第5話 管理AIと共感派

 目を覚ますと、家全体に静寂さを感じた。昨夜、父は帰宅していないようだった。そういえば、しばらく家を空けると言っていた。父の専門は、流体力学や航空力学、波動力学といったもので、兵器開発に直接に関わるものだ。ヴォイドの攻勢が激しさを増すにつれ、父も忙しくなっているのだろう。大学で研究を続けている自分は、世間一般に比べ、戦争による変化を実感しにくいのかもしれない。


 覚醒するにつれ、昨夜のことを思い出す。


 八巻瑠奈、彼女が見せた涙。

 彼女も軍属らしい、やはり戦争が激化するにつれて、忙しさや苦しさを増すのは同じなのだろう。ひょっとしたら彼女の親族や同僚、知人が軍人で、戦死などということもあったのかもしれない。積もり積もった感情が溢れ、昨夜公園で一人泣いていたのだろうか。


 私は、自分が彼女の涙に動揺し、気の利いた台詞や慰めをできなかったことに複雑な感情を持つ。研究一筋で、人付き合いが多くなく、女性経験も多くない自分がいかに未熟か思い知らされた。まだ短い期間の付き合いだが、彼女と関わることで学ばされることが多い。ああいう時に、女性慣れした貴彦や大なら違う言葉がかけられたのだろうか。


「おはようございます、市民の皆さん。朝のニュースです。昨夜、太陽系外の防衛ラインにおいて、多数のヴォイドが侵攻、史上空前の大規模戦闘が起きました。統和軍は詳細不明なほどの多大な損害を被り、撤退戦に移行。殿軍を引き受け、遅滞戦術を務めていた艦隊では、ガ級戦艦2隻が撃墜されたとのことです。その結果、軍上層部は新たな作戦の展開を含め、防衛ラインを太陽系内へと後退することを決定しました。依然、我々人類は苦しい状況に面しているといえるでしょう。ひとりひとりの貢献、協力が求められます。統和軍への参加、寄付の募集は下記にて受け付けております、市民の皆様のご協力をお願い致します。」



 ニュースを流し見しながら、朝食をとるのはいつものことだ。自分ではあまり肌に感じていなかったが、人類の戦況はどんどん悪くなっているのだ。こうして食べている、AI推奨の簡易朝食、食パン大の固形食が、いつも以上に無味乾燥なものに感じた。現状ではまだ配給制にはなっていないが、いずれそうなるだろう。管理AIがそう判断する日も遠くない。


『管理AI:プロメテウス』

 人類に知性を授け、火を教えたとされる神話上の神の名を冠するAI。

 火を操り、知性を得て、その世界を広げた人類。

 産業革命を経て、その消費社会を拡張し続けた人類。

 ついには自身を超える知能を持つAIという神を作り、それに統治を預けた。


 そのおかげで、宇宙へと飛び出した後も人類は特別な苦難を経ることなく、順調に生息圏を伸ばすことに成功した。この繁栄は留まることを知らないようだった。


 しかし、その結末こそがヴォイドとの邂逅だった。このプロメテウスがもたらした火は人類にとって繁栄の礎だったのか、はたまた滅亡の兆しだったのか。


 プロメテウスの管理する社会は、過去に物語などで考えられたような非人間的な管理社会ではなく、穏やかで緩やかなものではあった。プロメテウスは個人、企業、政府、すべてを監視、問題を発掘分析、解決策を提言し、その実行の判断は人類が下す。しかし、その提言が拒否されることは滅多になく、実質AIが統治している社会といえた。


 だが、AIによる最適の提案であっても、人は自分の環境や人生に悩む。どのような存在が統治する世界であろうと、苦しむ人がおり、世の中に歪みは存在してしまう。


――――――――――――――――――――――


だからこそ、私は世の中を理解して、その歪さすら理解しようと思った。


――――――――――――――――――――――




「ごちそうさま」


 誰も返事をしない食卓で、私はひとりごち、食器を片付ける。世間がどのような状況になろうと、結局私のやれることは研究しかない。母を殺したヴォイドに憎しみよりも、疑問が浮かんだ私だ。

