第13話 魔法

 城から少し離れた大樹の枝の上に、ヴェリスは佇んでいた。風が紺の髪を無造作に舞い上げていく。

 ヴェリスがかつてのムー大陸で『研究』していたのは、もう千五百年も前のこと。しかし長い間眠りについていたヴェリスにとっては、つい先日のことだった。その研究対象が自分の手を離れ、子孫を作り、国まで創っていた。これほど胸が躍ることがあるだろうか。

 ヴェリスは口角を上げたまま、瞼を閉じる。

 それは、実験に使う人間をさらった時のことだ。

 家族や、友や、恋人の元へと返してくれと懇願する彼らは、ヴェリスにとっては羽音のうるさい蝿と同類にしか見えなかった。彼らが泣き、わめき、絶望の表情を作ろうが、ヴェリスの心には何も響かなかった。

 魔法の使えない、下界の人間。

 それは超文明を築いていたムー大陸に暮らす魔道士たちからしてみれば、まさに虫けら同然の存在だった。ムー大陸の魔道士たちは、原始的な暮らしをする下界の人間を常に見下しながら生きていたのだ。だから彼らの命を使うことに、何の躊躇ためらいも感じはしなかった。下界から人間を集めて研究をしていた魔道士が他にもいたことを、ヴェリスは知っている。

 それだけにムー大陸の崩壊は唐突で、生き延びた魔道士たちの絶望もはかりしれないものだった。

 しかし、ヴェリスは違った。

 魔道士たちが地に墜ちても、魔法を使えない人間など相手にもならないと考えていた。実際にそうであったし、ヴェリスが彼らに傷つけられることは一度たりともなかった。

 だが、その数が多すぎた。行く先々でヴェリスは人間に追い回されたのだ。

 取るに足らない相手ではあったが、寝る間を惜しんでまで相手をすることに、ヴェリスは次第に疲れていく。だから彼女は眠りにつくことにしたのだ。実験体たちの行方を気にしながらも。

 過去のことをぼんやりと思い出すヴェリスの顔は冴えないものに変わっていた。

 風に乗り上空までやってきたのか、一匹の虫がそんなヴェリスの眼前を横切った。ヴェリスはすかさずその虫を素手で掴み取る。

 蜻蛉とんぼと似たような六枚のはねを持つその虫は、まるで糸かと見紛うような細い体を持っていた。その頼りない体をよく観察してみると、半透明で向こう側が透けており、赤と黒の細い内臓器官が見えていた。


