さんまいめ

二人分の足音と杖の音が閑散とした石畳に響く。

一人は幼い少女。青いリボンをあしらったワンピースを着て、透き通った髪にも同じく青いリボンを飾っている。慣れない靴なのか歩き方はどこかぎこちない。

もう一人は細身の若い男。長い髪を後ろで結い、左目には眼帯を巻いている。仕立てのいい服を着て、左手で少女の手を引き、逆の手で杖をついていた。

二人はやがてひとつの門の前で立ち止まった。門番が訝しげに様子を窺う。

男はにっこりと笑うと明るい声で門番に話しかけた。

「ここはリリベリー様のお屋敷ですよね?」

「ええ、そうですが」

「御手数ですが、奥方様に『リンドウが届いた』とお伝え願えますか」

「は?」

門番が迷惑そうに返す。男は笑顔を崩さない。

「そう伝えていただければ十分ですので」

「はあ。おい」

怪訝な顔をしながらも門番は内側にいる使用人を呼んで顎をしゃくった。

「……ジェスター」

「まだ黙ってな」

居心地が悪そうにする少女を男が低い声で制する。門番が視線を向けると、男は一層の笑顔で手を振って見せた。

しばらくして、装飾の多い門が開かれた。

「ど、どうぞお通りください」

「どうも」

困惑した様子の門番を置き去りにして、二人は屋敷に入っていった。


「随分なドジを踏んだのね」

リリベリー夫人は長椅子の上で扇を揺らしながらジェスターを見据えた。形のいい唇が嘲笑で歪む。

「やっぱり貴方には荷が重かったかしら。お仲間さん、お悔やみ申し上げるわ」

「勿体無いお言葉」

ぶっきらぼうに吐き捨てて、ジェスターは豪華なソファにどっかと座った。

「ほほ。貴女も寛いで?」

「……」

「適当に座っとけ」

ジェスターに促されてクレナはおずおずとソファの端に浅く腰掛けた。どうやら夫人の雰囲気に気圧されているようだ。

「自己紹介をしましょうか、お人形さん」

黒目の大きいぎらついた瞳に、クレナの体が固くなる。

「わたくしはカルミア・リリベリー。矮小な下級貴族の妻」

「はっ、矮小ね」

「お黙り。……この子とはすこし古い仲なの。だから怖がらないで?わたくしは貴女達の味方よ」

夫人が口元に扇を当てて微笑む。その笑顔はまるで仮面のようで、クレナは寒気を感じた。

「ふふふ、いい子ね」

「先日送った手紙の通りだ。しばらく頼みてぇ」

押し黙るクレナを横目にジェスターは切り出した。夫人が肘掛けにもたれ直す。

「丁度良かったわねぇ。娘の花嫁修業を始めようと思っていたところなの」

「……余計な事まで教えるんじゃねぇぞ」

「あら、それは本人次第。殿方は口を出さないで頂戴な」

「こいつをそう使うつもりはねぇ」

「今はまだ、ね」

