第2話 海色の翅
植物を模した柄が掘られた、木製の扉。そこにぶら下がる、金具でできたノッカーをラディムはコンコンと二回軽く打つ。
「俺だ、入るぞ」
緊急事態ゆえに中からの返事を聞かず、言うや否やラディムは足早に室内へと入った。柔らかな白の絨毯が、優しく彼の足を出迎える。
「あ、ラディムおはよう」
無礼を咎めることなく、鈴を転がしたような声が彼の名を呼んだ。
声の主の名はこの国の王女、フライアだ。どうやら彼女は読書中だったらしい。読みかけのページを開いたまま、本を一旦小さな机に置く。そして肩まで伸びた艶やかな紫紺の髪を揺らし、椅子から立ち上がった。
「――ん」
小柄な少女の姿を確認した後、ラディムは少し頬を紅潮させ、すぐさま視線を横に落とす。
背中の部分が大きく開いた、まるでネグリジェのような――ひらひらとした薄いワンピースを彼女が身に着けていたからである。
歳相応の
(何年見てもやっぱ慣れん。目のやり場に困るんだよなぁ、この格好……。いや、嬉しいんだけれども)
王女らしからぬ格好に、健全な十代男子であるラディムが困惑するのも仕方がない。だが、フライアがこのような格好をしているのには理由があった。
それは彼女の背中から生える、大きく美しい『蝶の
翅全体は、透明度の高い海を彷彿とさせる、鮮やかな青色。そして翅の根元から血管のように伸びるその模様は、上品な銀色に輝いていた。翅はフライアの呼吸に合わせ、静かに開閉運動を繰り返している。まるで花の蜜を吸う時の、本物の蝶の如く。
この大きな翅のせいで、彼女は王女としてのドレスどころか、普通の服すら着ることができないのだ。
「あ。今日はお母様のお墓に、新しいお花を供えに行く日だったよね。すぐに支度するから待っててね」
ラディムの心の内など露知らず、明るく言いながらクローゼットへと向かうフライア。紫紺の毛先が彼女の心を代弁するかのように、嬉しそうに肩をすべる。
そんなフライアを見ながら、思わずラディムは困惑した表情を浮かべた。どうやら王の命令はまだ彼女の耳に届いていないらしい。城の中はかなり混乱しているな、とラディムは先ほどの城内の様子を思い返す。
「それなんだが、今すぐには無理になったんだ」
「え? どうして?」
「外の国から人が来たらしい。だから王の命令があるまで、部屋から一歩も出るな、だと」
ラディムは先ほど自分が聞いたことをそのまま伝える。支度の手を止めたフライアの薄い赤の瞳が、そこで大きくなった。
「外の国って!? 本当?」
ラディムは無言で頷いた。
「そっか……」
フライアは小さく呟いた後、クローゼットの横にある巨大な姿見の前に立つ。
「外の国からのお客さんか。それなら仕方がないね……」
鏡に映る自分の
――彼女を部屋から出すな。
その命令の意図を、ラディムは瞬時に理解していた。
どう見ても普通の人間ではないフライアと、彼女の護衛である自分の存在を隠すためだということを。
少し寂しげな彼女の姿を後ろから眺めながら、ラディムは痒くもない頬を指で掻き、静かに口を開く。
「えっと、大丈夫だ。外から来たのは良い奴だ……たぶん。だから命令もすぐ解除されるさ、きっと」
何の根拠もない、希望だらけな台詞であったが、彼なりにフライアを励まそうとしての言葉だった。フライアが自分の容姿を気にして落ち込むのが、何だか嫌だったのだ。そんな彼の心遣いを瞬時に汲み取ったフライアは、微笑みで彼に答えた。
「うん、ありがとう。今はとにかく待つしかないよね。よし、それじゃあ一緒に紅茶でも飲もうか!」
空元気も元気のうち、と言わんばかりにフライアは両手を合わせ、陽気に言い放つ。しかし、ラディムは彼女の提案に眉を下げるばかりだった。
「そういや俺、朝飯食っていなかった」
「え、そうなの? でもどうしよう。この部屋には他に食べる物はないし……」
キョロキョロと部屋の中を見回すフライア。ラディムは内心、しまったと焦っていた。彼女のことだから、部屋をこっそりと抜け出して彼のために食べ物を持ってきかねない。
フライアは人の話を真剣に聞きつつ、テーブルの上の小さな埃にまで気を配るようなタイプなのだ。ラディムの空腹を知った以上、間違いなく動くだろうと考えた彼は、語気を強めて拒否の意思を示した。
「紅茶を飲めば大丈夫だっ」
「でも、いつ軟禁の命令が解除されるのかわからないし……」
「いや。今は無闇に外に出ると危険だ。そのかわり、いっぱい飲むから」
「……わかった。それじゃあラディムのためにたくさん作るね」
微笑し、フライアは早速紅茶を
「ああっ!? 栞を挟むの忘れてた!」
慌ててパラパラとページを捲るが、読み進めていた箇所はなかなか見つからないらしく、彼女の手は右へ左へとページを行き来する。そんなフライアの抜けた行動に、ラディムは軽く噴き出してしまった。
「あっ、笑うなんて酷い」
そう言いつつも、フライアの顔にも次第に笑みが広がっていく。そして終いには、二人で声を出して笑い合っていた。
※ ※ ※
陽の光がほんの僅かしか届かない、深い、深い森の中。
一人の男が
男は、狩人だった。狩人の
「参ったな。深追いし過ぎた」
ポツリと、一人小さく呟く。
昨日は散々な成果だったので今日は何としてでも仕留めたかったのだが、その気持ちが空回りしてしまった。執念深く獲物を追ったは良いものの結局撒かれてしまい、気付いた時には森の奥まで来てしまっていたのだ。
