催眠術師

文芸部(前)

    ◇


 気がつくと現実に舞い戻っていた。平凡に言えば、目覚まし時計にたたき起こされた。


 いつもと変わらない朝をむかえられ、夢とは思えない夢を、ようやく夢だと確信することができた。胸のつかえが下りるも、向こうの世界に心残りがないわけじゃない。


 夢の中での体験は、目が覚めた時点から急速に失われる。強烈な印象を残したものでも、記憶に残るのは断片だんぺん的なものばかり。


 朝食を食べ終わる頃には、ダイアンのことをきれいさっぱり忘れているかもしれない。そう考えたら、切なさで胸が苦しくなった。


「昨日はずいぶん寝るのが早かったのね」


 一階に下りてリビングへ入ると、キッチンの母から声をかけられた。


「うん……」


 早寝をした自覚がないので、ぼんやりと返事をした。


「九時前にはもう寝てたでしょ。あれからずっと?」


「……たぶん」


 そう言われても、就寝時の記憶はよみがえらない。ただ、夢を見ている時間が、恐ろしく長く感じたことに納得がいった。


「ボケッとしてるけど大丈夫。学校に遅刻しないでね」


 学校という言葉が、現実に戻ったことを強く意識させた。


 夢の世界での目まぐるしい一日が終わり、やっと肩の荷が下りたところなのに。新たな一日が、これから始まるのかと思うと、猛烈な徒労とろう感におそわれた。


    ◇


 ところが、いつもは退屈きわまりない授業も、今日にかぎっては苦痛に感じない。なれ親しんだ日常に戻った安心感からか、自宅にいるようなリラックスした気分さえ味わった。


 授業中にもう一つ感じていたことがある。やはり、普段の夢と今日の夢は、本質的に異なっていた。


 二時間目になっても、三時間目になっても、不思議と記憶は色あせない。全ての出来事を時系列順に書きだせそうなほど、頭にこびりついていた。


 あたかも一本の映画のような、一冊の物語のような、ここまで現実的な夢を、今まで見たことがあっただろうか。


 授業そっちのけで、夢の世界へ思いをはせていたら、ある衝動にかられた。


 この話を誰かにしたい。


 けれど、クラスメイトはマズい。白い目を向けられるのがせきやま。下手したら、卒業まで冷やかしの種にされかねない。


 ここは我慢のしどころ。この手の話をする格好の相手がいるじゃないか。そう自分に言い聞かせ、ノドまで出かかった思いを飲みくだした。


     ◇


 放課後になってすぐ、教室を飛びだして、文芸部の部室へ直行した。


 あいにく、部室には一番乗り。文芸部はたった四名の少人数だけど、連日おどろくほど出席率が高い。


 部室は旧校舎の空き教室を他の部活と共用している。じきりでしきった後方三分の一が、文芸部の自由に使えるスペースだ。


 ドアから入って左手の壁ぎわに長机が置かれている。そこは通学バックの置き場所や、持ち寄った本の保管場所として利用している。およそ文芸とは縁のない物も置いてあるけど、その大部分が土井どい先輩の私物だ。


 あとは教室の机が部室の中央に四つ、窓ぎわに二つ置かれているのみ。普段は男性陣――僕と土井先輩が窓ぎわの席に陣取り、女性陣――小谷こたに先輩とつじさんが、中央の席でななめに座っている。


 殺風景と言えなくもないけど、部室内は整理整頓が行き届いている。これはきれい好きの小谷先輩の功績によるところが大きい。


 連絡事項の書き込まれた黒板を見ていると、他の部員が続々と顔を見せ始め、まもなく、全員が顔をそろえた。


 土井先輩は部室へ入ってくるなり、指定席にドカッと座り、バッグの中をあさり始めた。自分も何食わぬ顔で向かいの席に腰を下ろす。


 戸口に目を向けると、小谷先輩と辻さんが立ち話をしていた。その時、運動公園でUFOユーフォーを探索した記憶が、唐突によみがえってきた。


 昨日のことなのに、今の今までど忘れしていた。夢の中での壮大な冒険に、おおい隠されていたのだろうか。


 結局、どうなったんだっけ。公園内を隅々すみずみまで歩き回って、広場で途方に暮れていたのは覚えている。けれど、そこから先があまりに不明瞭だ。


「昨日はあれからどうなった?」


 バッグの中に視線を落としたまま、土井先輩が話をふってきた。意表をつかれたけど、すかさず頭を切りかえ、極力平静をよそおう。


「昨日はあれから……、異世界へ行きました」


 手に汗にぎり、勇気をもって言いきった。


「へぇー、最近の君にはおどろかされてばかりだな」


 顔を上げた土井先輩が、口元に冷ややかな笑みをたたえる。この程度でひるむわけにはいかない。


「それなら、昨日のアレはティンカーベルだったというわけか」


 頭にハテナマークがうかんだ。もちろん、ティンカーベルは知っている。ピーターパンを異世界へ導いた妖精だ。ただ、『昨日のアレ』には心当たりがない。


「……昨日のアレって何ですか?」


 聞き返すと、土井先輩から怪訝けげんそうに見つめられた。


「君が広場で見つけたアレだよ。君以外は目にすることができなかったアレのことさ。確か、黒いマリモだとか何とか言ってただろ?」


「黒いマリモ……?」


「から揚げにでもして食べたのかい?」


 昨日の記憶を必死にたぐり寄せる。けれど、ささいな糸口さえ見つけ出せない。


「忘れたのなら忘れたで、別にこっちはかまわないけど」


 土井先輩がため息をつくように言った。何だか、話が切りだしづらくなった。

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