ジェスターと夫人が静かに睨み合う。クレナはどうしていいかわからずワンピースの裾を握りしめた。

「まあいいわ。挨拶を済ませておくのね」

夫人は興味を失くしたように扇を閉じて、布の束を抱えて立ち上がった。贅沢なドレスだ。重くは無いのだろうか。

夫人は衣擦れの音をさせてクレナに近づくと、しなやかな指でクレナの顎をすくった。

「……っ」

「しっかり育ててあげましょうね」

含み笑いをして夫人が部屋を出ていった。クレナはしばらく硬直したあと、へにゃりとソファに身を預けた。心臓が大きく鳴って、握りしめた裾がよれてしまっている。

「相変わらずいけ好かねぇ」

「ジ、ジェスター、おれ」

クレナが不安げにジェスターを見上げると、彼は一瞬戸惑った表情を見せたあとクレナの肩に手を添えた。

「大丈夫だ。あれは良い人とはお世辞にも言えねぇが、分別はつく女だ」

「ジェスターは……?」

「俺はしばらく通いだ。心配すんな、二日にいっぺんは顔を見せる」

暗い面持ちで俯くクレナに、ジェスターはしゃがみこんで笑顔を見せた。

「お前、覚えるの得意だろ。大丈夫、なんてことねぇよ」

「うん……」

「……いくら盗み見たって貴族の面倒な振る舞いは身につかねぇ。ちゃんと学んで理解する必要があるんだ」

「嫌いな、奴らなのに」

「嫌いだから全部知り尽くしてやるんだ。同じ舞台で負けてみろ、そんな悔しいことはねぇだろ?」

「……うん」

「お前は騙すのも上手かったからすぐ一人前になれるさ。俺と二人で貴族ごっこ、しようぜ」

ジェスターが悪戯っぽく微笑む。クレナは血色の戻った顔で少し笑った。

会話の終わりを見計らったように扉が叩かれる。ジェスターが立ち上がると同時に夫人が現れた。傍らにはクレナより数歳年上の少女が控えている。

「お話は済んだかしら?」

「……ふん」

「さあクレナちゃん、こちらは娘のアレナリア。これから一緒に貴族の振る舞いを勉強しましょうね」

夫人に紹介され、アレナリアはドレスをつまんでお淑やかにお辞儀をした。その所作にクレナは目を丸くする。

「生まれが違うからアレナリアのほうが先輩ね。頑張って追いついてちょうだいな、可愛い子」

夫人がにっこりとクレナに笑いかけた。


ピエールとオーグスの仇を取るにはどうするか、という話だった。

今回狙ったのは上級貴族、貴族の中でも特に権威と財産のある者の屋敷だった。普段盗みに入るのは裕福な商人の家だったが、家人が留守にすると聞いたために狙いを定めたのだった。

結果商人と勝手の違う敷地に戸惑い、警備の穴を抜けきれず失敗した。今まで全ての盗みを成功させたという驕りで、綿密な下調べを怠った。ジェスターは歯軋りして己を悔やんだ。

