宝石の目と海の翅

福山陽士

第1章 古の魔道士編

第1話 来訪者


 模様も装飾もない、無機質な白いドアの前。

 眼鏡をかけた青年はドアにもたれかかりながら、顎に手を置いた状態で佇んでいた。髪と同色の群青色の瞳は、上の空間を見つめたまま動かない。彼の視線の先には、青の絵の具を溶かしたような空が、ガラスの天井越しに広がっていた。

 手を伸ばせば届いてしまうのではと錯覚してしまうほど、空は近い。青年が思わず腕を上げそうになった、その時だった。

 こつこつこつ。

 回廊の向こう側から、小気味良いリズムの足音が青年に近付いて来る。青年は足音の主の顔を確認すると瞬時に人懐こい笑顔を作り、話しかけた。


「ちょうど良い所に。ちょっと訊きたいことがあるのですが」

「いきなり何? またメルヘンチックな詩でも思い付いたの? 悪いけど、あなたの趣味に付き合っている暇はないのだけれど」


 呼び止められたのは、見た目二十歳前後の紺色の髪を持つ女性。青年と知り合いらしいその女性は、眉間に皺を寄せながら鬱陶うっとうしいと言わんばかりの口調で答えた。


「まぁまぁ。今日は時間は取らせないから付き合ってください。では早速お尋ねします。思慕、友情、親愛、愛情、尊敬、賞賛。この言葉の中から、一つだけ選んで欲しいのですよ」


 女性の抗議の声を強引に捻じ伏せ、すかさず質問を投げかける青年。女性の眉間に刻まれていた皺は青年の言葉を聞いたあと、さらに深くなる。


「え。思慕、友情に……何?」

「思慕、友情、親愛、愛情、尊敬、賞賛、です」

「本当に、選ぶだけ?」

「ええ。だから時間は取らせないと言っているじゃないですか」

「何でまた、こんなの選ばすのよ?」

「いや、ちょっと今の研究の締めに悩んでまして。どれがドラマチックかなぁと」

「締め? よくわからないけど、まぁいいわ。そうね……」


 女性はしばらく悩んだのち選んだ単語を言うと、彼の反応を待たず足早に去って行った。


「まさかあなたが『それ』を選ぶとは。しかし、参考になりました」


 青年は彼女の背中を見送りながら小さく呟き、そして微笑んだ。




   ※ ※ ※




 その日も、いつもと変わらない穏やかで退屈な日が来るはずだった。だからこそ、彼は寝ていたのだ。

 大小様々な木々が鬱蒼うっそうと茂っている、海に面した崖の上。海を望むようにそびえ立つ、その緑達の中でも一回り大きな樹の根元で、一人の少年が昼寝をしていた。といっても、時間はまだ朝を過ぎたばかりであるが。

 爽やかな海風が木々を揺らし、少年の明るい黄色の髪も揺らす。あどけなさと大人らしさが入り混じった十代後半特有の顔立ちの、長身の少年。服の袖から覗くしなやかな腕の筋肉が、彼が普通の少年ではないことを物語っている。さらに彼の両こめかみ辺りに付いている、拳ほどの大きさをした『半球体の透明な物体』が、彼の印象をより不可思議なものへと変えていた。

 長身の少年は夢の真っ只中にいるらしく、時おり言葉になっていない呻き声のようなものを発していた。

 その彼の足が、突然ビクリと痙攣する。間もなく、少年の両の瞼の下からコバルトブルーの目が現れた。


「……あぁ、夢か」


 夢の世界での運動が現実にリンクしたことで、彼の浅い睡眠は終わりを遂げた。

 胡坐あぐらを掻き、少年は眼下の景色をぼんやりと眺める。小さな白波が無数に立つ、穏やかな海。どこまでも広がる、瑠璃色の海。規則正しく、時に不規則なリズムを打つ波の音が、意図せず彼の耳を通り抜けていく。

 寝起き特有の気だるい感覚を振り払うように、少年はそこで伸びをした。

 彼は毎朝、この場所で時間を潰してから『仕事』に向かっている。ここは誰にも見つかることのない、彼の秘密の場所。他人の目を気にすることなく、一人になれる場所――。ここに来て遥か遠方まで続く海原を見れば、溜まっていた胸のモヤモヤもリセットすることができるのだ。

 いつか、『彼女』もここに――。

 考えたところで、少年は慌てて頭を左右に振った。


「何考えてんだよ俺」


 気恥ずかしくなった心を誤魔化すため、少年は声に出して否定する。タイミング良く小鳥がわらうようにさえずり、彼の頭上の樹から飛び立った。

 鳥に馬鹿にされたような気分になった少年は、憤然とした面持ちで視線を右に移動させる。そこで崖から少し離れた場所に、巨大な木製の船が泊まっているのを見つけた。


「んっ?」


 見慣れない物に興味を引かれた彼は、持ち前の視力の良さを生かすべく、まじまじと船の観察を始める。

 一体、何人の人間を運ぶことができるのであろうか。非常に大きな船は、堂々たる姿を晒し続けている。船首には水瓶を持った美女の像が備え付けられ、船の帆には円をモチーフにした紋様のような物が描かれている。あらゆる金具には金が使われているらしく、時おり日の光をチラチラと反射していて眩しい。