父やその他近しい人が苦しむようなことはあってほしくないが、人類が負けることになるなどありえないと思っていたし、どこか他人事に感じていたのだろう。



 出掛けるには少し早い時間だが、八巻瑠奈と会う約束がある。自宅を出ると、世間に蔓延する重苦しい雰囲気に、少し気分が重くなるが、八巻瑠奈と会う約束は、私に期待感を抱かせる。私は、この重苦しい状況にあっても、感情豊かに、明るく、時に涙を見せる、八巻瑠奈に確かに惹かれていた。


 居住区を抜け中央区へと向かう、軍事区隣接の公園の中に入ると、遠目にもよくわかる、ベンチに座る小柄な女性のシルエットが見えた。


「八巻さん、おはようございます。」


「今日は少し早いんですね、小笠原さん。」


「八巻さんと約束がありましたので。」


「ふふっ、有難うございます。昨日はお恥ずかしい姿をお見せしました。」


 昨日のあの弱々しい面影はなく、すっかりと明るい、いつもの彼女だった。


「でも、約束は守ってもらいますね。トリプルアイス、密かな夢だったのです。」


「大丈夫です、何よりもコンプリートの約束もありましたしね。味、3つ選べますか?」


「うーん、なかなかに迷いますね……。こうするのはどうでしょうか、私がひとつ選びます、小笠原さんもひとつ選んでください。そして、最後は店長さんのおすすめにしましょう。お互いのセンスの見せどころですよ!」


「センスか……、困ったな。まあでも、チョコミントよりは良いものを選べそうですね。」


「ぐ……、それを持ち出しますか……。おいしいんですけどね……。」


 彼女は大げさに、不貞腐れたような表情を作り、すぐさま大きくうなだれる。感情の振れを表情がよく表しており、ボディランゲージがよく伴っていた。


「嬢ちゃんたち、いちゃつくのもいいけど、早く選びなよ。ちなみに俺のオススメはこのクッキークリームだ。」


 アイスクリーム屋の店主が、販売用車両のカウンターで肘をつきながら、私たちのやり取りを冷やかす。アイスクリーム屋には似合わない毛むくじゃらの腕だが、気質や能力は適性があるのだろう。これもAIの下した判断だった。結局、私たちは、ポッピングシャワー、抹茶、クッキークリームのトリプルアイスを注文した。


「この、ポッピングシャワー?面白い食感ですね。八巻さんは変わったものを好むんですね。」


「美味しくないですか!?このパチパチ感、ミントの爽快感に勝るとも劣らぬ出来だと思うのですが!」


「う、うーむ、チョコミントを30点とするなら、これは50点ぐらいかな……。」


「……、辛口ですね……。小笠原さんの選んだ抹茶は90点です!濃厚さがおいしい!」


 ひとしきりお互いの注文した味を批評したあと、口直しがほしくなり、私は自動販売機へと向かった。

 やはり八巻瑠奈は不思議な人物だ。大人の振る舞いをしながら、見た目だけでなく、どこか少女らしさを残す。他人を尊重する振る舞いで、決して礼儀を欠くことはないが、子供のようにはしゃぐ、その感情表現の豊かさや物事の楽しみ方、そんなところに魅力を感じる。


「お待たせしました。八巻さんは水でよかったんですか?」


 私は八巻瑠奈の座るベンチに腰掛けながら言う。


「はい、お茶が好きなんですけど、カフェイン類を摂取するのはちょっと……。」


 少し、彼女の表情に、影が差したようにも感じた。昨夜のこともある、何か嫌なことでも頭によぎったのだろうか、そんな彼女の不安を取り払いたいと思い、私は言葉を続けた。


「まだ、そんなに多くの時間話したわけじゃないのですけど、すっかりとアイス同盟になってしまいましたね。」


 アイス同盟、自分で名付けておきながらこれはいい響きだった。偶然がきっかけで出会った二人が、何か秘密を共有している。そんな印象を与えるものだと思った。


「そうですね!楽しいものです。そうだ、同盟の間柄で、お互いを苗字にさん付けで呼ぶのも違和感があります。今後は、修司君と呼んでもいいですか。」


「どうぞどうぞ。ですが、八巻さんは僕よりも年上なので、僕は八巻さんのことを瑠奈さんと呼んでもいいですか。」


「はい、名前が気に入ってるので、名前で呼んでくださる方がうれしいです。」


 自惚れかもしれないが、お互いに惹かれあっているように感じた。彼女がどういう気持ちで、この同盟関係を捉えていたかはわからない。名前で呼び合うことで距離感が縮まったように錯覚させられたのかもしれない。それでも、嬉しさが私を満たしていた。


