にまいめ

「おじちゃん、表通りにはどう行くの?」

新聞をつまらなそうに眺めていた男が顔を上げると、そこには小綺麗な少女が立っていた。

フリルのついた白いワンピースを着て、あまり見ない薄色の髪を耳の下当たりまで伸ばしている。小さな手には使い込まれた小袋を握りしめていた。

「どうした嬢ちゃん、迷子かい」

男が新聞をたたみながら訊ねると、少女はぶんぶんと首を横に振った。

「おかーさんのお使いなの。おくすり買わなきゃ」

「ああ、表の薬屋か」

男はベンチから立ち上がって、少女を手招いて一本の路地に案内した。

「こっから突き当たりを右に行けば、薬屋の横にでるよ」

「うん、わかった」

「母ちゃん良くなるといいな」

男が何気なく言うと、少女は目を大きくして男を見上げた。それからにっこり笑って、男の太い腹に抱きついた。

「うん!ありがとうおじちゃん」

明るい声で礼を言うと、少女は走って路地に消えていった。

「はは、元気な子だ。さて、飯でも買って帰るか」

男は微笑ましく思いながら踵を返し、残金を確認するために財布を取り出した。

否、取り出そうとした。

「あ?」

予想していた感触がない。左右のポケットにも、上着の内ポケットにも、家を出るときに確かに持ったそれがない。

男は青くなって、路地を振り返った。もう足音は聞こえない。

冷や汗を流しながら少女に教えた道を走る。突き当たりを右に曲がって、勢いのまま表通りに出る。よろける体を無理やり反転させて、男は怪訝そうな薬屋の主人に詰め寄った。

「い、今白いワンピースの女の子が来なかったか」

必死の形相でカウンターにしがみつく男に主人は肩を竦めた。

「いいや、子供に薬は売ってねぇが」

男の丸い顎から汗が滴り落ちた。

「あのガキーー!!」


ワンピースをソファに投げ捨て、クレナは財布の紐を解いて中身を確かめた。

「へっ、やっぱ太いやつはそれなりに持ってんな」

テーブルにバラバラと硬貨が落ちる。高い椅子に座って足を揺らしながら金額を数えていると、部屋のドアが軋んで開いた。

「あ、おかえりジェスター」

「おう帰ったぜ……何してんだ」

ジェスターがテーブルとクレナを見て片眉を上げる。

「へへーん、おれがとってきたんだぜ」

クレナは胸を張って得意げに言った。ジェスターはさほど反応を示さずテーブルに近づくと、ざっと硬貨を数えてそのほとんどを回収した。

「へいへいごくろうさん」

「あってめ、持っていきすぎだ!」

「順当な分け前だろ」

睨み合いながらクレナがジェスターの腕にしがみついていると、続けてオーグスとピエールも帰ってきた。

「なんでぇ、もう稼いできやがる」

オーグスは長い顎をさすって感心したように呟く。ピエールは目ざとくワンピースを見つけるとそれをつまみ上げた。

「これ、どうしたんでさぁ。街中で売ってる上等品じゃねえか」

「店に鼠放して騒いでるうちに持ってきた」

腕から剥がされて不満そうに硬貨を見つめるクレナが何でもなさそうに言った。

「足がついたらどうするんでさぁ」

「何枚も同じのあるやつ持ってきたから分かりっこねぇよ。あそこのばばあぼけてきてるし」

「きぃっ、ガキは飲み込みが早くて嫌になりまさぁ」

ピエールが悔しそうにワンピースをソファへ投げつけた。


クレナがこの賊たちに拾われて半年が過ぎていた。

初めは雑用ばかり押し付けられて不満たっぷりのクレナだったが、一月もすると全ての家事を手早くこなし暇を作るようになった。どうやら生まれつき器用ではあるらしい。

ジェスターはピエールたちと共に色々な技を仕込んでいった。スリの技術はもちろん、効率的な逃げ方、騙しやすい奴の見分け方、ちょっとした演技の仕方まで。

クレナはそれをとても楽しそうに覚えた。言葉遣いや仕草を教えられるより何倍も面白いと喜んでさえいた。

芸を仕込んで少しでも高値で売ろうと彼女を拾ったジェスターだったが、先に愛着が湧いてしまったようだ。天涯孤独のジェスターには、弟のような存在がどうにも居心地が良かった。