「おお、凄い船だなぁ」


 彼は物語の中でしか見たことのない、豪華絢爛と言わんばかりの船に、感嘆の声を漏らした。


「――って、船!?」


 自分の言葉に自分でびっくりした後、少年は飛び跳ねるようにして起き上がった。

 周囲を断崖絶壁で囲まれたこの国は、そもそもあんな大きな船は所有していない。他所の国から来たものであることは明白だ。


「もし、あの船の連中の目的が、侵略や略奪だったら……」


 脳裏に浮かんだ不吉な未来を振り払うかのように、少年は頭を振った。

 そして、彼はもう一度船を見る。今度は目を凝らし、じっくりと。

 かなり大きな船だが、船上には二人の人影しかない。船の周りの海上には小型の舟が二艘浮かんでいて、それぞれ三人ずつ乗っていた。

 どの人間も、目に見える武器は何も所有していない。とりあえず大掛かりな侵略や略奪の可能性は、あまり高くなさそうだ。

 しかし、少年の中に湧き上がる新たな疑念。彼は船について特別知識を持っているわけではなかったが、それでもあの大きな船を動かすには、人員が到底足りていないということは、直感で理解した。


「人が少ない。まさか――」


 おそるおそる崖へ近づき、下を覗き込む。

 そのまさかだった。

 崖下の海に、小型舟が何艘もあったのだ。

 岩に小型舟をロープで固定し、そこから岩場へ飛び移って行く数人の人影。そして既に、数十人の人間が慎重に、でも確実に、縄やボルトを駆使して崖をよじ登っていた。高所恐怖症の人間が見たら、卒倒してもおかしくないこの高さの崖を。


「嘘だろ!? ここを……この高さを登って来るとか!」


 この国は断崖絶壁の上にあるうえに、しかも島国だ。確かに『崖を登る』しか上陸の選択肢はないのだが、こんなに大人数で訪れた人間など、彼は今までに聞いたことがなかった。そして崖を登る集団の先頭にいた『人物』は、あまりにも異様な風貌をしていた。


「何だありゃ!? カエル!?」


 大きなカエルの頭をした『人物』は、他の人間が疲労で顔を歪める中、悠々と登って来る。

 そのカエルと目が合ってしまった。

 少年は思わず後退りをして、視界から即座に消す。


「な、何なんだよあのカエル……。魔物? と、とにかく知らせないと!」


 我に返った彼は勢いよくきびすを返し、森の中へと駆け出した。

 厄介なことになりませんように――。

 少年は走りながら、明日の朝もこの場所で昼寝ができることを切に祈るのだった。







 黄み掛かった白い石を積み上げられて造られた、鳥が羽を広げたような構造の城。外側は雄大な雰囲気を醸し出しているが、中は壮美な建築と装飾で彩られている。

 城のエントランスの左右に並ぶのは、六角形に削られた白く太い柱。その右側には、緑溢れる中庭が広がっていた。

 いつも朝のこの時間は、中庭の木々で遊ぶ小鳥の囀りが聞こえてくるはずなのだが、今日は声どころか気配さえ微塵も感じられない。代わりに先ほどから城内を支配しているのは、慌しい無数の足音だ。先ほど船を発見した長身の少年も、その足音の主の一人だった。

 場内を駆けていた兵士の一人が少年の姿を見つけ、焦燥感をまといながら近付いていく。


「ラディム! ここにいたのか!」


 鉄の胸当てに身を包んだ兵士の呼びかけに、ラディムと呼ばれた少年は足を止め、振り返る。


「おっさん!」

「誰がおっさんだ誰が! 俺はまだ三十だぞ!」


 兵士はラディムの言葉に敏感に反応し、抗議の声を上げた。


「いや、十分すぎるほどにおっさんじゃんか……。で、何?」


 兵士はまだ何か言いたそうだったが、すぐに緊迫した表情に戻る。


「王からのご命令だ。指示があるまで、フライア様を絶対に部屋から出すな、とのことだ」

「……わかった」


 兵士に小さく頷くと、ラディムは再び城内を駆け出した。

 朝、『外の国』から人がやって来るのを偶然目撃したラディムは、真っ先に彼の勤務先である城へと戻り、王に報告したのだ。

『外の国』からの来訪者――。

 彼の報告に、謁見の間はたちまち異様な雰囲気に包まれた。続けて、敵か味方かはまだわからないが、武装はしていなかった――と報告すると、幾分かはその雰囲気も和らいだが。しかし、ラディムは一つ報告をしていないことがあった。それは、あのカエルのような人物のこと。

 その地形ゆえ、彼が知る限り今まで外の国から人がやって来たことはない。それだけでも重大なしらせなのに、さらにあのカエルのことまで同時に報告すると、この場はさらに混乱してしまうと考えたからだ。

 ――俺が見たのは、大きな船と上陸しようとする人間だけだ――。

 事実は伝えた。悪いことは何もしていない。そう自分に言い聞かせる。

 高い天井に彫られているのは、大きな円を基盤とした見事な模様。ラディムはコバルトブルーの眼で一瞬だけそれらを仰ぎ見る。いつもと変わらぬ天井を見ると、少しだけ気分が落ち着いた気がした。


「ま、どうせあのカエルもいずれここにやって来るだろう」


 あのカエルが何者なのかは、カエル自身が自己紹介をするだろう。人間の言葉が通じればの話だが。

 楽観的に考え、ラディムは『仕事先』へと向かうのだった。

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