街では『人喰い森』と呼ばれている、その森の奥深くに。
街の子供たちは悪さをすると、「人喰い森に連れて行くよ」と大人たちに言われていた。だが、本当に森が人を喰ってしまうという意味ではない。森の中に人を喰らう化け物が住み着いているから、そう呼ばれてきたらしい。
しかしその化け物の話は、子供をおとなしく従わせるために大人が作り出したものだったのだと、狩人は自身が大人になってから察した。事実、狩人は何度もこの森で狩りをしているが、化け物など見たことがなかった。大方、化け物の正体は虎や熊といった大型動物なのであろう。
狩人はそんなことを考えながら真っ直ぐと進んで行くが、同じ種類の木がひたすら並んでいるせいか、いくら進んでも進んでいない気がした。
ギャギャギャ、と低い鳥の声が不気味に響く。狩人は、突然そこで足を止めた。
「……?」
鳥の声に驚いたから、ではない。視界の端の方に、何か違和感を覚えたのだ。男は、その違和感のする方へ目を凝らした。
見えるのは、木の幹の茶色。その茶色の中に、明らかに質の違う茶色があった。色で言うならば、焦げ茶色と言ったところだろうか。狩人はその焦げ茶色を目指し、足早に進んだ。
「あれは――!」
少し進んだ所で声を上げる。狩人の足はそれに向かって自然に走り出していた。
「小屋だ!」
思わず歓喜の声が漏れた。小屋があるということは、人がいるということだ。あそこの住人に聞けば、何とか街まで戻れるかもしれない。
だが小屋に近付く間、ふと狩人は思った。この人里離れた薄暗い森の中にわざわざ住んでいる人間。何か深い理由があるのではないのかと。
そんな思案は、小屋の目前まで来るとすぐに吹き飛んでしまった。小屋の窓は白く曇り、枠には蜘蛛の巣がいくつも張られていたのだ。
木製の壁と屋根の一部分は朽ちて剥がれ落ち、無残な姿を晒している。壁に開いた隙間からは、小さな黒い虫が出入りしていた。人が住んでいるのなら、ここまで荒廃はしないだろう。
狩人は落胆したが、すぐに気を取り直した。小屋の中に、もしかしたら何か役に立つ物があるかもしれない――。
そう前向きに考え、小屋を調べるため入り口へと回った。
入り口もまた蜘蛛の巣がたくさん張られていたが、弓の先で軽く払いのける。臆することなくドアの取っ手を握り締め、回した。
鍵は、かかっていなかった。そのまま扉を押すと、年月を感じさせる軋む音が響いた。ひんやりと、湿気た空気が狩人の全身を舐める。中を見た狩人は思わず一瞬息を止めた。
無残な外観とは裏腹に、室内は荒らされた形跡も、雨漏りでかびた様子もない。中は比較的、綺麗な状態を保っていたのだ。
いや、綺麗と言うには
埃に圧倒されつつも、狩人は室内を見回す。そして、薄暗い室内の正面で視線が止まった。
狩人の目に飛び込んで来たのは、壁に貼られた大きな紙。目を凝らしそれを見た狩人は、思わず声を上げた。
「地図だ!」
声を上げると同時に、狩人は地図に向かい駆けていた。埃の積もった白い床に、狩人の靴跡が刻まれる。しかし駆けたせいで風が起こり、室内の埃が舞い上がる。思わず狩人は咳き込み、涙目で地図を見る破目になってしまった。
地図は手描きで、中心はこの小屋だった。恐らくここの住人が描いたのだろう。だが、街の位置や森の形は、狩人が知るものとは若干異なっていた。街の大きさから推測するに、この地図が描かれたのはかなり昔なのだろう。この小屋の荒廃具合を考慮すれば、それも納得いった。
狩人は、その地図を食い入るように見つめた。そして端の方に小さな字が添えられているのを見つける。『小屋の入り口、東』と、そう書いてあった。方角さえわかっていなかったのだからこれは大きな収穫だ。思わず笑みがこぼれる。
「街は小屋を出て南西の方角か。……こんな奥まった所まで来てしまっていたのか」
木の実の取れる位置が事細かに描かれた、妙に精巧な地図を見ながら、改めて自分の不注意を悔いる。
街に帰れる目処が立ったところで、狩人はようやく室内全体を気にかける余裕ができた。
テーブルに椅子、煉瓦作りの暖炉、本棚に食器棚――。
そこに在る物は、デザインこそ古さを感じさせるものの、今の時代の民家にある物となんら変わりはなかった。
そこでテーブルの上に乱雑に置かれていた、一冊の本とペンに目を奪われる。狩人は埃で白くなったテーブルの上に弓を置き、本に積もった埃を払いのけ、手に取った。
表紙にはタイトルも著者名もない。表紙を捲ると、直筆の文字でびっしりと何かが書かれていた。最初の行の日付を見て、あぁ、これは日記帳なのだと、狩人はそこで始めて理解した。他人の日記を読むのは些か気が引けたが、だが好奇心には勝てなかった。ここの住人が――あの地図を書いた人物がどのようにして暮らしていたのか、無性に気になったのだ。
羅列されている文字に目を落とす。
最初は表情無く読み進めていた狩人だったが、突然その目が見開かれた。ページを捲り始める手が次第に早くなる。日記を持つ手は小刻みに震え、額からはどっと汗が噴き出し始めていた。
「これは……」
搾り出したその声も震えていた。
「とんでもない物を、見つけたかもしれない」
愕然と呟き、そして立ち竦む。
狩人はふと思った。
『人喰い森の化け物』の話の元になったのは、
※ ※ ※
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