「なあ、おれはまだ連れてってくんないの」

テーブルに身を乗り出してクレナが言う。ジェスターは道具の手入れをしながら手を振ってクレナを退かした。

「お前みたいなガキは連れてけねぇよ」

「おれだってもう使えるだろ」

「人生経験が足りねぇの。大人しく留守番してな」

「ちぇー」

クレナは口を尖らせて椅子にもたれかかった。揺れる燭台の火が少々伸びて大人しくなった銀髪を照らす。

「しかも今回は大物でさぁ、おちびちゃんには荷が重いと思いますぜ」

磨いたナイフを灯りにかざしながらピエールが笑った。

「いっぱいとってくんの?」

「おう、根こそぎ持ってきてやらァ」

目を輝かせるクレナに、オーグスが力こぶを作ってみせる。ピエールが脳筋め、と肩を竦め、クレナがはしゃいでその腕にぶら下がった。

身支度を終えたジェスターが立ち上がって指を鳴らしながら扉に向かう。クレナが腕から降りるとオーグスとピエールも彼に続いた。

「じゃあ、行ってくる」

ジェスターが拳を出す。クレナは同じように腕を突き出して、拳をぶつけた。

「おれの分忘れんなよ」

「は、どーだかな」

いつからか出来た、仕事前の習慣だ。あとの二人とも拳をぶつけて、クレナは闇に消える仲間を見送った。


帳を切り裂いたような細い月が静かに星の波を漂っている。

影から影へ、路から路へ。ジェスター達は気配も薄く夜を駆けた。

「用意はいいか野郎共」

屋根の上に降り立ったジェスターが抑えた声音で問う。ピエールとオーグスは闇の中で静かに頷いて見せた。

風に連れられてきた雲が月に目隠しをする。遠く聞こえる夜会の奏でに溶け込みながら、三人はしなやかに塀を飛び越えた。


「あ、雨」

クレナは屋根を打つ音に外を見た。大きめの雨粒に蔦が揺れている。

「あいつらツイてねーな」

パタパタと走り回り雨漏りを器で受け止める。音色を奏でる桶たちを楽しみながらクレナは乾いている布をあるだけ引っ張り出した。

彼らが屋敷を標的にするときはいつも深夜に出て明け方に帰ってくる。子供は寝てろと言われているが、やはり成果が気になるものだ。

濡れた三人が帰ってきたら得意げに布を差し出してやろうではないか。クレナだってもう日没に瞼を擦る子供ではない。

とつ、とつ、雫が落ちるのを聞きながら帰りを待つ。今日は大物と言っていたから、きっとすごい宝を盗んで来るに違いない。金ぴかの食器か、七色の宝石か、はたまた絵本で見た伝説の王冠か。

期待はずれのものを出したら腹から笑ってやろう。ピエールなんかは悔しがって、また鶏の首を絞めたような声を出すだろう。ガッカリさせたお詫びに多く取り分をもらってやるんだ。そしたら今度は……。