―――――――――――――――――――――


瑠奈に対しての期待感が私をどんどんと満たし、世界の情勢を忘れさせるものとなっていた。


―――――――――――――――――――――


「今日は本当に有難うございました。昨日、あんな醜態を晒してしまって、お恥ずかしい限りです。

今日はこれで休憩時間が終わってしまいますが、またアイス一緒に食べましょう。」


「はい、楽しみにしています。瑠奈さんもお気をつけて。」


「またね、修司君。」


 少し寂しそうな顔を作り、さりげなくその表情を見せる。愛想の一種なのだろうが、男心の上手な惹きよせ方だ。そして、その後わずかに辛そうな顔を見せた。後者は、愛想ではなく、本心が垣間見えたように思った。


 楽しい時間を終え、自分は自分のやるべきことを十分にこなさなければならない。瑠奈も、仕事に苦しみつつ、その職務を全うしようとしているのだろう。比較的、余裕のある自分が、周囲の声に負けている場合じゃないと考え、私は研究室へと向かった。ひとつの決心をしてのことだった。


「教授、いらっしゃいますか?」


「修司、論文を進めているのか?」


「はい、決めました。論文をこのまま進めて、発表まで漕ぎ着けられたらと思います。」


「そうか……、発表もするつもりか。」


 私の論文の発表という決心に、教授はやはり少し戸惑っていたが、私の意志が固いと見るや否や、教授も私が吹っ切れたことをよく理解したらしい。協力の意志をより固めたのだろう。教授は一度決めると、その瞳には力強さが宿り、揺らぐことはなかった。


「昨日も言ったが、私も出来る限り協力する。……じゃあ、さっそく問題点を洗い出していこう。」


 一通り、今出せる疑問点や問題点をお互いで議論した後、恒例のティータイムとなる。今日の茶菓子は、あんまきだ。疲れた脳にはこの甘さが好ましい。私は今朝のニュースを思い出し、世間話がてらヴォイド戦線を話題に出す。


「そういえば、教授。先日、知り合いに軍属の方がいるとお聞きしましたが、今やはり人類の状況はかなり悪いのですか。」


「うむ。……ニュース報道では、ガ級二艦の撃墜としか報道してはいない。これは嘘じゃないが、必要分の報道であって、十分な報道じゃない。実態として、ガ級戦艦に搭載してあった、対ヴォイド用戦闘機は数百機落とされているようだ。」


 教授は一口あんまきを齧り、コーヒーを口に含む、一息ついて続きを述べた。


「君の父君は、技研の新型の対ヴォイド用戦闘機開発にも関わっているだろう?現行のウェーヴやフォースでは徐々に対抗しきれなくなっていて、より有力な新型をそれぞれ開発していると聞いている。知人も昼夜問わず、懸命に開発に勤しんでいるようだ。」


 教授はそんなことまで知っているのか、父の勤務先まで知っていることに驚いた。軍属の知人というのはどうやら軍でも相当に権限のある人物に違いない。


「どうも、その中にな、共感派の反感を得るものがあったらしく、先日の騒動というわけだ。」


 そういえば、先日の轟音に対して、私の周囲の人間はそれぞれ違った解釈を話していた。それぞれの立場からくる理解の違いか、情報の違いか。私にとっては、他人事であり、強い関心を寄せてはいなかったが、どうもあれは大きな事件であったようだ。他者から得た情報を簡単に話すわけにもいかず、当たりの障りのない言葉を返してしまう。


「それは、軍属の人間は忙しさがとてつもなさそうですね。」


 自分でこの発言をして、軍属に思い当たる人間が父、貴彦、瑠奈と出てくる。瑠奈が泣いていたのは仕事が辛かったからだと言っていた。私が遠い目をして、やはり瑠奈もそうであるのかと思いやっていると、教授は言葉をつづけた。


