第17話 疾走と交戦

 森の中を駆け抜けるのは、二枚の鮮やかな青。

 フライアは城に向かって、懸命に走り続けていた。

 樹から伸びる小枝や葉が、彼女の白い肌に小さな傷をいくつも付けていく。しかしフライアはそれらに構うことなく疾走を続けた。

 ラディムとは違い、フライアは背中のはねで飛んで行くより、魔法を使って地を駆ける方が早いのだ。


(早く城に――! もっと早く!)


 焦るその心とは裏腹に、彼女の脚にまとう緑の光は次第に弱々しくなっていく。ノルベルトが言った通り、地下牢で使った封印の魔法がフライアの体力をかなり削ぎ落としていたからだ。


(もう少し……もう少しだけ。お願い。消えないで)


 自分の脚に懇願しながら脳裏に浮かぶのは、冷淡な目をしたヴェリスの顔。

 混蟲メクスを創った魔道士。

 自分の好奇心のためだけに命を簡単にもてあそべるその彼女が、フライアやラディムに一体何をしようというのか――。考えただけで震え上がりそうだった。

 フライアがあの場から離れたのはラディムの足手まといにならないためでもあったのだが、果たしてこの判断が正しかったのかどうか――。

 徐々に不安が彼女の心を侵食し始めていた。


「あっ!?」


 考え事をしていたせいで注意が疎かになり、地に飛び出た木の根に足をとられる。たちまちフライアは、枯れ葉の積もる地面に勢い良く倒れ込んでしまった。

 フライアはそのまま起き上がることができずに、激しい呼吸音を発したまま枯れ葉を握り締める。

 弱々しく光る魔法を何とか纏っていた脚から、完全に緑は消え去ってしまった。

 喉の奥に広がる、血のような不快な味。肺が悲鳴を上げている。心臓は今までに感じたことがないほど早く脈打っていた。まるで耳元で心臓が鳴っているかと錯覚してしまうような、大きな鼓動音がフライアの脳内に響き続ける。


「立た……なきゃ……」


 荒い呼吸音に混じりか細い声で呟くと、歯を食いしばりながら膝を立てる。しかしフライアは、四つん這いの状態から身体を起き上がらせることができなかった。もう、限界だったのだ。


(私にもっと、体力があれば――)


 悔しかった。

 城に来てから、いつも側にいてくれた彼。

 時には兄のようであり、もう家族同然の存在。そして何より、初めての――。

 初めての、『混蟲メクスの』友達だ。

 だが、ただの友達ではない。彼に抱く感情は、友達という枠には収まりきらない。フライアにとって既に彼は失うことなど考えられない、大切な存在になっていたのだ。

 そのラディムが危ないというのに、自分は何の役に立つこともできないのか。

 フライアの心に、ただただ悔しさだけが広がった。両目からじわりと水が溢れ出す。彼女の赤い目は、一層その色を濃くしていた。


『お前、どうでもいいことですぐに泣きすぎ』


 いつだったか、苦笑しながら彼に言われた台詞が突然フライアの頭をぎった。しかし、涙を抑えることはできなかった。こんなに悔しくても泣くことが許されないのなら、涙など存在しなくていいとさえフライアは思った。


「フライア様!?」


 突如、木々の合間を縫い聞こえてきたのは、聞き覚えのある声。それは今、彼女が一番求めていた声でもあった。


「あ……」


 頭を上げ声の主を確認したフライアは、顔をくしゃくしゃにする。

 悔恨の涙が、安堵の涙へと変わった瞬間だった。







 ヴェリスの言葉と同時に、土人形は立ったままの姿勢を全く変えることなく、猛スピードでラディムの眼前へと移動した。


「っ!?」


 一瞬の出来事にラディムは即座に対応できず、ただ立ち尽くす。土人形は右腕を大きく上げ、ラディムの頭に向かってハンマーのように腕を振り下ろした。


「――くっ!」


 ラディムはそこでようやく反応することができた。横に跳び、ギリギリでその攻撃をかわす。

 土人形が振り下ろした腕は地面を直撃すると大地をえぐり、そこに大きなクレーターを出現させた。


「おい。細い腕のくせにマジかよ……」


 避け損ねていたら確実に頭が潰されていたであろう光景に、ラディムは堪らず冷や汗を流す。だがすぐに気を取り直し、両腕を交差させながら力強くある言葉を言い放った。


「虚空より生まれし風、我の腕に纏いて鋭い刃と成せ!」


 彼の両腕の突起を、緑に光る風が覆った。すかさずラディムは地を蹴り、土人形の真正面へと飛び込む。


「おらぁっ!」


 両腕の突起に纏う緑を鎌のように鋭く変形させ、ラディムははさみを思わせる動きで両腕を横に薙ぐ。

 ぼぼごっ。

 くぐもった音を立てながら、ラディムの右腕と左腕が土人形の身体を三つに断った。分割された土人形の身体は、そのままゴトリと地面に転がった。


「何だ。あっけねえな」


 拍子抜けしながら、ラディムは割れた土人形の身体に目をやる。土人形はピクリとも動く気配はなく、ただ地に転がるばかりだ。


「あんたの魔法も大した――」


 得意満面でヴェリスに言いかけたその時だった。

 三つに分かれた土人形の身体が、ぼこぼこと音を立て始めたのだ。まるで湯が沸騰するような音にラディムが驚き振り返ると、土人形の身体は一箇所に集まり、瞬く間に再度人間の形を作り出していた。