突如打ち鳴らされた扉の音で、クレナは微睡みから飛び起きた。

「なっ、なに……」

慌てて周りを見る。雨はまだ止んでいない。夜も明けていない。

高鳴る胸を押さえつけながら扉の方に燭台を向けた。隙間だらけの木枠から雨が漏れて、内側に水たまりを作っている。

その雨水に、赤黒い筋が混じっていた。

「だれだ……?」

先程までとは違う高鳴りがする。返事はない。

「お、おいっ」

雨の音が静かに響いた。

クレナが唾を飲み込んで取っ手を傾けると、外側の何かに押されて扉が勝手に空いた。つっかえを失った塊が水たまりに倒れ込んだ。

「ッ、ジェスター……?」

全身の感覚が曖昧になって、力の抜けた手が錆びた燭台を取り落とした。

「ジェスター!」

クレナは蒼白になって駆け寄った。雨に濡れて冷えた体は恐ろしく重い。あんなに身軽な彼の体が、こんなにも沈んで動かない。

「おい、おいって」

揺すっても反応はない。開け放たれた扉から冷水が舞い込んでいるのに思い立って、クレナは全身を使って必死にジェスターを家の中へ引き入れた。

床に転がって揺れている灯火を直して傍に置く。橙色が照らした彼の顔には大きな傷があった。額から左頬にかけて、髪の毛ごとばっさりと斬られている。クレナの手が震えた。

「ジェスター、なぁって」

肩口にしがみついて名前を呼ぶ。すると微かに、呼吸が聞こえた。

まだ生きている。

「助けなきゃ」

震える声で呟いた。

先程出した布をかき集めてテーブルに置く。クレナの力ではベッドまで運ぶのは無理だ。傷にあまり触れないよう水分と血を拭って、斑に赤くなって張り付く衣服を脱がせた。手足にいくつも切り傷がある。クレナは無我夢中で引き裂いた布を巻き付けた。