「父君のことを心配しているなら、時間のある時にでもゆっくり話してやることが一番だ。

我々は時間に猶予がある職務だが、忙しい人間というのはゆったりとした時間が癒しになることも多いと聞く。」


 教授は私が父の事を気遣っていると勘違いしたらしい。もちろん忙しい父の身を案じないわけではないが、あの父と安穏と交流は難しいように思う。だが、教授の言葉を無下にするわけにもいかない。


「そんなもんですか、父があまり話すタイプには思えない気もしますけど、今度父とゆっくり話す機会でも設けてみようと思います。有難うございます。」


 そうこうしているうちに、教授はまた再び人に会う約束があると言って、研究室を後にした。例の軍属の知人だろうか、戦況の悪化が着実に教授の日常にも影響していた。


―――――――――――――――


教授はいつも私を良い方向に導こうとしていてくれたように思う。

これ以上の師弟関係はなかった。私は師に何かを返せていただろうか。


―――――――――――――――


『波動兵器:ウェーヴ』

 フォースと比べ、対の兵器たる対ヴォイド用兵器。

 実粒子と虚粒子の研究が進展するにつれ、ヴォイドが虚次元存在であることが判明してきた。虚次元存在である対象に、どのように干渉するか。


 従来は、ヴォイドに対して実粒子の粒子の性質を中心とした兵器を用いてきたがために、有効打を与えることができなかった。


 実次元と虚次元を結ぶものは「波動」なのだ。

 そこで波動兵器においては、凄まじく莫大なエネルギーを用いることで、目標を空間ごと振動させ、莫大な波を生む。そこに重なりあうように存在する虚次元へと干渉波を生じさせる。これが波動兵器の仕組みだった。


 これには欠点もある。莫大なエネルギーのチャージには時間がかかり、高速機動戦闘が中心である対ヴォイド戦では、その時間的余裕が作れないことも多々あった。その欠点を克服するための新型の研究は日夜続いている。


 この兵器は、ウェーヴや波動砲とも呼ばれる。



 自分は、発表すると決めた論文の進行に専心する。思考をよくまとめる必要もある、理論の穴を埋め、しっかりと文章構造を見直す必要もある。また、実験結果は既に得ているが、幾たびも再現性を確認したい。思考し、手順を見直し、書き直しを繰り返していると集中力の消耗が激しい。


 自分のお気に入りのアーロンチェアでも、座りっぱなしだと腰が痛くなる。少し休憩しよう、そう思いつき、立ち上がって伸びをする。教授謹製のカフェスペースから、焙煎豆を取り出し、コーヒーミルにかける。この味わい、風味、香りを楽しめるのも、あの教授に師事したことで得られた大きな恩恵だ。


 教授は、私が父のことを思い遣っているのだと勘違いしていたようだが、私は瑠奈にどう接すれば良いのか迷っていたがための発言だった。もちろん父の事も心配ではあるが、ずっと黙々と仕事人間をしてきた父のことだ、今回のこともなんともないだろう。


 次に、瑠奈にあったら少し落ち着いて話せるような時間を設けるのもよいかもしれない。彼女が少しでも仕事の辛さを忘れられるよう、力になりたかった。

 教授だけでなく、女性のことなら貴彦や大の方が、私より余程手馴れているだろう。彼らはカレッジでもプレイボーイで鳴らした連中だ。圭子はそんな彼らを若干苦々しく思っていたようだが、こういう時は頼りになる。


「貴彦、大、この間話した女性についてなんだけれど、少し相談したいことがあるんだ。今日時間取れないかな。」


 ネットデバイスから、貴彦と大に連絡を取り、しばらくの間待っていると、貴彦からすぐに返事があった。


「いいぜ、あと一時間後には時間を作れるけど、修司は出てこれるか?」


 了解と返信を打ち、カレッジ時代よく使った喫茶店での待ち合わせを約束する。貴彦も随分とフットワークが軽いものだ、思ったよりも彼の任務には余裕があるのだろうか。


 大学の研究室を出て、喫茶店へ到着すると、既に入り口から深い位置に貴彦は座っていた。随分と暗いところに座るものだと思いながら、彼の対面に座る。


「よう、端っこが好きなんだな貴彦。」


「ここからだと店の全体が見渡せるからな。・・・人間観察って楽しいだろ?」


 にやっと笑って言う、少し趣味が悪い気もするが、こういうところが彼の洞察力の鋭さの源泉なのかもしれない。私はココアを注文する。カレッジ時代からこの喫茶店は利用しており、メニューの安さと長居ができることが、この店の長所として気に入っていた。もっとも、メニューは甘さで誤魔化したココア以外、合成化学風味が強くて私には飲めたものじゃなかった。


