小さくひとつ鳴く

葵上

小さくひとつ鳴く

 巴の住む街と隣町とをつなぐこのバイパスは、起伏が少なく見通しが良い。車通りが多いことも美徳の一つだ。赤信号を見つめながら、巴は隆志とこの道を最後にドライブしたのがいつだったかを思い出そうとした。それは眼鏡を買いに行ったとき、映画を見に行ったとき、あるいは職場で使う水筒を探しに行った時だったのかもしれない。どれが最後なのかはっきりと分からなかったけれど、どの記憶も曖昧で、満ち足りていて、巴はいつも笑顔だった。くっきりと覚えているのは、初めて隆志がこの道を通った日、「いかにもな田舎の道だな」と、呟いたこと。少し眠そうな顔で左頬にえくぼを作っていたこと。左頬にしかできない、あのえくぼを。

それ以外の隆志の顔を思い出そうとして、うまく思い出せなくて、心を指先でつままれる。

一つ、ため息を吐いた。いつからか、どんなに悲しい気持ちになっても涙が出てこなくて、その代わりにため息がでるようになった。四十歳を目の前にして、どこか身体が変質してしまったのかもしれない。信号が青に変わる。巴は意識して背筋を伸ばし、前を見た。少しでも凛とした女性に見えるように。夏帆の待つ空港まで二時間と少し。巴は一人、長い指をハンドルに絡ませて桃色のスペーシアを走らせる。四車線だった道路はもうすぐ二車線になる。



「夏帆が卒業旅行でそっちにいくの。泊めてあげてくれないかな」

 姉の紫乃からそんな電話があったのはつい三日前のことだった。四年ぶりの連絡だった。おとなしそうな顔立ちで、おしゃべりで、よく泣いて、大人の使い方が上手な姉。せめて厚かましく、そして不躾に話をしてくれたら良いのにと、巴はいつも紫乃を恨めしく思う。

「そんな突然言われても、わたし困るわ。仕事だってあるのよ」

 なるべく不機嫌に答えたつもりだったが、それは巴が思うより悲しげに響いた。

「ごめんね突然で。でも、わたし夏帆が心配なのよ。あの子、大人しそうに見えて結構むちゃくちゃするところあるし。巴にも分かるでしょう」

 分からないわ。声になりかけた。巴が夏帆と最後に会ったのは夏帆がまだ九歳の時だったし、その前に会った(一緒に生活していた)のは、四歳の頃だった。何より、巴には子どもがいなかった。

「夏帆ちゃんだってもう二十歳にもなったんだし、大丈夫よ、きっと」

「いいわ。過保護だ、って笑ってちょうだい」

 紫乃が自嘲を含んだ言葉を選んだことに少し驚く。

「やっぱり、巴が見てくれるなら安心なんだけど」

 なんだけど。なんだけど、なんだけど。いくら待っても続きは出てこなかった。

 柔らかい雨が降り出したような静かさが続いた。遠く離れたところで生活しているのに、巴は自分が紫乃と同じ籠の中にいるように感じた。巴はいろんなことを考える。仕事のこと。隆志のこと。空港までの道のり。今日から三日間の天気。夏帆の布団を干す時間はあるだろうか。一週間前に居なくなったチルのこと。

そう、チル。

いなくなってしまったままだ。

巴は一つ、大きくため息を吐いた。

「わかったわ、隆志さんに話してみる」

どこか遠くで、でもたしかに、心臓が弾力を失うのを感じた。

紫乃は最後までお願いを言い切らないから、何度も何度も一生のお願いが使えるのだと、そう考えるようになったのは、夏帆が生まれてしばらくした、あの頃だった。

「ありがとう。うれしいわ。巴に頼んでよかった。夏帆も、巴みたいにおとなしい子に育ったら安心だったのに」

 巴はおとなしいね。幼い時から魔法みたいに繰り返されてきたフレーズ。笑顔で同調する父と母。得意げな顔がひとつ。いつも見た光景が目に浮かぶ。確かに巴はおとなしい子どもだった。おままごとよりも塗り絵が、イチゴよりもリンゴが、ズボンよりもスカートが好きだった。でもそれは、もう三十年以上前の巴だ。今は職場である程度の肩書きもついた。ささやかながらマイホームも買った。ブランドの鞄や財布も。東京に買い物にいくお友達も出来たし、結婚だってした。誰にも話していないだけで、十七歳で処女も捨てた。

