第2章 密謀の地下編
第1話 新たな護衛
※ ※ ※
硬い岩盤をくり抜くような形で作られた灰色の小さな産室は、極限の緊張感に包まれていた。
部屋の隅にあるベッドに横たわるのは、一人の女性。苦しそうに低い呻き声を発し続けている。彼女の足先回りには、中年の産婆が三人、緊張感を
「あと少しです。もう頭は見えております」
「呼吸はいいですよ。そのまま維持いたしましょう」
産婆たちが告げると、
もう何度繰り返したかわからない産婆の掛け声と共に、女性はいきむ。
やがて訪れたのは、生命の誕生の瞬間。
産まれたばかりの命がこの世界に存在を主張するべく、腹の底から声を上げる。
産室はたちまち祝福の言葉と笑顔で包まれた。厳しい冬を乗り越えた者にだけ訪れる、春。
「おめでとうございます! 元気な女の子ですよ!」
すかさず産婆の一人が、へその緒が付いたままの赤ん坊を抱きあげる。そして母と子を繋いでいた源を切り落とすと、赤ん坊を用意していた産湯に浸けた。
歓喜と達成感、何より小さな生命の存在が緩和剤となり、母体が今まで感じていた苦痛を全て吸収してくれる。
そうだと確信していたからこそ、産婆たちは女性の反応に目を剥いた。女性は再度、苦痛で呻き始めたのだ。女性はいまだ終わらぬ陣痛に呻いていた。
「まさか――。もう一人?」
産室の空気が再び緊張感を孕んだものに変わる。赤ん坊を抱いていない二人の産婆が、再び女性の傍らへと着いた。
穏やかに眠る二人の赤子を前に、産婆たちは立ち尽くした。
可愛らしい、双子の女の子。
この世に生を受けたばかりの、穢れを知らない、無垢な赤子たち。
その一人を、感情を示さぬまま老婆が抱く。老婆は女性の母親だった。別の業務をこなしていた老婆だったが、赤子が産まれたとの報せを受け、産室に飛んできたのだ。
「直ちに兵を――アウダークスとセクレトを呼べ」
赤子の一人を抱いたまま老婆は言う。その声はまるで吹雪のように険しく、冷たい。
「ですが――」
「すぐに呼べ。いいか? このことは絶対に――絶対に他言無用であるぞ」
産婆たちは俯いたまま頷くほかなかった。逆らえば、自分たちの命が刈り取られてしまうと知っていたからこそ。
「民のために忘れるのだ。産まれたのは、一人だけ」
老婆は、まるで古来から伝わる詩を朗読するかのように、繰り返す。
「産まれたのは、一人だけ」
※ ※ ※
テムスノー城、謁見の間。
そこには現在、四人の人影があった。一人は玉座の主であるテムスノー国の王、ノルベルト。
その玉座の隣に佇むのは、ワインレッド色のマントを身に着けた黒髪の男だ。
ノルベルトの顔を段差の下から見上げるのは、彼の娘フライア。そのフライアの斜め後ろ。
「あの、陛下。もう一度……仰っていただけますか」
広い空間に響き渡った抑揚のない声は、
「どうした、名を聞きそびれたのか? では改めて告げよう。今日から新しくフライアの護衛として働いてもらうことになった、エドヴァルドだ」
ノルベルトはにこやかにラディムに告げると、玉座の隣に佇む男の背中に手を置いた。
最初のノルベルトの言葉が、聞き間違いではないとわかったラディムは愕然とした。地がひっくり返ったのかと錯覚してしまうほどの眩暈が彼を襲う。
「新しい護衛って、つまり、俺はクビってことですか……?」
ラディムの声は震えていた。でも仕方がないだろう。早朝からフライアと共にノルベルトに呼び出されたと思ったら、いきなりこれだったのだ。
人生の転機は突然訪れるとは言うものの、突然すぎる……と揺れる頭の中でラディムは思った。
彼の斜め前に立っていたフライアが、クビという言葉に反応したのか、驚いた顔でラディムへと振り返る。
二人の反応を見たノルベルトは、小さく笑いながら続けた。
「いやいや、心配するでない。お主にも引き続き護衛としてこの城にいてもらう。今日から二人でフライアを護ってほしいのだ。頼むぞ」
ノルベルトのその言葉を聞いた瞬間、ラディムはようやく肩から力を抜いた。同時に安堵の息も彼の口から漏れる。
「焦った、本当に焦った。いきなり職を失うかと思った……」
呟く声は非常に小さく、ノルベルトやフライアの耳までは届かない。
安心したところで、ラディムは改めて同僚となる男を見る。
得物はこの城の兵士やフェンと同様に、長い槍のようだ。その槍と負けないくらいに真っ直ぐと伸びた背筋。ただの立ち姿にも隙はうかがえない。かなりの手練れとラディムは見た。