「そんなもんか。それはそうと、相談なんだが。」


 店員がココアを運んできた、私は一口飲み、貴彦へと話を切り出す。


「ん、例の女性についての話か、どうした?」


「いや実はな……。」


 私は、瑠奈が仕事の辛さから涙を流す姿を見たことを伝えた。また、自分がその時に上手く慰められなかったことを悔み、貴彦ならどうするかを問うた。貴彦は、何だそんなことかといった表情を作り、頷きながら返事をした。


「ふーむ、まあお前の対応は間違ってなかったんじゃないか?相手のことをそこまで知っているわけでもないんだろ?なにせ相手が軍属のようだと言うし、ベストじゃないかもしれないが、ベターな対応だったと思うぞ。俺でも似たような対応しかできないと思う。」


 その後、少し顔を天井に向けて何か思案した様子を見せる。暫くそうしていたかと思うと、何かを思いついた様子だった。合成化学風味コーヒーを一気に飲みきったかと思うと、次には真剣な表情を私に向けて、声を潜めながらささやくように言った。


「むしろ、軍属者が部外者に対して、仕事の愚痴を簡単に話すことが気にかかる。本当に軍属か?お前はその女に何か利用されているということはないか?」


「いやお前も仕事の愚痴言っていたじゃないか。利用、と言われても、せいぜいアイスを奢ったぐらいだ。」


「俺とその女じゃ立場が違う。俺はもちろん話す内容を選んでいるし、何よりもお前らは立場のはっきりしている人間だ。仮に機密が漏れたところで、悪用する人間じゃないことは調べがついてる。」


 私はドキッとした。瑠奈が疑われていることではない、私からは貴彦を親友としか思っていなかったが、貴彦にとっては我々も一応警戒対象だったのだ。貴彦が我々カレッジの仲間も調査していたことに、私は虚を突かれた心持だった。上司の指示なのか、本人の意志かはわからないが、考えてみれば自分の周囲まで身辺調査をすることは、少佐ともなれば当然なのかもしれない。


「最近は共感派の過激派連中がスパイを方々に潜らせていると聞く。その女がそうかはわからないが、気を付けた方がいい。少しでも怪しさを感じたら、いっそもう関わるのはやめとけ。お前もプロメテウスから、制裁を食らうおそれがある。」


 私は貴彦に対して、少しだけ怒りを感じた。瑠奈が反体制派のようには見えなかったし、わずかな情報からそこまで疑われるものかと感じたのだ。だが、今は戦時中であるし、軍人はそれだけ緊張が解けないのだろう。なによりも貴彦はあくまで私の身を案じてくれているのだ。私は貴彦の疑いに全面的に賛同というわけにはいかないが、彼の提案を無下にすることもできなかった。


「そうだな……。心配してくれてありがとう。次会うことがあれば、ある程度警戒しながら、接してみることにする。」


 貴彦はさっきまでの真剣な顔と打って変わって、穏やかな表情にすぐさま切り替えた。声のトーンも静かだが厳しい口調から、友との会話のそれに変わる。貴彦は頷きながら、私の返事に対して応えた。


「それがいい。とはいえ、もし普通の女性で、お前がその子のことを気にしているんなら、うまくいくといいな。話を聞いてる限りじゃいい子なんだろ。」


 貴彦はこういうフォローを必ず挟む男だった。友人びいきではあるが、周囲の人間も決して卑下しない。だからこそ、ただのお調子者ではなく、カレッジからずっと友情が続いている。