「しっかりしろよジェスター」

前にオーグスが怪我をしたとき、医者は駄目だと教わった。すぐに足がつくし、何より金がかかる。庶民が手を出せるのはせいぜい街で売っている気休め程度の飲み薬くらいだ。

見様見真似で止血をしながら、血の気の引いたジェスターを見つめる。閉ざされた瞼が怖くてたまらない。

「ジェスター、がんばれ」

クレナは初めて神に祈った。いや、助けてくれるのなら悪魔だって構わない。意味もなく手を握って、体をさすって温めた。


三日三晩降り続いた雨のお陰か、警備隊はジェスターを見つけられなかったようだった。

久しぶりに差した日がジェスターの頬を撫でた。

「なぁ朝だぜ、起きろよジェスター」

掠れた声でクレナが呟く。幼い目元には隈が出来て、小さな身体をぐったりと椅子に預けていた。

「昨日はわざわざとなり町まで買い物に行ったんだぜ、むこうのほうが美味いもんあるからさ」

思い動作で椅子から降り、壁際に干した布類を掴む。ついた血が落ちきらず、少し変色してしまった。

「起きねえんだったらまたおれが食っちゃうぞ」

ジェスターの傷に巻かれた包帯をゆっくり取り払った。引き攣った皮膚をあまり見ないようにして、新しい包帯を巻いていく。

「ちくしょう、寝こけやがって。おまえのほうが役立たずじゃんか」

文句を言うクレナの声が湿って揺れた。

雨で冷やされた翌朝は酷い熱を出した。痛みと火照りに唸った翌朝は渇きに悶えて、クレナはなんとか彼の口に水を流し込んだ。そうして迎えた今朝は、だんまりだ。

ピエールとオーグスは、帰ってこない。

「ジェスター……」

クレナが鼻をすすった。屋根の雀が何も知らずに気分よく歌った。

「……ぅ」

「!」

クレナは俯いていた顔を勢いよく上げた。ジェスターの片目が震えている。眉間に皺を寄せて、睫毛の隙間から灰青の瞳が覗いた。

「ジェスター!」

「……」

「なぁおれだよ、わかるか」

ジェスターはクレナを見ない。しばらく天井を見つめて、おもむろに体を起こした。

「ぐっ、ぅ」

「や、やめろって!まだ傷が」

言っているそばから包帯に朱が滲む。クレナがジェスターにしがみつくと、彼は力任せにクレナを押しのけた。

「……くそ」

「っ、ジェス、タ」

「くそったれ!」

ジェスターは声を吐き出して右手を壁に叩きつけた。衝撃で土埃が舞った。

クレナは怖くなってその場に立ち竦んだ。髪と包帯とで表情が見えないが、ひどく怒っているのはわかる。息切れの合間に歯軋りが聞こえた。

「…………死んだ」

絞り出すようにジェスターが言う。

「あいつら……っ、俺を庇いやがった。ちくしょう、ゴミみてぇに俺達をっ!」

「……」

「なんで、なんでだ!どうして俺達ばっかりこんな目に合わなきゃいけねぇ、ちくしょう、ちくしょう!」

何度も叩きつけた腕が血に濡れて、土壁を彩った。思いを叫んだ拍子に傷が開いて、ジェスターは怨嗟と苦痛に背を丸めた。

「……お前」

肩を上下させるジェスターに低く呼ばれて、クレナは小さく跳ねた。

「もう一人で生きてけんだろ。……出ていきな」

「な、なにいってんだよ」

「……」

「嫌だよジェスター、なんで急に」

「ガキ連れてちゃ何も出来ねぇんだよ」

「そんなこと言うなよ、おれなんだってする、前よりこき使ったって」

「うるせぇ、邪魔だっつってんだよ!」

無造作に振り回した左腕が、すぐ側にいたクレナの顔を張り飛ばした。

「……ッ」

ジェスターが弾かれたように身を固める。床に尻餅をついたクレナは俯いて、ゆっくり頬を押さえた。重い沈黙が流れる。

「……じゃあさ、ジェスター」

「……」

「おれのこと、売れよ」

クレナが静かに言った。

「おれさ、大人しくふるまうからさ、そしたら、すこしは高く買ってもらえるだろ」

ジェスターの表情が歪む。

「なにをするにも金は必要だからさ、だから」

喉につっかえたような声が薄暗い家に溶ける。

「でも、売りに行くのに、怪我してたら目立つからさ、だからさ、きずがっ、なおるまではさっ」

クレナの言葉が不自然に跳ねた。ジェスターを見る瞳が、湛えた涙で悲しげに揺れた。

「……クレナ……」

ジェスターに後悔が押し寄せた。なんて無責任な男だ。勝手に攫い、名前をつけて傍に置いたのは自分ではないか。出ていけなど理不尽が過ぎる。

こらえきれずクレナはぽろぽろと涙を落とした。ひどく幼い姿だ。それもそうだ、彼女はジェスターの半分しか生きていない。

「クレナ」

痛みなど忘れて手を伸ばす。しゃくりあげながら近づくクレナを引き寄せて力なく抱いた。

「悪い。悪かったクレナ」

「うぐ、すてないで、じぇすたー」

「捨てない、捨てねぇよ。ごめん」

小さな背中を叩いてジェスターは詫びた。傷を案じているのか、クレナは抱きついてこない。ただ甘えるように額を押しつけてきた。

「正気じゃなかった。もう言わねぇ」

「……ん」

「面倒見てくれたんだな?ありがとよ」

「うん」

「……しくじっちまった。しばらく、文無しだ」

「いい、よ。おれが稼ぐから」

「……おう、悪いな。世話んなるよ」

目元を雑に擦ってクレナが顔を上げた。土で汚れた部分を指の腹で拭ってやると、逆にジェスターの血がついてしまった。

ジェスターが苦笑すると、クレナも嬉しそうに笑った。

「動けるようになったら……、墓でも、作ろうぜ」

「……うん」

クレナが頷いて、拳を強く握った。

「おれ、仇も討つ」

その真剣な表情にジェスターは目を見開いて、思わず吹き出した。

「なっ」

「は、いっちょまえのことを」

「おれは本気だ!」

怒って赤くなるクレナの頭を優しく叩いて宥める。

「仇は二人で討つぜ」

「! おう」

「よし。と、腹が減ったな」

「へへ、腕によりをかけてやるよ」

クレナがやる気満々に腕まくりをした。ジェスターはぶり返してきた痛みを誤魔化しながら、心強い後ろ姿を見守った。

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