「じゃあ、時間とかはあらためて連絡するわ。またね」

 少し遅れて、鼓膜の振動が脳に伝わる。無意識のままに、うん、またね、と返していたのだと、しばらくしてから気が付いた。また、言いたいことは何も言えなかった。


 

 反対車線を迷彩模様の車が連なって通っていく。山を切り開いて通されたこの道は、坂を登り切ると街を一望できる。丘、というのも大袈裟なその頂上からは、厚ぼったい雲の後ろから夕日が射しこんでるのが見えた。さっきまで続いてた雨は止んでいる。遠くの方に、洋風の外観をした、大きなショッピングモールが見える。この町のシンボルのような建物で巴と隆志はよくここに出かけた。この坂を下る時、巴は必ずそのとんがった屋根を見た。その先端にとんぼがとまっていないか期待して。カーブに差し掛かり、景色が山に飲み込まれていく。時計をふと見る。予定通り、かなり早めに空港に着けそうで、少しほっとした。



 冷静に考えれば、夏帆を泊めてあげられるような状況では無かった。チルがいなくなった。チルは巴と隆志が子どもの代わりに飼い始めた雑種の柴犬だった。

 結婚して三年が過ぎた頃、医者から子どもを諦めるように告げられた。原因は隆志にあった。なんとなく分かってはいたけれど、お互いに仕事に夢中で、気付かないふりをしてきた。あの日のことを、巴はうまく思い出すことが出来ない。

「これからどうすしようか」

 泣きじゃくる巴に、隆志は優しく呟いた。いつもより少し高くて、どこかくぐもった声がした。

「どうするって、なに」

「原因はこっちにあるみたいだし、巴はまだ若い。離れた方がいいのかなと思ってな」

 思わず顔をあげた。隆志はあまりにも穏やかな目をしていた。巴はそんなことを聞かれたことが、何よりもつらかった。泥を噛むような気分だった。

「どうしてそんなふうに言うの」

「きみのことを想ってだよ」

 巴は、いがみ合うより、もっと辛いことがあるのだと知ってしまった。

「分からないわ、あなたが何を考えているのか、わたしには分からない」

 自分がどうやって声を出しているのか、巴にはもうわからなかった。

「無理に全部分かり合わなくてもいいじゃないか。巴は巴だし、俺は俺だよ。それよりも、巴はどうしたいかな」

 頭の中の大事な部分がすっかり欠落してしまって、どうしたいかなんて分からなかった。子どもが出来ないことよりも、隆志の穏やかさの方が、ずっとずっと鋭く痛んだ。

 次の日、隆志は巴をドライブに誘った。隣町に住む、同僚のヤマモトさん夫婦のところにいくと、それだけ告げられた。会話らしい会話はなくても、隆志と久しぶりのドライブは、ただそれだけで楽しくて、どこかそれが苦しかった。ヤマモトさんの家に着いても隆志は何も話さなかった。隆志が車を降りてチャイムを鳴らすと、巴と同い年くらいの女性が出てきた。暖かい笑顔の持ち主だった。

「おいで」

 車のドアを開けて、隆志はそれだけ呟いた。

 ヤマモトさんは、巴たちを庭の端にある小さな納屋に案内してくれた。そこで見たことは、巴にとってほとんど奇跡だった。まだ生まれたばかりの子犬が六匹、喉を鳴らしながら母犬の胸に集まっていた。くぅくぅと愛らしい音が納屋を温かくする。茶色い毛の子、三角の耳をした子、黒と白が可愛く混ざった子。どの子もたまらなく愛らしかった。もう少し近くで見ようとして巴が近寄ると、奥の方で遠慮がちに寝転んでいた子犬がその身を起こし、小さく一つ吠えた。今から思い出すと、巴がチルに一目惚れしたのはその瞬間だったと思う。生まれたばかりのチルを抱かせてもらった時の興奮を巴は未だに忘れられない。まだ開ききらない細い目に、茶色と黒の柔らかそうな毛並み。くるりと巻かれるはずの尻尾はまだ元気なく伸びていて、まさしく慈愛とはこの感情なのだと巴は確信した。

