1-2. 裏表、解剖、名無しの屍体?
Edward
エドの師匠、解剖医ジョン・ハンターのタウンハウスは、二つの異なる顔を持つ。
西側は、娯楽溢れる優雅な広場、レスター・スクエアに臨んでいた。豪奢なエントランスは人体と奇獣珍獣の標本を並べた
深夜。屋敷の東口前に停止した辻馬車から、大きな布袋を抱えた少年と2頭の猟犬が音もなく飛び降りた。少年がステップを駆け上がると、わずかに開いたドアの隙間から、赤毛の少女が顔を覗かせる。
ハンター邸の下女、アイシャは眠そうに目をこすり、黒いワンピースの裾をつかんでエドたちを出迎えた。
「お帰り、若先生。ん、火薬の匂いしてるけど、何かあったん?」
「ゲイル司教が
「危ないなあ。怪我ない?」
「平気だっての。あいつらどんくさいし」
「油断しすぎやって。墓暴きするときは一人じゃ駄目って、ハンター先生も言ってたでしょ」
「一人じゃねえよ、ほら」
猟犬たちがドアの隙間をスルリと抜け、廊下の奥の暗がりへと駆けていく。
「で、ハンター先生は? 手術の指南をしてもらう約束なんだけど」
「ご老体ならサウサンプトンに出かけたわ。旅行もかねて、家族総出で。しばらくはあたしと若でお留守番ね」
「あ?」
「南の海岸に大怪我した鯨が打ち上げられたんよ。茶葉の輸送船と衝突したとかなんとか。夕方、標本職人のお仲間がご老体を訪ねてきて、死骸を買いに行こうぜとか言い出して……鯨が相手だと解体作業も大仕事やし、当分ロンドンには帰らんと思う」
「……嘘だろ。じゃあこの屍体どうすんだよ」
「それは知らんよ」
「手術の指南は諦めるにしても、できれば今晩中に標本にしたいんだが……」
「無理でしょ、若一人やもん」
屍体の解剖は一般にイメージされる以上に力仕事だ。
「ご老体を戦力に数えてたのがそもそもの間違いなんよ」
「ハンター先生は規格外だからいいんだよ。しかし困ったな、今から誰か助手に呼ぶわけにもいかねえし」
5年前、エドがメルに連れられハンター医師の解剖教室を訪れたとき、住み込みの弟子はメルを含めて6人もいた。しかしいずれも軍医に志願したり田舎に診療所を開いたりして独立し――中には死亡した者もいて――今ではエド一人になってしまった。この家に助力を頼むあてはない。
エドは苛立ったように頭を掻いたが、ふとその手を止めた。
――待てよ? 本当にあてはないか?
「アイシャ、少し助手を務めないか?」
「えぇ……あたしが?」
「嫌そうな顔すんなよ、腕や力が要る仕事は俺がやるし、大した手間はとらせねえから」
「……しゃあないなあ。あーもー、こうゆうとき、メル
「……死んじまった奴の話は止せ」
嫌な記憶を抑え込むように、エドは目頭を押さえた。メルを
「もう屍体に
まっすぐ解剖実験室へ足を運ぶ。アイシャが石鹸水をガラス窓に塗って外から見えないよう曇らせる間、エドは蝋燭に火を灯し、掘り出し物を解剖台の上に広げた。白に近い金の髪が、きらきら光を反射しながら肩や台へと流れ落ちる。
美しい少女だった。年はエドよりほんの少し下。13、4といったところか。すっと通った鼻梁には品があり、目を縁取る
アイシャが、流しで手を洗いながら声をかけてきた。
「今回の屍体はどんな人なん? きれいな顔立ちしとるねえ。小柄な割に出るとこ出てるし、娼館の子?」
「
Nemoはラテン語で
「死因は頭部の損傷だな。傷自体は深くないし、衝撃で脳をやられたんだろ」
「足首にもなんかあるよ」
アイシャが、ニーモの両足首にまとわりつくように走る、火傷に似た傷痕を
「それは随分古い傷だろ。死因には関係ない」
「ふーん、でもわからんね。一体何したら、こんな風にぐるっと一周囲むような傷がつくんやろ」
「さあな」
言いながら、エドは奇妙な疑念に頭をもたげた――この傷、前にどこかで見たことないか?