「…………」

「私の魔法が何ですって?」


 ヴェリスは意地の悪い笑顔で、楽しそうにラディムに聞き返す。彼女にとっては想定の範囲内だった流れらしい。ラディムは意図せず、苦虫を噛み潰したような顔になる。


「今の発言はなし」


 そう言うと再び腕を交差させ、ラディムは言葉を紡いだ。今度は氷柱つららのような氷の塊が、彼の腕の突起を瞬く間に覆う。

 土人形は先ほどと同じく、そのままの姿勢で素早くラディムの前へと移動した。ラディムは勢い良く上に跳んでそれを避ける。そして氷で覆われた両腕の突起を下に向け、そのまま土人形の頭上に落下する。

 ぼぐっ!

 ラディムの腕の氷柱を真上から受けた土人形の頭は、音を立て派手にへこむ。

 ラディムは力を込めながら、さらに自分の体重を腕に乗せた。へこんでいた土人形の頭はひびを立てながら割れていき、そのひびは股まで達する。

 今度は土人形の身体は、縦に真っ二つに割れた。同時に、ラディムの腕の氷柱も負荷に耐えられなかったのか、きんっ、と高い音を立て砕け散る。

 ラディムが着地したその直後。


「黒の炎よ。全てを灰燼と化せ」


 突如ヴェリスの声が響き、前方から黒い光が地を舐めるようにしてラディムへと向かった。ラディムは慌てて再度上に跳び、その黒をかわす。


「業火で焼き切れ、火の蔦よ」


 ヴェリスは空に浮かぶラディムに向けて、続けて魔法を放った。

 地から離れた直後だったラディムは、その素早くも正確な彼女の魔法に対処することができなかった。

 燃え盛る炎の鞭がラディムの身体を素早く捕らえ、絡みつく。


「ぐあっ!」


 熱さに呻くラディムの身体を、さらに炎の鞭は締め付けていく。


「くそっ!」


 翅ごと鞭に捕らえられてしまったラディムは、熱さに身をよじりながら地へと落下する。

 木がクッションになり地面へ直接激突する事態は避けられたが、それでもダメージは相当なものだった。彼の身体に纏わり付いた炎の鞭は、まだ消えていない。

 地に倒れたラディム目掛けて、いつの間にか復活していた土人形が這い寄っていた。今度はその足でラディムを踏みつけようとしているのだろう。彼の顔面の真上へ足を上げた。

 先ほどからあえて避けてきたのだが、ここは使う魔法を選り好みしている場合ではない――。

 ラディムは嫌な記憶を呼び起こされる『水』のイメージを脳内に描き、叫んだ。


「生命の源の水よ! ここに集いて盾となれ!」


 ラディムは地面に転がった状態で、炎の鞭の熱さに歯を食い縛りながらも、何とか腕を交差させ魔法を発動した。

 水の膜がラディムの腕を包み、彼の上半身を覆うほどの大きさの円へと変形する。

 ずしゃっ、という鈍い音と共に、土人形の足がラディムの顔を潰した――かのように見えたが、ラディムの鼻先寸前の所で、土人形の足は止まっていた。

 土人形の足が、水の膜に触れながらどろどろと崩壊を始める。やがてバランスを崩した土人形は、身体ごと横へ倒れた。どうやら元が土だから水に弱いらしい。

 土人形が倒れたのを見届けたラディムは、すかさず言葉を紡いだ。


「解除」


 ばしゅっ、と音を立て、ラディムを護っていた水の膜は瞬時にただの水に戻る。そしてラディムを締め付けていた炎の鞭を消し去った。

 横に倒れる土人形までその水は流れていき、土人形の身体は静かに崩れ去っていく。

 自身の魔法でびしょ濡れになりながら、ラディムは苦い顔で立ち上がる。炎の鞭が絡み付いていた箇所には、くっきりと火傷の赤みが浮かび上がっていた。


「だから水は苦手なんだっての……」


 彼の顔色が悪いのは、どうやら火傷だけのせいではないようだ。ラディムは頭を振り、懸命に水分を散らす。


光玉ル・スパエラ


 ヴェリスの声に、ラディムは慌てて視線をそちらにやった。だが、ラディムに魔法が飛んで来ることはなかった。片手に収まるほどの大きさの発光球体が、ヴェリスの左側に現れているだけだ。


