。



『黙れ』



 闇の中、少年の声がした。幼さを残したやや高い声音。それでいて、細かい雑音をねじ伏せてしまう強さを備えた、おごそかな声だ。


『ここはもう土の中じゃない、無駄に騒ぐな』

「……蛆、蛆が、這って」

『傷の縫合は済ませてある。蛆はもうどこにもいない。幻の相手は止して、さっさと寝たらどうだ?』

「……食べられる……身体が、消えちゃう……お願い、蛆を」

『これ以上、俺が手間かける理由がない』


 少年は素気なく言った。少女の瞼が、泣き出す直前のように震える。


「助けて」


 少年が舌打ちする音が聞こえた。付き合いきれないと言わんばかりの、これ見よがしなため息があとに続く。少女の目元に、涙がたまった。


 ふと、手の中に、しっとりと柔らかい、不思議な温かみを感じた。


 微かな燐光をまとった白い手が、少女の手をそっと包み込んでいた。その手がもたらす感触が、もやを晴らすように、少女から不安を取り去っていく。遠い昔 、だれかやさしい人が、頰に口づけしてくれたときのよう。神経のざわつきが静まり、夢の世界よりさらに下層、無感覚が続く暗闇へと意識が沈む。



『消えないようずっと握っててやる、寝ろ』



 むすっとした子どもを思わせる、ぶっきらぼうな声だった。しかし何故かその声は、耳の奥に優しい余韻をそっと残した。



        *



 解剖台に毛布を敷いただけの簡易ベッドで、少女が目を覚ました。甘ったるくえた匂いが鼻をつく。解剖実験室に染みついた、新鮮な屍体の匂い。深く吸い込むと、からえづきが止まらなくなりそうだ。

 咄嗟に鼻を覆おうとしたとき、すぐ傍で少年が自分の手を握っているのに気づいた。二つの椅子をつなげてクッションを敷き、その上で脚を組んで眠っている。目隠しのつもりなのか、黒硝子を嵌め込んだ革のゴーグルをかけていた。

 少女はとろんとした目で、つないだ手を眺めた。

 ――何時間も、ずっと、手を握ってくれていたのですか?

 目を落とすと、だぼだぼの白く長いチュニックを着せられていた。少し腕を垂らすだけで、指の先が袖の中に隠れてしまう。びろんと裾を広げてみると、下着はつけていなかった。

 昨晩の記憶がおぼろげに蘇る。服を刃物で裂かれ、裸に剥かれる感覚。思わず胸を手で覆いたくなるのに、手も足も動かせず、まばたきすらできなかった。微睡みの中にいたはずなのに、少年の視線が剥きだしの身体を這う感触は、妙に生々しく想起できた。

 耳まで真っ赤になって少女は両手に顔を埋めた。

 ――でも、別にいやらしい目で見られたわけじゃ。


『きれいだ』


 自分の裸に触れた少年の一言が、耳の奥で蘇える。悶えるように丸くなり、「うー」「あー」と声にならない声を発する。

 ――心からの声。素直で揺らぎない声。嘘の気配はないが、狼狽うろたえた様子もない。

 最初から最後まで、動揺してるのは自分だけだ。


「……なんだか、悔しいなあ」


 指の隙間から少年の顔を覗き、恥ずかしさに耐えられなくなって顔を伏せる――あのとき、漠然と意識があったことは、今後ずっと秘密にしよう。


 少女が、何か思いついたようにはっと顔を上げた。

 ――ずっと寝ていた振りをして、もう少し、手をつなげるのかな。

 鼓動が高鳴るのを感じながら、少女は慎重に、少しずつ、指を組む形に手を握りなおしていく。


 あと一歩で全ての指が絡まり合う。気恥ずかしさ緊張が高まるところまで高まった瞬間、少年の胸元から、真っ白な毛玉が湧き出てきた。


 心臓が跳ね上がる。ほとんど反射的に少年の手を放してしまった。


 両手の中に収まりそうなほど小さな白うさぎが、シャツの隙間からひょっこりと顔を出し、ぬくぬくとふんぞり返っていた。こころなしか尊大な顔つきで、そこが自分の特等席だと主張している。