数秒悩んでから、首を横に振る――今気にすることじゃない。解剖に集中しないと。
アイシャがニーモの裂傷に顔を近づけた。
「殴られた傷やんなあ、これ。他殺体
「騒ぎにはならねえよ。そいつには、告訴してくれる身内がいなかったから」
「ああ、そっか、ニーモやもんね」
フランスをはじめとする諸外国と違って、イギリスでは告訴する人間がいないと裁判が起こらない。また、裁判や犯人逮捕にかかった費用は、訴えた被害者が負担する決まりである。こうなると泣き寝入りする貧乏人があとを絶たず、無罪ではないのに「訴追なきため」犯人が釈放される事態も起こる。よほど悪質な犯罪になると市長などが原告を務めるケースもあるが、身寄りのない少女が一人襲われたくらいでは、彼らも動かない。
様々な倍率のレンズに取り換え可能な眼鏡をかけ、エドはピンセットでつまんだ蛆に目を凝らした。
「ヒロキンバエの蛆。孵化後半日……」
くねくねとのたうつ蛆を瓶の中に放り込むと、エドは腰に巻いた刃物入れに手を伸ばした。細いハサミをシャキンと鳴らし、少女の
「……きれいだ」
「え、若は屍体にも欲情する口なん? 世の中にはこういうのとだけ性交する人もいるって聞くけど?」
「大事な実験体を傷つけるような真似するかよ」
「趣味じゃないとは言わんの?」
「生命を尊重しろって話だ、ぶっ殺すぞ」
そもそも「きれい」とは言ったが、容姿を
エドは試しにニーモの腕を曲げてみる。力をこめずともすんなり曲がった。
――蛆の卵が屍体に植えつけられたのは半日前のはず。これが、死後半日の遺体? まさか。それなら死後硬直はピークのはずだし、背中一面に死斑がでてもおかしくないのに。
「……変だぞ、この屍体。それにほら、蛆も何かおかしくないか?」
「知らんて」
「蛆は本来、目や口や耳や肛門……開口部を狙って浸食していく。でも何故かこの子の場合、そこには一切手がつけられていない」
「蛆が変に好き嫌いしてるってこと? それってなんか問題なん?」
「アイシャ、蛆は普段、何を食べる?」
「……えっと、腐ったご飯に、馬糞……あと、屍体?」
「そう、蛆は基本的に、命ないものだけを食う」
「あれ? でもあたし、患者さんの傷に蛆が湧くのを見たことあるよ?」
「本体が生きていても、傷口の組織や流れ出た血が腐ると、蛆が湧く。そこは部分的に死んでるからな」
「なるほど」
「この娘にたかる蛆は、傷周りの壊死した組織だけを食べてるように見える」
「あー、死んでる部分だけ食べて……ん? 死んでる、部分?」
アイシャは一瞬宙を見上げて硬直し、やがて大慌てで首を振った。
「いや! いやややややや! 嘘! ありえんよ! 本体も死んでるって! だってこれは、お墓から掘り起こして来たんでしょ?」
「以前、死亡診断を下された人間が回生した記録を読んだことがある。1740年、17歳の死刑囚が首つり執行から半日後、解剖台の上で起き上がったそうだ」
エド自身、死んだはずの人間が息を吹き返した痕跡を目にしたことがある。
かつて暴発事故で死亡した(とされた)士官学校生の墓を暴いたときのこと。
「棺の中にいた人間が、死んでいるとは限らない」
アイシャがおそるおそる少女の腕に触れた。
「……ありえんって……こんな冷たいのに」
「概して昏睡状態に陥った患者は体温が低い。ここまで冷たい奴に会ったことはないが」
「……でも、まさか」
「確かめる」
エドはニーモの
小さくうなずいて、エドはランプを解剖台の上に置いた。
「悪いなアイシャ、あてが外れた」
「……焦ったわあ、……じゃあ、この子はホントに死んで……」
「大した手間は取らせないと言ったの、取り消すぞ」
安堵の息を吐こうとしたのを喉に押し戻してしまい、アイシャは奇妙なうめき声を出した。エドは長い長い息を吐き、静かにニーモを見下ろした。
「今夜は忙しくなるぜ。この
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