その貴族自体が仇だと決めた。半ば八つ当たりであるのはジェスターもクレナも薄々感じていたが、この心を鎮める術は他に思い当たらなかった。

奴と接触するにはどうしようか、今のままでは近づくこともできないと考えるうちにジェスターが口にしたのがこのリリベリー家だった。

「古い仲と言ったでしょう、実はわたくしと彼、幼馴染なのよ」

彫像のように椅子に腰掛けながら夫人は言った。クレナは思わず身を乗り出して、背後に立つ執事に引き戻された。

「道はこの通り違えてしまったわ。けれど人の縁は大事にしなくてはね?」

隣に座るアレナリアは聞いているのかいないのかわからない微笑みで背筋を伸ばしている。

「わたくしたちはひとつ屋根の下で、つらく苦しい日々を過ごしたの。お互い貴族に憎しみを抱くほどのね。その後の気の持ちようが分かれ道になった……」

夫人が衣擦れの音だけさせて立ち上がる。クレナとアレナリアも倣って腰を上げた。椅子を鳴らしてしまったクレナはやり直しとなった。

「解き放たれた日、彼は肉を斬る刃となった。そしてわたくしは肉を腐らす毒となったのよ」

夫人の長い睫毛がゆっくりと上下する。

「毒は内側から、少しずつ、じっくりと広がっていくのが美しいの。一気に殺すのは駄目よ。気づかないくらい優しく蝕んで、最期には綺麗に毒に染まって死ぬのよ」

夫人はうっとりしながら胸の前でしなやかな手を握り込んだ。

「……彼には毒で弱った獲物を与えたつもりだったのだけれど、彼の牙は無能だったみたいね」

「ッ! なんだと!」

殴りかかろうとして執事に押さえられる。アレナリアが無感情な笑顔で事を眺めた。

「ジェスターたちをバカにすんな!」

「あら、ごめんなさい。大切な人たちなのね。あの子もいいものを拾ったわ」

「ものって言うな!」

クレナがいくら睨みつけても夫人は微笑むばかりだ。アレナリアも人形のように無言で佇んでいる。クレナは恐怖をかき消すように一層夫人を睨んだ。

「いいえ、貴女は『物』になりなさい」

「……!」

「本当の貴女は好きにすればよくってよ。それは貴女一人の心ですもの。でも、それを持ったままでは駄目なのよ」

執事の手を振り払ったクレナに夫人が静々と歩み寄る。閉じた扇がクレナの顎を持ち上げた。

「いいこと? 女は一枚の貌では生きられないの。ときに愛らしく、ときに艶めかしく、ときに神々しく。たくさんの貴女をお持ちなさい」

「たく、さんの」

「そう。わたくしは今貴族の妻。だから傲慢で優雅に振る舞うのよ。町人になれば活発で健やかに、聖女になれば無垢でたおやかになるでしょう」

「……場所に合わせるってことか」

「その通りよ、賢いわね」

夫人は嬉しそうに頷いた。

「『クレナ』は中に仕舞っておきなさいな。貴女はしばらく『貴族の娘』になるの。いいわね?」

捨てろ、とは言わない。変われ、というわけでもない。夫人は増やせ、と言っている。クレナは夫人に感じていた不安を拭い去った。彼女はこちら側だ。クレナを人形として見る奴らとは違う。

「気持ちの整理はついたかしら」

「……はい」

クレナは腹に力を入れて夫人を見上げた。艶のある唇が三日月を型どった。




最後にクレナの顔を見たのは二月も前だ。つまらなさそうに愚痴を零していたのを最後に、面会謝絶となったまま。夫人がなにか企んでいるのかと食ってかかったが、どうも本人が会わないと言っているらしい。

ジェスターはジェスターで、完璧ではない貴族の所作を磨いていた。貴族になれば避けては通れない夜会のためだ。

夜会は毎夜の如く行われる貴族のご自慢大会と言っていい。根も葉もない噂を並べ、自らの権力を見せつけ、それに媚びへつらう。ときには芸を仕込んだ奴隷に余興をさせて、酒を浴びて踊りあかすのだ。

正直反吐が出る。だが夜会は貴族の唯一とも言える交流の場だ。近づき隙を窺うのにこれほど都合の良いものはない。

夫人の手を借りるのはあまり好まないのだが、ずるずると依存しているのも事実。昔馴染みだからと対価を受け取らないので、つい頼ってしまいがちだ。

「そんなに金が無ぇように見えるか……」

大きな姿見の前で胸を張ってみせる。なるべく眉を開いて、目尻を下げるように細め、緩く口角を上げる。自分で言うのもなんだが胡散臭いとは感じる。

「よろしいですか、ゲンティア様」

扉の向こうからノックとともに使用人の声がした。襟元を整えてそれらしく答える。

「どうぞ」

静かに開かれた扉から入ってきたのは夫人だった。相変わらず布の多い豪奢なドレスを纏って、唇を朱で彩っていた。

「ずいぶん立派な殿方」

「お褒めいただき光栄です夫人」

「ほほ、今ならゲンティアと呼ばれても気にならないわねぇ」

夫人は扇の影で楽しそうに笑った。

ゲンティアという名は、ジェスターが貴族の前で名乗る姓だ。以前、一度だけ貴族として人前に立ったときに使ったのだが、あの時は夫人の助け舟が無ければ正体を見破られるやもという出来だった。