「……びっくりした。……罠だ。うさぎの罠」


 うさぎの体をそっと掬い、自分の胸に抱いてみた。人見知りするのだろうか、最初うさぎは緊張に固まっていた。しかし、軽く背中を撫でてやると、心地よさそうに目を細め、ぐにゃりと腕の中に身を委ねてきた。


「……ちょろい……可愛い」


 少女は解剖台にうさぎを乗せると、毛布をたたんで床に降りた。しゃがみこみ、うつむいて寝入っている少年の顔をぼーと眺める。しばらくして、気配を感じて振り返った。


 狼と見紛うほど大型のグレイハウンドが、白うさぎをくわえていた。


「……え」


 首根っこをやんわり咬まれたうさぎは、だらんと大人しくぶら下がっていた。不思議そうに周囲を見渡し、数秒遅れて「キャー」と叫ぶかのように大口を開けた。

 猟犬はぷいと背を向け、そそくさと部屋を出て行ってしまう。


「……待って、だめです……それ多分、食べちゃだめなやつです」


 少年を叩き起こす暇さえ惜しみ、少女は猟犬とうさぎを追いかけた。


       *


 部屋を飛び出すと、渡り廊下に出た。柵から身を乗り出して吹き抜けの下階を覗く。猟犬はアーチ状にくりぬかれた壁の向こうに消え去った。階段を駆け下り、あとを追う。


 息を切らしながらアーチをくぐると、無数の人体標本に出迎えられた。


 入ってまず目を引いたのは、にれの木のテーブルに並べられた五つ子の胎児だった。生存闘争からいち早く降りてしまった子どもたちが、瓶の中で身を丸めて眠っている。少女は机の前にしゃがみ込み、顔を近づけた。保存液に用いられている酒精だろうか、甘く芳醇なブランデーの香りが死臭に混ざり、鼻腔に忍び込んでくる。

 その奥の展示台には、赤い小枝が複雑に絡み合ったような、ヤドリギに似た球形が鎮座していた。肺の標本――屍体の気管に朱いろうを流して行きわたらせ、それが冷えて固まったのち、屍肉だけを酸で溶かしたもの――細かい脈管まで余すことなく蠟でなぞった、人体の芸術品だ。左手にある黒塗りのキャビネットには頭蓋骨が並べられている。膨れ上がった奇形の跡や銃弾による穿孔など、一つ一つが固有の特徴を備えていた。


 部屋の右手、ミイラ化した手足を並べられたテーブルの下に、猟犬の姿を見とめた。その背中に、白うさぎがぐでんと寝転がっている。気を許しているうさぎの姿を見て、少女はほっと息をついた。


「……そっか、仲よしさんだったんですね」


 二匹をほほえましく眺めた後、興味を惹かれ、薄暗い部屋をつき進む。壁際に至ったとき、少女は思わず息を呑んだ。

 八フィートを軽く超える巨人の全身骨格が、天井から吊るされていた。

 背骨を支えるワイヤーが一本切れているせいだろうか。骸骨は直立の姿勢を崩し、少しうつむき加減になって、こちらに手を差しのべてくる。少女はびくびくとしながらも、巨人の手にそっと触れた。


 ――あなたが、死者の博物館のあるじですか?


 別の部屋に続く扉が開け放たれているのに気づき、覗き込む。百頭はくだらない希少生物の亡骸なきがらが、部屋を覆いつくしていた。乾燥標本となった双頭の亀、骨の一部を晒したアルビノの鹿、切り開かれた腹を見せつけるかのように両翼を広げる禿鷹。瓶詰にされたスフィンクスキャットは、まるで空気を求めてもがくかのように、蓋に両手を伸ばしていた。

 もし彼らに生命いのちが宿ったら、断末魔の叫びでさぞ賑やかなことだろう。残酷な空想を頭に浮かべ、少女はすっと目を閉じた。


「またミーナを連れて遊んでんのか、ジュード」


 白うさぎとグレイハウンドがそれぞれ名前を呼ばれ、はっと向き直った。少女も彼らの視線を追う。革のゴーグルを首に提げた少年が、アーチの真下で欠伸をかみ殺していた。



「おはよう、名無しニーモ。うちの先生の蒐集品コレクションはお気に召したか?」

 

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