 それからしばらくして、隆志がその子を抱えて帰ってきた。二人と同じイニシャルにしたくて、チルと名付けた。小さいころに好きだった絵本に出てきた犬の名前を借りた。

 チルとの生活は、巴たち夫婦を陽だまりにいるみたいに暖かくしてくれた。あるいはアイロンをかけたばかりのYシャツのように。

巴と隆志はチルにもおはようを言い、朝食は必ず二人と一匹で共にした。仕事に行く前には必ず外に出し、昼休みには、隆志と二人でチルが今頃何をしているか語り合う日もあった。夜になれば、一緒に借りてきた映画を見て、ベッドは三つを横に並べ(チルのベッドはいつも隆志の側に置いた)、川の字を作って寝た。チルは賢くて、家の中で粗相をすることが無かった。したくなると、必ず切実な声で吠えて、巴と隆志に外に出たいと知らせてくれた。パンよりもご飯が好きで猫のように煮干しを好んだ。散歩に出れば必ず巴を引っ張り、他の犬に吠えられると必ず吠え返した。どれだけ自分より大きな犬が相手でも。掃除機が苦手で、巴が大きな音を出して動かすたびに、靴箱の中に隠れて出てこなくなった。

 借家からマイホームに引っ越した時、チルのためにとフローリングを少し特別なものにした。庭も持てるように大きめの土地を選んだ。チルはほとんど二人の身体の一部だった。心臓より、肝臓より、背骨に近い何かを、二人に分け与えてくれた。

 それから十一年。巴は毎日、少なくとも一つ、幸せを感じられる日々を過ごした。だんだんとチルは大人になり、背中から黒い毛を生やし始めた。目はビー玉のように、蒼く美しく輝くようになった。白内障だった。散歩の距離は変わらなかったし、相変わらずたくさん食べたけれど、確実にチルはおじいちゃんになっていった。いつその日が来てもいいように。巴と隆志はベッドに入る前にたまにそんな会話をした。ちょっとした悲しみに包まれながら。


 一週間前、巴が仕事から帰ると、チルは庭にいなかった。家に入りリビングのドアを開けても、チルは駆け寄ってこない。チルの好きな魚の焼けた匂いがして、無神経に巴の鼻をくすぐった。キッチンに向かうと、隆志がいつものようにテレビをラジオみたいに聞きながら、味噌汁を混ぜていた。テーブルには作りたてのサラダが二つ用意されている。

「ただいま」

返事を待たずにに巴は聞いた。

「チルは中じゃないの」

隆志にお礼を言うことさえ無視して聞いていた。

「おかえり。今日も遅かったね。それがね、どこかにいってしまったみたいなんだ」

耳が、目が、鼻が、あるいはもっと大事などこかがおかしくなったのかと思った。

「どこかって、どういうこと」

「チルの小屋の前に、ちぎれた首輪が落ちていたよ。逃げ出してしまったみたいなんだ」

隆志が何を言っているのか分からなかった。分かりたくなかった。もう、隆志の顔を見ることが出来なかった。ひどい顔をしているのが自分でもすぐに分かった。

「ねぇ、チルは、チルはどこにいったの?」

ほとんど怒りに近い響きが部屋の中の空気を刺した。隆志の顔つきが少しずつ変わっていくのが、手にとるように分かった。

「巴、落ち着こう。さあ、座って」

「いやよ、探しにいかなきゃ。あなたも、早く」

 口ではそう言っていたものの、一歩も動けなかった。こんな形でチルがいなくなるなんて考えたこともなかった。何よりも、隆志がいつもと同じ様子でいることが巴には恐ろしくて仕方なかった。