「どう? わたくしと一曲」

「是非、と言いたいところですが、この目では御期待に添えないかと」

「あら、便利な言い訳ね。これからも使うといいわ」

夫人が感心したように言うので、ジェスターは大げさに肩を竦めてみせた。夫人は形だけの笑顔を返すと、扇を振って使用人を下がらせた。

「こちらも仕上がってきたから、お披露目しようと思ったのよ」

「……ほぉ」

「おいでなさい、クレナ」

夫人が開いたままの扉に声をかける。その陰からゆっくりと、落ち着いた色合いのドレスが覗いた。

淑やかに歩を進める姿はどこぞの令嬢と遜色ない。引き結ばれた唇と伏し目が、髪色が持つ神秘的な空気を増幅させている。二月の間に二歳も三歳も大人びたようだ。

クレナは流れるようにお辞儀をすると、ジェスターに向かって柔らかく微笑んだ。雪原に朝日が差し込んだかのようだ。端的に言って、美しい。

「……」

「どうかしら」

「その……いや、ちょっと待ってくれ」

言葉が見当たらず口元を抑える。やんちゃな姿が邪魔をして上手く認識が出来ていない。

「しばらく会わなかった甲斐があったわね」

ジェスターの様子を面白そうに眺めながら夫人がクレナの髪を撫でた。

「……ここまで化けるとは」

「お気に召しましたか、旦那様」

ジェスターは目を見開いてクレナを見た。クレナが少し意地悪そうに笑っている。

「お前」

「へへ、ごめんジェスター」

普段通りに破顔するクレナに多少の安堵を覚える。性格まで矯正されていたらしばらく付き合い方に迷うところだ。

「とりあえずはこんなところかしら。貴方の妹ということにでもしておきなさいな」

「目も毛色も違うが」

「腹違いなんて良くあることよ、不安なら鬘でも作ったら?」

「冗談、こいつの髪は一番の売りだろ」

ジェスターは横目で夫人を牽制すると、咳払いしてクレナの前に跪いた。

「失礼。貴女があまりにも美しいもので、すっかり見とれてしまいました」

「まあ、お上手ですこと」

 ジェスターが片眉を上げて言うとクレナも楽しそうな顔をしてそれらしく答える。仮初のお貴族様のできあがりだ。

「さて、あとはどうやって奴に近づくかだが……」

「ジェスター。おれに考えがあるんだ」

 クレナが意を決した表情でジェスターを見る。その後ろで夫人が満足そうに笑みを浮かべた。



 使用人も寝静まる夜、家中に油を撒き散らし、照明を端から落として炎を強める。熱に照らされる金品には、今は目もくれない。目指すはただひとつ、家主の寝室。

「クレナ!」

 息を切らしてドアを叩き開けたジェスターは、静まりかえった部屋にしばし言葉を忘れた。

 呆れるほど絢爛な室内、人が十人は寝られそうな広いベッド。一人がそこに横たわり、一人がそれに覆いかぶさっている。荒くなった呼吸が現状を物語っていた。

「ジェスター……おれ、おれやったよ」

 カタカタと小さな体を震わせ、短剣を握りしめたクレナが返り血の付いた顔でジェスターを見た。

 ジェスターは彼女に駆け寄り死体から奪い取るようにクレナを抱きしめた。下着だけの姿があまりに痛々しい。

「ああ……よくやったクレナ……っ」

 高温に耐えきれず窓ガラスが割れる音がする。ジェスターは上着をクレナに羽織らせ、しっかり手を繋いで燃える屋敷から逃げ出した。



 その貴族は頻繁に年若い少女を連れ込む物好きだった。なら自分を使えば早いと、クレナはジェスターに切り出した。

 もちろんジェスターはとんでもないと却下した。まだ年端もいかない彼女に身体を使わせるなどあってはならない。これまで『そう』扱われてきたならなおさらだ。

 だがクレナは聞かなかった。これがおれの価値だろうと、彼女は言ってのけた。

「よく燃えてら。あーあ、もったいないな、高そうなもんいっぱいあったのに」

「仕方ねえさ、俺たちの両手分しか持てねえし」

 ジェスターが笑って、ありったけの装飾を付けた手で豪奢な首飾りの数々を持ち上げる。それを見てクレナもへらりと笑い、自分の胸元に光る宝石たちを引っ張った。

「これであいつらにいい報告ができる」

「……うん」

 二人は警鐘の鳴り響く景色を遠くの山中から眺めた。夜空が火の粉の星を抱いている。

「……ジェスター?」

「ん、どうした」