光玉ル・スパエラ


 同じ魔法を、もう一度。今度はヴェリスの右側だ。腕一本ほど離れた距離に発光球体が浮かぶ。そしてヴェリスは、さらに同じ魔法を六回も繰り返した。

 最終的にヴェリスの周りを、八個の発光する球体が取り囲むこととなった。森の中で、ヴェリスの周囲だけが一際輝いている。

 ラディムには彼女の行動の意図が、全く読み取れなかった。

 彼が見たところ、あれは殺傷能力のある光球ではない。


「散れ」


 ヴェリスの一声で、八個の発光球体が猛スピードでラディムを取り囲んだ。ラディムは左右の複眼も使って、その発光球体全てを視界に入れる。そして僅かな動きも見逃さまいと凝視した。

 一斉にこちらに光球を放とうという魂胆なのか。ならば、一旦上へ飛んで全て叩き潰すまで――。

 ラディムはそう読むと、いつでも魔法を発動できるよう腕を交差させる。

 彼の動きを見たヴェリスは微かに口の端を上げると、腕を前へ突き出し、指をパチンと鳴らした。


「弾けろ」


 その言葉で、ラディムを取り囲んでいた発光球体は一斉に肥大し、次々に小さな爆発を起こした。

 凄まじい閃光が、辺り一面を覆い尽くした。光に驚いた鳥たちが一斉に空へと羽ばたき、瞬時に森は喧騒で包まれる。


「――っ!」


 あまりにも多量の光にラディムは思わず目を閉じるが、手で隠し損ねた複眼から容赦なく光が彼の中に流れ込んでいた。


(まずった! そういうことか!)


 既に見えている光球を、あえて目くらましのためだけに使う――。ヴェリスはラディムの複眼を利用し、この方法を取ったのだ。

 彼女の思惑通り、ラディムは完全に目が眩んでいた。彼の視界一面にひたすら広がるのは、白とも黒とも赤とも言えぬ色々。それが何色であるのか認識する余裕すら、彼にはなかった。

 まだ泣き続ける鳥たちの声に混じり、鈍く低い音がラディムの鼓膜を震わせた、その時だった。


「ぐっ――!?」


 ラディムは呻きながらうつ伏せに倒れ込む。彼の腹を、ヴェリスが渾身の力を込めて蹴り抜いたのだ。


「あなたの広い視界を利用させてもらったわ」


 冷ややかに言いながら、倒れるラディムの背中にさらに右膝をめり込ませる。


「――っ」


 細身の彼女にしては重すぎる一撃に、ラディムは堪らず顔を歪ませ、地に倒れ伏した。恐らくヴェリスは何かしらの魔法を身体に込めて、一撃を叩き込んでいるのであろう。


「魔道士のくせに……肉体派すぎんだろ……」


 地面に突っ伏したまま、それでもラディムは皮肉を込めて言い放った。

 彼は五本の指で強く地面を引っ掻く。もう少しで視界が回復するはずなのだが、まだその時は来ない。今のラディムには一秒の長さが途方もなく遅く感じられ、もどかしくてたまらなかった。


「運動不足気味なの。たまには動かさないと」


 ヴェリスは言いながら、さらに力を込めてラディムの背を踏み付けた。肺を圧迫され、彼の口から意図せず乾いた空気が漏れる。

 そんなラディムの頭上で、砂の擦れるような音が突如として発生した。彼はヴェリスが自分に向けて魔法を撃とうとしているのが、嫌でもわかってしまった。

 右か左か、とにかく避けないと――。

 頭の中で横に転がるイメージをラディムが浮かべた時だった。

 ヒュッ!

 風を切りながら、一本の槍がヴェリスの横を通り抜ける。通り抜けた槍はそのまま木へと突き刺さった。

 ヴェリスは唱えかけていた魔法を中断すると、興が削がれたように鼻を鳴らし、ラディムの背中に乗せていた足を下ろした。


「良かったわね。助けが来たみたいよ?」

「苦戦しているな、弟分」


 少し離れた場所から聞こえた男の声に、ラディムは思わず顔を綻ばせた。間を置かず、その声の主が姿を現す。鉄の胸当てを身に付けた、少しフケ顔の兵士が。

 彼の後ろには十人ほどの同じ格好をした兵士が従い、最後尾にはオデルがフライアを横抱きにして立っていた。


「フェン……すまねえ」


 まだラディムの視界は回復していなかったが、それでもフェンの方に顔を向けて礼を言う。


「お前な……。都合の良い時だけ名前で呼ぶなっての」


 フェンは呆れた顔で歩きながらラディムに答えると、木に刺さった槍を力を込めて引き抜いた。

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