第2話 夏のある日
確かにその日、頭が鮮明だったかと言われればそうではない。なにせ最高気温38度の猛暑日だったし、昼下がりまで続いた夏期講習では苦手な数学を4時間も詰め込まれたのだ。いくら教室では冷房が効いているとはいえ、頭の中はクタクタだ。窓際の席に座ったせいで、窓に遮られて小さくなった蝉の鳴き声と、理解できるギリギリの難易度で話す先生の言葉が混ざり合って脳みそがグラグラと揺らされた気がした。
知り合いのいない教室を出ると、水分をたくさん含んだ夏の空気がぶわっと体を包み込む。暑さと夏の日差しと、直接聞こえてくる蝉の大きな鳴き声に少しだけ頭を起こされたが、少し歩くとすぐに貧血気味だ。
「蝉の声は、声じゃなくて、羽を
そう教えてくれたのは誰だったか。蝉の羽があんな声を出すなんて信じられなくて、道端に落ちている蝉の死骸の羽を擦らせてみたけれども思ったように音は鳴らなかった。子供の頃は不思議に思うことがあると何でも解き明かしたかった。何でも試したり、調べたりする子供だった。4歳の時にサンタクロースがお父さんだということを突き止めたときはがっかりしたものだ。科学者になりたいなんて思ったこともあったけど、それは中学校の後半か、高校生になってしばらくしたあたりで自分には向いていないと気がついた。世の中には不思議なことがいっぱいあって、その理由を知りたいだけなんだが、そのためには数学というやつが絶対に必要らしい。俺はそれがとても苦手だった。数字を計算するだけなのに、なぜか文字が出てきてくっついたり離れたりするし、突然公式が出てきてその通りに計算しろとか言われるので、その度に頭の中はぐるぐるして何をしているのかわからなくなる。
* * *
地元の駅で電車から降りると、そこからは徒歩で家に向かう。人通りよりも車の交通量が多いこの2車線道路は、田舎から都心に物資を運ぶ幹線道路らしい。この時間だと帰り道だろうか、都心から帰ってくる方向の車が多い。この街はトラックの休憩場所としても微妙らしく、彼らからしてみればただの通過場所のようだ。
大通りから外れて少し歩くと、車の音も聞こえなくなってくる。特にこの角を曲がった先は道も狭いので日陰も多く、排気ガスでより一層煙がかった頭の中が冴えてくる。このあたりは住宅街だが人通りは少なくて静かだ。駅で買った水も飲んだ。そう、頭はそれなりに冴えてきたはずだった。
普通、めまいがする時というのは、目の前のすべての景色がぼやけてくるものだと思う。だって実際は景色の中の建物や人がぼやけているわけではなく、目がぼやけているんだから当然だ。しかしその時自分に見えている景色はそうではなかった。一本道の曲がり角を道沿いに左に曲がったその右の方。壁のあたりから道路の路側帯あたりまでだけがぼやけて見える。右目だけがぼやけているのか?と思ったが、左目だけで見ても同じ場所がぼやけている。それはその場所、その空間がぼやけているようにしか見えなかった。
自分の目がおかしくなったとか、妙なことが目の前で起きていて怖いとか、思わなかったわけではない。でも、とにかくワクワクして、不思議で、興味深くて。しかもそれがいつまであるかわからないとあっては、自然と体が動いてしまうのも仕方がない。右手でそのぼやけた空間に手を当てると、目の前全てがぼやけた空間に包まれていった。
* * *
何秒、何分、何時間。どれだけの時間がたったのかはわからない。熟睡して突然起こされた朝のように、一瞬のようにも感じるし、とても時間がたったようにも感じた。意識を失っていたようだが、気がつくと目の前ははっきりと見えていた。そこは知らない場所で、目の前には知らない人が立っていた。正確に言うと、知らない女性だ。
その女性は俺を見ると、少しだけ驚いた顔をした気がしたが、すぐに感情の無い表情になった。そして彼女が言った言葉で、今度は俺が大いに驚くことになる。
「久しぶりね、高橋くん。」
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