 ピピピと個人デバイスが音を立て、メッセージの受信を知らせる。


「貴彦、大もすぐ来るそうだ。診療所の昼休憩らしい。」


「随分遅い昼休憩だな。まあ昨日の今日でも、3人で集まれるのはいいな。圭子が恨み言を言いそうだ。」


「なんだか、みんなにはすまない。忙しい中、俺のしょうもない話に付き合わせてしまって。」


「しょうもなくはないだろ。ダチンコの悩みを聞くのも楽しいもんだ。」


「悩みが楽しいってのはひどいな。」


 私と貴彦がハハハと、友人同士のよくある悪乗りの冗談を笑いあっていると、大も喫茶店に既についていたのか、参加してくる。


「楽しそうだな。お前らの笑い声はでかいから、喫茶店の奥じゃないと店の迷惑になりそうだ。」


「その通り」


 と私と貴彦は笑いながら彼の悪態に同時に返事をした。


「そのシンクロが気持ち悪い。で、だ。修司、その女性のことでの相談とは何だったんだ?もう貴彦に話してケリはついたのか?」


 私としては、貴彦の回答については、失礼な話だがあまりほしい答えではなかった。貴彦の発言はもっともだし、私を心配してくれるものだが、今ほしい答えは、どうすれば彼女の負担が軽くなるか、そういった対応の仕方だった。思えば、ずいぶんと身勝手なものだが、以前カレッジ時代には貴彦や大とよくこういう類の話をしたものだ。あの時の1ページを、もう一度体験したいと無意識に感じていたのかもしれない。


「貴彦にも相談したんだが、大の意見も聞いてみたい。こういうことがあってさ・・・。」


 私は貴彦にした話をそのまま、大にも繰り返し伝えた。私の話を聞き、大は腕組をしながら、うーんと唸った。大はいつも通りの注文である、緑茶とチーズケーキを頬張りながら、フォークで私を指し、答える。


「難しい話だな、その女性の事をよく知らないのに、その人に関わっていくのか修司。危篤なやつだ。」


「そういわれると身も蓋もない。ただ少し気になってね。」


 大は思考する時には、何かを食べながらを好む。チーズケーキの二切れ目を小奇麗にカットしながら、一口目を咀嚼して私の問いに答えた。


「いいんじゃないか、そういう始まりがあっても。彼女が何で苦しんでいるかわからないのなら、知る努力をするのも悪いことじゃないだろう。貴彦の言うように、警戒するのも大切だが、相手の事を知らなきゃ何とも言えない。適度に関係する時間を増やすのがいいんじゃないか。そのうえで、相手の悩みを直接聞くようにすればいいと思う。」


 論理的で、推測を好まない大の率直な性格がよく表れていた。貴彦は何かもの言いたげな様子ではあったが、大の言うことにも一理あると感じたのだろう。何も言わず、大の言葉に無言で賛同した。


「なるほど、俺はすぐ狼狽えてしまって、安定感がなかったよ。ゆっくり落ち着いて向き合ってみる。話を聞いてもらって、少しスッキリした。ふたりとも忙しいとこ、ありがとな。」


 三人で軽く雑談した後、会計を済ませ、めいめいの所属先に戻っていく。



 もう日も暮れようとする時間になっていたので、研究室に置いたままの荷物を片付けに向かった。研究室の掃除を簡単に済ませて帰宅しようと思っていたところ、教授の固定端末が、またオンになっていることに気がづいた。


 三日連続で電源を落とし忘れる、以前にこのようなことはなかった。教授も近頃は忙しいから、こうした些事をすっかり忘れているのだろうか。勝手にオフにするのもどうしたものかと思いながら、ついふと画面を見てしまう。画面上には、一通のメールが表示されていた。その中に自分の名前が載っていることを見つけた。


「小笠原修司について、小笠原修司の研究は我々の主張をより堅固なものとし、大きな後ろ盾となるものである。彼の研究を完成させ、発表まで誘導することを求める。また、彼の思想が彼の研究と一致しているのであれば、彼を我々の所属に引き込むことを任務とする。」


 この文章を読んで、私は頭が一瞬空白になった。


「なんだ……これは……。何かの間違いじゃないよな……。」


 送り主は不明だが、あて先は確かに、エミリー・C・ワトソン、教授宛てだった。教授はいったい何に関わっているのだろうか、私への対処とはいったい……。


 暫くの間、心臓の昂ぶりが抑えられず、動悸を強く感じた。水を一杯飲むと、ゴクリと喉が音を鳴らす。この音が、自分の興奮状態、昂ぶりを自覚させ、自分の脳を少し冷静にさせる。頭が徐々に働きを取り戻し、思考が巡り始める。