大人びた雰囲気を醸し出しているが、まだあどけなさの抜け切っていない顔は、ラディムと同い年くらいだろうか。
背はラディムの方が高いが、決して低いわけではない。中肉中背の至って普通の体型だ。頭には幾重にも布を巻いていて髪型はよくわからないが、僅かに覗く前髪は、まるでカラスのような黒をしている。
一際目を惹くのは、その顔だった。
すっと通った鼻筋に薄い唇。パッと見女性かと見紛うほどの中性的な美貌――。街行く人々に聞いたら、十人が十人共、彼のことを美少年だと称えるだろう。
比べてラディムはどうだ。特に整った顔立ちというわけでもなく、鋭い三白眼に針金のように硬い黄色の髪。
「あんたみたいなチンピラみたいな人が王女様の護衛をやってんの? 冗談でしょ?」と今まで浴びせられた心無い罵倒は数知れず。
――負けた。
何が、とはあえて明確にしない。というより、したくなかった。一度立ち直ったラディムの心は、再び沈んでいく。直接勝負をしたわけではないのに、彼の心は完膚無きまでに叩きのめされていた。
(いや、背の高さだけは俺が勝っている。ざまぁみろ)
ラディムが心の中で勝手に勝負をして苦し紛れの悪態を付いていると、美少年の新米護衛はフライアの前まで歩み寄り、彼女の前で膝を付いた。
「エドヴァルド・カンナスと申します。どうぞよろしくお願いいたします、姫君」
無表情のまま自己紹介をするその声も、男にしては若干高く、女にしては低いものだった。見た目同様、声まで中性的とは何て徹底した奴だ、ラディムは心の中で舌打ちをした。
「え、えっと。既にご存知だとは思いますけれど。王ノルベルトの娘、フライアです。これからよろしくお願いいたします、エドヴァルド」
フライアは少し緊張しているのか、雛鳥のようなか細い声で自己紹介をした。彼女の青い
フライアは背に翅が生えてから、積極的に人間と話をしなくなった。
同じ
エドヴァルドの容姿は見る限り人間だ。混蟲には見えない。もしかしたらラディムのように『蟲』の部位を自在に出し入れできるのかもしれないが、それならば先にノルベルトが混蟲であることを説明するであろう。
ノルベルトは何故このタイミングで、フライアの護衛を増やすことにしたのだろう。しかも人間を――。
ラディムの考えは、エドヴァルドが発した言葉に遮られることとなった。
「陛下の慈悲深き御心に答えるべく、今日から貴女を全力で御守りいたします」
エドヴァルドは淡々と言うと、フライアの左手を優しく取り、甲にキスをした。瞬間、ラディムの心が大きくざわつく。
形式通りの挨拶とはいえ少しイラッときてしまったのは、美男美女の絵になりすぎる光景に嫉妬したからではない。断じてない――。
言い聞かせるように、何度も心の中で否定の言葉を繰り返す。
フライアはというと、エドヴァルドの行動に照れてしまったのか、その頬はほんのりと苺色に染まっていた。
エドヴァルドは立ち上がると、今度は漆黒の瞳でラディムを見つめる。無言だったが、自己紹介の催促をしているのは彼にもわかった。
「ラディム・イルギナだ。好きなように呼んでいい」
彼の簡単な自己紹介を聞いたエドヴァルドは、なぜか小さく鼻を鳴らした。何だか名前を馬鹿にされたようで、ラディムの心に少し黒い感情が生まれた。
確かに『イルギナ』には、この国の言葉で『森の護り人』という大層な意味もある。それが自分に似合わないとわかっていたからこそ、ラディムは今までフルネームを口にする回数は減らしていたのだ。親の元を飛び出した時にこの名前も捨てれば良かったと、彼は今さら後悔をする。
「……よろしく」
エドヴァルドはそれだけを言うと、表情を一切変えることなくラディムに握手を求めた。一瞬だけ
エドヴァルドの手は、まるで女性の手のようにすべすべとしていた。今まで女性の手を触りまくってきたわけではない。むしろ触れたことがあるのはフライアとイアラくらいであるが、彼女らと同質な気がした。武器である槍は、今まで間違いなく扱ってきたのだろう。ごつごつしてはいる。だが、城の兵士たちの手とは明らかに違う気がしたのだ。これが美少年の手なのかと、ラディムは内心歯噛みする。
――何だか、気に入らない奴。
それがラディムがエドヴァルドに対して抱いた、第一印象だった。
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