第4話 約束

 まどろみの中でタクマは、いつもと違う甘い香りに違和を感じながら、目覚めの水面に浮かんできた。肩先に感じる柔らかさとぬくもり。ぴったりと、アリエルが頬を預けていた。間近にみるアリエルの寝顔に、愛しさが胸の中に満ちてくる……

 起こさないようにそっとベッドから抜け出そうとしたが、するりとアリエルにすがりつかれた。


「タクマぁ、もう少し……まだ眠いの……」


 子どものような甘え声に、思わずタクマの頬が緩む。アリエルの額にキスをして、そのまま耳元にささやく。


「寝てていいよ。オレは朝ご飯買ってくる。二人分だと、ちょっと足りないんだ」

「ん……なら、わたしも一緒にいく……」


 寝ぼけ眼で上体を起こすアリエル。彫像のように均整の取れた胸元がまぶしい。


「そうしたいけど……それはこちらの服を揃えてからにしよう? すぐ戻るから」

「……うん、そうね……もう一回キスして……」


 求められるままに唇を合わせる。すっかりそれが当然のことのように。そしてタクマは愛用のマウンテンバイクにまたがって、近所のコンビニに向かった。思わず全力でこぎ出してしまったら、タイヤから白煙が上がった。いけない、いけない。自重、自重。

 全身から活力が湧いてくる。昨日までの自分から、まるで生まれ変わったように感じる。今ならばなんでもできそうな高揚感。タクマは「自重しろ」という理性の声を繰り返しながらも、目撃者が驚愕するようなスピードで自転車を走らせた。

 一方、タクマの枕を抱きしめて、


「ん~……タクマの匂い……」


などと言いながら二度寝しかけたアリエルだったが、結局むくりと起き出した。タクマの枕はやはりタクマではない。彼が戻るまでに、何かできないか? 家の中とは言え、一糸まとわぬ姿でそこらを歩くのは流石にはばかられたので、タクマのシャツを借りることにした。ハンガーにかかったままクローゼット前につるされていたものだ。昨夜まで着ていた衣類は、それなりの修羅場をくぐったあとでかなり汗をすっており、着つづけるのは抵抗が強かった。

 昨夜タクマがココアをいれてくれた手順を思い返し、ヤカンに水を入れてコンロにかける。一つ一つの行程が、ちょっとした冒険だった。銀製の水差し口のような部分に取り付けられたレバーを動かすだけで水が出る。鉄製の台にヤカンをおいて、手前のスイッチを押すとカチカチカチ……という音とともに青い炎が点った。すごい! そしてそれら全てに魔法は使われていないのだ。イムラーヴァで、タクマに故郷のことを聞いたのを思い出す。魔法文明は存在せず、代わりに科学という物が文明を支えているのだとか。


「ただいまー」


 タクマの声に、いそいそと玄関に向かう。


「お帰りなさーい。あの、お湯だけ沸かしてみたんだけど……」

「のぉあっ!!」


 アリエルの姿に、タクマは目をむいてのけぞった。それはいわゆる、正調、裸ワイシャツ。異世界での同棲一日目でこれとは……アリエル……恐ろしい子!


「え? あの、これ? タクマのを借りたんだけど……いけなかった?」


 思わず上目遣いになるアリエル。タクマは魚がはねるように二度のけぞる。何という……何という破壊力……。もうやめて! タクマの理性の残りHPは1よ!


「ち、違うんだ。いけなくなくなんてないから……。あ、アリエル……それ……どこで覚えたの……?」

「え? え? 覚えたって……?」

「いや、いい。追いおい話すから……」


 軽く錯乱気味のタクマだった。

 コンビニの調理パンとインスタントスープという朝食だったが、これほどおいしく感じられるのは初めてだった。アリエルの口にも合ったようで何より。さすがに今日は、予備校を休むことにしたタクマだった。現在の将来設計を変えることまでは考えていないので、基本、高認とって大学受ける方針は維持するつもりだが。むしろアリエルとこちらの世界で暮らし続けることになるなら、相応に稼げる職に就く必要があると言えるし、学歴は進める所まで進んでおいてソンはない。

 食事のあとの紅茶を楽しむ二人。赤く澄んだお茶はアリエルも初めてで、その色に見ほれていた。


「あ、そういえば……」

「なあに?」

「アイテムボックス!」


 久しぶりにイムラーヴァで授けられた魔法スキルを発動させるタクマ。空間魔法の一種である収納庫を開き、腕輪をひとつ取り出した。


「あ、『翻訳の腕輪』ね!」

「ああ、オレが召喚された時に使っていたやつ。これで通常のコミュニケーションは大丈夫なはずさ」


 呼び名通りのマジック・アイテムをアリエルに着けさせる。読み書きに渡って、言語を翻訳してくれる優れものである。しばらく同じ他国語を翻訳し続けていると、自国語とのリンクが脳内にきざまれて、ナチュラルにしゃべれるようにもなる。タクマが一年足らずでイムラーヴァ共通語を操れるようになった理由でもある。無論いくつも他国語を覚えられるわけではない。それは使用者の記憶容量による。それに……