「落ち着こう、巴。まずはしっかりごはんを食べよう。それから二人で車で探そう。犬には帰巣本能あるっていうし、ひょっこりかえってくるかもしれないよ」

 隆志は、冷静だった。余裕さえ感じられる、そんな響きだった。とても模範的に夫としての役割を果たしてくれている。巴を落ち着けようとしてくれている。頭ではちゃんと分かっている。

 それでも。だとしても。

 隆志の穏やかさは、巴の薄い部分を刺した。何度も何度も、氷みたいな冷たさで。

「巴、大丈夫かい、巴」

 肩をつかまれていた。鈍い痛みがはしる。巴はなるべく今の顔を見られないように、少し長い髪を通して隆志をみた。いつもおしゃべりで、手が暖かくて、眼鏡の似合う、大好きな優しい隆志の顔があった。

「どうして」

 巴は、そう口にしてから、自分が思うよりもずっと怯えきって声を出していることに気がついた。隆志がとても驚いた顔をしたから。

「どうして、あなたはそんな穏やかな顔でサラダを作れるの」

 それがその日最後の二人の会話だった。

 あれから、 未だにチルは帰ってきていない。いつも散歩に使った道も、近くの飲食店も、チルが会うたびに喧嘩していたあの犬のいる家も、チルの兄弟のところも、全部探したけれどいなかった。巴はチルの似顔絵を書いて、チラシを配り歩いた。チルの顔はくっきりと思い出すことが出来た。隆志と二人でヤマモトさんの家を訪ねたけれど、遠くまで来た疲労感しか残らなかった。

「あれから随分経つけど、巴さんはお元気でしたか」

ヤマモトさんの奥様にそう聞かれた。とびっきり穏やかな優しい顔で。口元には、くたびれたような豊齢線が深く刻まれていた。

その帰り道、隆志はとうとう何も言わなかった。大きな手がハンドルを握っているのだけが見えた。二人の間に音がなくても不思議と居心地は悪くなかった。よく思い出してみたら、最初は二人だったのだ。巴と隆志しかいない世界にチルが来ただけで、それが原点だった。

巴には助手席の窓を流れる景色が全部輝いて見えた。悲しみでいっぱいの世界がこんなに美しいなんて、巴は知らなかった。



 予定通り、約束の時間よりもずっと早く空港に着いた。巴はまず、車のミラーを開いて化粧の確認をする。大丈夫。普通に見える。ゆったりと車を降りる。周りには誰もいなかった。通り抜けた風は思ったよりも冷たくて巴は少し歩を早めた。

 この空港は、巴のお気に入りの場所だった。森の中に、信じられないくらい小さな小さな建物が一つあるだけの、ただそれだけの空港だった。

 エントランス、というには廃れすぎた入口を抜けると、この街の観光名所らしき写真が散りばめられたブースが目に入る。巴はそれを横目にエレベーターに乗り込んだ。最上階を押す。それは三階で、しかも屋上だった。

 いつ来てもここは眺めがいい。すっかり色褪せきった青いベンチをハンカチで少し拭いてから腰かける。ちょっとして、巴は近くに親子がいるのに気が付いた。小学生にあがったばかりなのか、まだ発音がたどたどしい。女の子が、空を指さして一生懸命何かを話していた。何を話しているか分からなかったけれど、楽しそうに見えた。空はこんなに鈍色で落ちてきそうなのに。足元は、もう朽ち果ててきているぼろぼろのコンクリートで覆われている。上も下も全部灰色だ。あちらから子どもの笑い声が聞こえてきて、それが巴のため息を止めてくれていた。

 巴はこれからやってくる夏帆のことを考える。紫乃からの連絡に添付されてきた、一枚の写真。もうすっかり一人の女性になっていて、その面影は紫乃にはあまり似ていなかった。 