 しゃがんで目線を合わせたジェスターに、クレナが静かに抱きついた。ジェスターはしばらく彼女を持て余してから、地面に胡座をかいて抱き直した。

「おれ、ジェスターの役に立てた?」

「ああ。ピエールとオーグスの仇がとれたのはお前のおかげだ」

「おれさ。これからも、こうやって役に立つよ」

「……それは駄目だ。もうこんな真似はさせねえ」

「いいんだよ。どうせもうおれの体は清らかじゃないんだから」

 ジェスターは険しい顔になってクレナを見つめた。

「カルミアがそんなこと言ったのか」

「夫人は間違ってない。おれはこれから成長して娘になるだろ。そうすれば今より使い所も増えるし、そうしたほうが懐に入りやすいよ」

「馬鹿野郎、もっと自分を大事にしろ」

「……ジェスターが大事にしてくれるだろ?」

「は……」

 少女が微笑んだ。

「知らないやつに触られるのは気持ち悪いよ。でもこうやってジェスターが大事にしてくれるなら、おれは我慢できるんだ。夫人が、重要なのは最初じゃなくて最後に抱かれた男よって言ってた。よくわかんないけど」

「……あいつ……」

 ジェスターは頭を抱えた。余計なことまで教えるなと言っておいたのに。

「だからいいんだ。役に立てるならおれはなんでもしてやるからさ。そのかわりジェスターがたくさんおれのこと大事にして」

「……あのなぁクレナ、それは……」

 ジェスターは言いかけて、クレナの純粋な顔に口を閉じた。説明せずとも、今はまだジェスターがそのように使わずにいれば済むことだ。

「分かった、頼りにしてる。でもそれは最後の切り札だ。いいか、お前が勝手にホイホイ使おうとすんなよ」

「へへ、わかった」

「いてて、宝石刺さるからあんま強くすんな」

 クレナの抱擁から逃れ、ジェスターは立ち上がって彼女に手を差し出した。

「よし、あいつらに報告しにいくか」

「うん」

 濃紺を焦がした空の下、二人は兄妹のように連れ立って歩いた。









 下卑た笑い声が暗い森に響く。彼らの手には酒と財宝、その表情は欲にまみれている。

 盗賊団、ハイドレンジア。貴族を狙い、全てを根こそぎ奪う凶悪な罪人達。犠牲になった人間は数知れず、彼らの足元には数多の血が流れている。

「……フラネーヴェ?」

「ああ。ずいぶんな坊ちゃんでな、簡単に仲良くなれそうだぜ」

 ジェスターがくつくつと笑い煙管を噛む。出会って十年、昔見た青さは面影なく、その横顔には酷薄が滲む。

「五大公にまで手を出すつもりか? そこらの貴族とはわけが違うだろ」

「もちろん昔のようなドジは踏まねえ。そうだな、一年……いやもっと時間をかけて飼い慣らす」

髪を背中に流して起き上がる。これまで食い荒らした貴族たちは手間をかけてもせいぜい半年、奪うために少しの関係を持つのみだった。

「大丈夫なのかジェスター」

「なんだ、俺が信じられねえか?」

「……そうじゃない。そんな大仕事、あんたがほんとの貴族になっちまうんじゃねえかって……」

選んだ言葉を遮るように口が塞がれる。腰に腕を回されながら、思考はそぞろに香草の紫煙を追い始める。

「……俺は何をしたらいい?」

「お前はまだ潜んでろ。今回のほとぼりが冷めるまでな」

ジェスターは目を細めて煙管を置くと、空いたその手で銀の髪を掬った。閉め切って薄暗い隠れ家の中、僅かな明かりでも星のように煌めく。

「お前はここぞというときに使わなきゃだからな」

「……」

ベッドに押し戻されても心が跳ねることはなくなった。彼を愛している、それに間違いはないはずだけれど。この感情は諦観に似ている。

「ジェスター?」

「なんだ、クレナ」

 頬を撫でる手つきに目を閉じて、少しずつ幼い心を削り取っていく。昔は昔。人は変わるものだ、良くも悪くも。彼が変わったと思うのは、自分も変わってしまったからなのだ。

「……今度は酷くしてよ」

 もう大事にされる少女はいないから。



 ハイドレンジアの今度の標的は、五大公リージア・フラネーヴェに決まった。

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押し花 輪円桃丸 @marutama

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