「ねえタクマ、こちらの世界ではまったく魔素は存在しないの? 腕輪を使っていると少量でも魔力は消費してしまうし、回復手段がないと……」


 基本的にイムラーヴァにおける「魔力」は、大気中に存在する「魔素」を体内に取り込むことで得られる。生物の体内でひとりでに生成されるものではない。


「大丈夫。魔素が比較的濃い地点がある。神社仏閣とか古い遺跡とか、ね。まあ、そういうポイントでもイムラーヴァの市街地以下の魔素量しかないけど、翻訳腕輪の消費量を補充するくらいなら十分だと思う」

「よかった……正直、ちょっと不安だったの」


 タクマの言葉にアリエルの表情が明るくなる。自分が慣れ親しんでいた技術がまったく使えなくなったとしたら、どんな人間でも不安にはなる。たとえその技術に「頼る」ことが前提でなくても。

 タクマの表情が急に真剣になった。しばらく考えて話を切り出す。やはりこれは、早いうちに決めておかないと……


「アリエル……こちらの世界で生活するうえで、決めておきたいルールがあるんだ」

「ルール?」

「ああ、ひとことで言って、『魔法を使いすぎない』ことだ」


 タクマの懸念は、彼がこちらに帰ってきてから持ち続けているものだった。「魔法」は、こちらの世界ではあくまで理外の理。言わばズルのようなものだ。制限なく使おうとすれば、自分自身を堕落させかねない。無論、倫理的な意味だけではない。処世術というか、自分自身の身を守るためでもある。この世界の誰かに「魔法」のことを知られて、それがさらに公機関・政府レベルに知れてしまったら、おそらく魔法の行使者は隔離・拘禁されて一種の実験動物扱いされるだろう。さらに……


「オレが特に心配なのは、君の蘇生魔法なんだ」

「あ……」


 神聖回復魔法を極めたアリエルの通り名は「聖癒姫せいゆき」。当然、蘇生魔法も身につけている。そしてそれは、イムラーヴァにおいてさえ滅多に使用者がおらず、場合によってはトラブルになりかねないものだった。大切な肉親が喪われたら? その蘇生を願うのは誰しも同じだ。しかし、蘇生を願う者たちに比べて、施術者はどうしようもなく少ない。いきおい、報酬額であれ施術の間隔であれ、蘇生には一定のルール・制限を設けざるを得ない。依頼者同士のいさかいを防ぎ、施術者を「つぶす」ことのないように。


「イムラーヴァでも、教皇国を中心に蘇生魔法のルールが定められるまで大変だったと聞くよ。そして『こちら』は、そんなルールが、いや、魔法に関しての共通認識さえない状態なんだ」

「ええ……そうなんでしょうね」

「だから……それは決まり事にしておきたいんだ。場合によっては非情なことになるかもしれないけど……この世界のことわりとして、『死者は蘇らせてはいけない』」

「はい、わかりました。それがこの世界の理ならば……わたしは蘇生魔法を封印します」


 真剣な顔で誓い合ってから、ふっと二人は、同時に表情をゆるませる。


「でも、その気になったとしても使えるかどうかわからないぜ? こちら側だと魔法の使い勝手が違うんだ。威力が低かったり、使用魔素が多かったりで」

「そうなの? あら? ということは、使って調べてみたわけよね?」

「うっ、それはその、攻撃魔法ばっかりだったし。使ってみないことにはわからないし……」


 そして二人は、ネット通販でアリエルの服を一通り注文した。初めて見るシステムに興味津々の彼女に、説明するのに時間の大半を食われたが。続いては家電の使い方やテレビの説明。半ば予想していたとはいえ、アリエルはテレビの前で固まってしまった。まあ、現代日本の情報を得るのに、これほど便利なツールもない。しばらくは仕方ないとあきらめよう。

 一時間ほどテレビに見入っていたアリエルは、今度は学校の教本があったら見せて欲しいと言いだした。この世界の基礎教養をガチで身につけるつもりらしい。本棚をあれこれ探して、昔の教科書を探しだした。これは翻訳腕輪の魔力消費量も、侮れないことになるかもしれない。早いうちに一番近い魔素回復ポイント──近所の神社に案内しなければ。心のメモに刻むタクマだった。

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