「ん。これは見たことのない虫ね。寝ている間に新種も色々と出ていそうね」


 ヴェリスは無邪気に微笑むと、その虫の翅を胴体から引き千切った。

 痛みに声を上げることすら叶わず、そして飛ぶことができなくなってしまった虫の胴体をしばらく眺めたあと、ヴェリスはゴミを捨てるかのように足元へと放り投げる。


「まぁ、今は虫より先にここの人間の観察だわ」


 城下街を行き交う人間を目で追いながら、ヴェリスは呟く。


「今、最高に楽しい気分よ。ありがとうオデル」


 妖艶に微笑み、魔道士は大樹から飛び降りた。







「あらあら。ちょうど手当てが済んだところよ」


 城の中央一階に、専属医師イアラが常駐する医務室はある。沈んだ表情で医務室に入って来た三人に、イアラは努めて明るい声をかけた。


「ちゃんと止血はしたし、安静にしておけばもう大丈夫でしょ。王はしばらくの間は痛いでしょうけど、我慢してくださいね」

「子供ではないのだから、その言い方はやめてくれぬか」


 イアラの言葉に、ベッドの上に座るノルベルトは思わず苦笑を洩らした。


「あら、私の元に来る患者さんはみんな、老若男女問わず子供と変わらないですよ」

「王もイアラ先生の前だと形無しですね……」


 兵士フェンの言葉に、ノルベルトは苦虫を噛み潰したような顔を作ることしかできない。


「イアラ先生。ついでに俺の手もちょっと見てくれねーかな」


 ラディムは右の掌をイアラに見せる。ヴェリスの腕を握った時にできた火傷が赤みを増し、膨れていた。


「どうしたの――って、あらあら、火傷? ダメじゃない、すぐに冷やさないと」

「いや、そんな場合じゃなかったし……」


 あくまで通常運行なイアラに、ラディムは力無く言いながら頬を掻いた。先ほどのフェンの言葉ではないが、どうも彼女の前だとペースが崩されてしまう。


「ラディム、あの魔道士にやられたのか」


 ラディムの掌を見ながらフェンが不安そうに尋ねるが、ラディムは左手を軽くパタパタと振って答える。


「いや、やられたって、そんな大げさなものじゃねえよ」

「して、あの魔道士は?」

「……申し訳ありません」


 ノルベルトの言葉に反応したのは、オデルだった。その一言で察したノルベルトは眉間に皺を寄せ、思案する。


「ムー大陸の魔道士、か……。私に何の躊躇いもなく魔法を撃った。かなり危険な存在であるな……」


 ベッドの上で手を顎に当てしばらく考えた後、ノルベルトはオデルへと視線を投げる。


「オデル王子、あの魔道士の処遇は、こちらで決めても良いだろうか?」

「はい、問題ありません。このような事態を招いてしまい、何と申したら良いか……」


 オデルは今にも泣き出してしまいそうな表情をしたまま、うな垂れる。


「そなたも、あの女性がムー大陸の魔道士などと知らなかったのであろう。私のことは気に病まなくとも良い」


 ノルベルトはオデルに気遣い、優しく微笑む。オデルは顔を上げた後、小さくノルベルトに一礼する。それを見届けたノルベルトは、一転して凛とした表情を作り、今度はフェンへと顔を向けた。


「フェン、直ちに他の兵士たちに伝えよ。彼女を捕らえよ、とな。だが彼女の力は未知数だ。危険を感じたら、生かしたままでくとも良い」

「はっ!」


 フェンはノルベルトに敬礼すると、素早い足取りで医務室を後にした。フェンの後ろ姿を見届けたノルベルトは、今度はフライアらを流し見る。


「お前たちは、しばらく休んでおれ」

「でも……」

「フライア、封印の魔法を一人で使ったのだろう?」


 ノルベルトに諭すように問われたフライアは、視線を逸らし、無言で頷く。


「ならば、すぐに身体を休めるのだ。封印の魔法にどれほど体力を奪われてしまったのか、自身が一番理解しているはずだ」

「……はい」


 フライアは項垂うなだれ、力なく返事をすることしかできない。


「あの魔法、そんなに大掛かりなものだったのか」

「そうだ。フライアの身体の機能を損なうことなく、保管しなければならぬからな」

「なるほど……」


 呟くラディム。ノルベルトはさらに続ける。


「それにフライアは、普段鍛えているお前とは違って、元々の体力も低い。だから私は魔法道具を装備して、フライアの魔法発動の補助をしたのだが……」


 その後はお前たちの見た通りだ、とノルベルトは肩をすくめた。


「さあ、すぐ部屋に帰りなさい。私のことは心配せずとも大丈夫だ」

「あら、まだラディム君の手当て、終わっていないですよ」


 イアラはノルベルトにそう言うと、両手でラディムの掌をそっと包み込んだ。たちまち彼女の両手は、柔らかな光に包まれる。ラディムの掌の火傷はみるみるうちに消えていき、本来の肌の色を取り戻す。

 その様子を口をポカンと開けたまま見ていたオデルに、イアラはようやく気付いた。


「あらあら、そういえばそちらのカエルさんは初めましてですね。私は城の専属医のイアラです。こう見えても混蟲メクスなのよ」

「……あ。僕はオデルと申します……」


 少し呆けながら自己紹介をするオデルに、ラディムは顔色を伺いながら気まずそうに言葉を発した。


「あのさ、黙ってて悪かったけどよ……。俺たち混蟲メクスは――」

「魔法が使える、ということだね?」


 確認するように聞くオデルに、ラディムは目を伏せながら頷いた。

 身体を貫通するような怪我を負いながらも、ノルベルトが既に通常の会話ができるほどまでに回復しているのも、イアラの治癒魔法の功労であったのだ。

 オデルは納得したように頷くと、神妙な面持ちで腕を組む。


「君たち混蟲メクスが忌み嫌われる理由――。それは姿だけではなく、魔法が使える、ということも関係していそうだね」

「その通りだ」


 ノルベルトがオデルの予想を、静かに肯定した。

 この国の『人間』というのは、『混蟲ではなくなった者』のことだ。

 混蟲ではなくなり、どういうわけか魔法を使えなくなった人間たちは、混蟲が魔法によって主導権を握ることを恐れたのだ。だから『混蟲』などと言う俗称を与え、まず精神的に人間が優位に立つように仕向けた。そして何時いつしか、立場的にも優位に立つことに成功したのだ。


「恥ずかしながら、私も昔は未知の力を使う混蟲に対し、畏怖の念を抱いていた。だが、娘がこの姿になって初めて気付いたのだ。混蟲も、我々人間と何ら変わりはないのだと。少しだけ虫の姿が混ざっていて、自分の意思とは関係なく魔法が使えてしまう。大きな違いだと思っていたのは、『その程度』のことだったのだ」

「お父様……」


 ノルベルトはどこか遠くを見つめていたが、やがて何かを思い出したかのようにオデルへと顔を向ける。


「オデル王子。国に帰られても、我らの魔法のことは、どうか他言無用でお願いしたい」

「承知いたしました」


 切に懇願するノルベルトに、オデルははっきりとした口調で答えたのだった。

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