 「我々の主張」、おそらくこれは共感派の連中だろう。

 教授が共感派の一員なのか、私は教授に誘導されて自分の研究を進めさせられているのか、いったいいつから、教授は私を政治利用するために研究室に引き込んだのか、様々な疑問や考えが、私の頭の密室に浮かぶ。どれだけ考えても確証をともなった結論はなく、脱出口はなかった。


 他の情報を調べようとするも、本人認証が必要なものも多く、ろくな情報は手に入らなかった。

教授が一員なのであれば、当局に通報すべきなのか。だが、私が数年の間、信じて師事してきた相手だ。すぐさまに当局に通報というのも好ましい方法ではない。驚きはしたものの、本音としては、共感派という反体制派であってほしくはなかったし、せめて過激派でなければ軽い処罰で済んでほしい、という期待もある。だが、現実に私を引き込むといった裏工作、実行をしている連中が過激派でないというのも難しいだろう。事の真偽を確かめる為にも、教授と対話の時間がほしかった。本人と話して、確証を得てから、通報なりを考えたかった。


 個人デバイスから、教授の在籍状況を確認する。

 「外出:そのまま直帰」

 教授は今日はもう大学に残っていない様子だった。教授と通話するために、コールするも反応はない。もともと、デバイス経由での連絡を好む人ではなかったため、今までも通話がつながることはほとんどなかった。


 今取れる一連の行動を試みた後、私は今後の立ち回りについてを考える。研究は自分の意志で進めていたたと思いたい。


……他者に誘導されたわけではないならば、今後も進めるべきだろう。


 教授についてはどうすべきか、ひとまず今は結論が出せない。他人にこのことを話し、あらぬ疑いをかけられるのも好ましくない。従来通りの教授のスケジュールであれば、数日の間には教授にも会えるだろう。まだ、気持ちの昂ぶりはあったものの、その間に私も身の振り方をよく考えておくのが良いと自分を無理やりにでも落ち着けた。


 自宅に帰宅し、自室のベッドに座り、一息つく。考えることが多い、午前は瑠奈との付き合い方に悩んでいたかと思えば、午後には教授の秘密や企みを知ってしまった。考えていてもしょうがないことではあるのだが、ついぐるぐると思考が堂々巡りを開始してしまう。

 そうこうしているうちに、私は気が付けばうとうとして、寝入っていた。


 物音が聞こえて目を覚ますと、21時を回っており、父が帰宅しているようだった。


「父さん、帰ってきてたんだね。だいぶ忙しそうだけど、身体は大丈夫?」


「ああ、心配するな。お前も研究に打ち込みすぎないようにな。私はまたすぐ出かける、ものを取りに戻っただけだ。」


「ああ、そうだ。父さんの研究所に、背の低い童顔の女の子っている?」


 自分の息子が突然女性の話を出したことに虚を突かれたのか、父は驚いたような表情を作り、すぐに怪訝な表情をした。大学に所属する研究者の私が、軍の研究所の構成員を訪ねる理由があるのか、といった判断だろう。


「軍属の研究助手らしき人と知り合ったからさ。」


 私は言い訳かのように、取り繕う。


「そうか、いやわからないな。」


 父はため息をつきながら、くだらない話に付き合わせてくれるなという様子を見せた。


「そう、ありがと。特に何というわけではないんだ。ただ、ひょっとしたら父さんの部下の人かなと。」


「背が低くて、童顔か……。女性スタッフも何人かはいるが、思い当たらないな。」


 表情は良く見えなかったが、父は急ぐ様子で、すぐに顔を背け、玄関へと向かう。


「では、出かける。物騒な状況になってきている、あまり見知らぬ人間には気をつけなさい。」


 そう最後に釘をさされ、バタンとドアを閉めて父は出て行った。


 この父とゆっくり話すというのもなかなかに想像がつかなかった。


 一日、頭を動かしていてばかりで、疲労感が強い。ひさびさに湯船にでも浸かるかと、風呂の蛇口をひねり、私は泡の出る入浴剤を用意しながら、今日の思索を放棄した。

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