 約束の時間がきた。飛行機の中から、小さな影が列をなして歩いてくる。こんなに小さな空港でもそれなりに人は降りるものだ。巴は夕日を背中に受けて一階に下りていく。

 なるべく背筋を伸ばして待った。下りてきた人たちの列を眺めていると、夏帆が見えた。少し疲れた顔つきをしていた。隣には、巴の知らない男性が立っていた。

「こんばんは、巴おばさん」

 快活で、あまりにも紫乃に似たその声に、少しおかしくなった。つとめて巴は吹き出したりしないようにする。

「ひさしぶりね夏帆ちゃん」

「今日は来てもらってありがとうございます」

「気にしないで。紫乃からの頼みだし、久しぶりに夏帆ちゃんにも会いたかったから」

 タイミングを逃さないように、巴はそのまま聞いた。

「ところで、隣の方はどなたかしら」

 夏帆の頬を赤くなっていく。巴は幸福感でいっぱいになって笑った。あまりの懐かしさにくすぐったくなる。夏帆が、あの時、巴や紫乃を煩わせた熱を持って、巴の前に立ってる。なぜかそれはとても誇らく思えた。寂しさでどこかが壊死したような気がして、それでも巴は嬉しかった。

「紹介するね。優輝さん。私の彼氏。付き合って今半年になるの。その、あの、今日はごめんなさい」

 夏帆は気まずそうな顔をしてみせた。さっきまであまり紫乃に似ていないと思っていたのに。

「実は、私たち、もう近くにホテルを予約してあるし、レンタカーも手配しているの。だから、その」

 昔は自分のことを、かほ、って呼ぶような、そんな子だったのに。

 隣に立つ優輝くんは、夏帆に合わせて、すみませんでした、と低い声で一緒に頭を下げた。

「本当にすみません。夏帆には早く連絡しろって言ったんですけど、お母さんにばれたら大変だからって聞かなくて。こんなところまで迎えに来させてしまって。本当にすみませんでした」

 ああ、大丈夫よ。紫乃。

 心の中でそうつぶやいた。

 二人は巴の言葉を待っていた。きっとこの場には、早く紫乃に連絡しなさい、とか、あまり羽目をはずさないようにね、とか、いい思い出を作ってね、とか、そういう言葉がふさわしかったのだと思う。希望にあふれた二人になんと言おうか、考えた。

 結局、巴はまったく違うことを口にしていた。ほとんど、衝動的に。

「この前ね、チルがいなくなってしまったの。チルっていう、十一年連れ添った愛犬が」

 夏帆も、優輝くんも、まん丸い目をしていた。自分でも何を言っているか分からなかったし、二人も何を言われているか、きっとわからなかったと思う。どこからか、チルの、あの愛らしい鳴き声が、聞こえたような気がした。

 巴の目からは、ついさっきまで降っていた雨のように、涙が溢れでていた。



 空港をあとにして、巴は紫乃に電話をかけた。巴は、紫乃が電話に出るまでの間、昔のことを思い出す。

 小学生の頃、巴と紫乃はたびたび喧嘩した。わっと感情のまま泣いてしまえる姉を、ずっとずるいと感じていた。目の前で号泣されると巴はどこか醒めてしまい、いつも決まって泣きそびれた。溜まったままの感情をそのまま消化することが巴にはまだできなくて、それが続くと寝る前に大声で泣いた。母が心配して、どうしたの、と声をかけてきてくれる頃には、その感情はすっかり風化してしまっていて、言葉にしようとしても、何度も何度も、喉元で消えた。それがまた切なくて、巴は眠りにつくまで静かに涙を流し続けた。

「もしもし、夏帆とは合流できた」

 紫乃の不安そうな声が聞こえてきた。今なら、紫乃とどこまででも共感しあえるのだろうと、そう確信した。

「うん、会えたわ。安心して」

 紫乃が何か言っている。ありがとうとか、ごめんねとか。そういったものを遮って、巴は続けてみた。

「夏帆ちゃん、紫乃にとても似てきたわ」

 晴れ晴れとした気持ちで隆志の待つ家に帰る。

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