第7話

 歩は写真家としての道を歩み始めた。写真という芸術に目覚めたのか、お父さんに気を使って家業を継ぐ気になったのか、どちらなのかはわからない。

「作品展なんだけどさ、愛ちゃん観に来てくれる?」

そう言う歩は、最近仕事が忙しいのか顔色が悪い。

「顔色悪いよ。仕事忙しいの?」

「ううん。そうじゃないんだけど、なんかしんどい」

「少し休んだら?お母さん心配するよ」

歩はいつもの笑顔を見せる。私はその笑顔を見ると、つられて笑顔を作ってしまう。歩の笑顔はかわいい。あまりにも無防備で、私の母性本能は歩を抱きしめろと命令してくる。私はいつも、その押さえがたい衝動を隠すように笑顔を作ってしまう。

「作品展に出す写真が、まだ全然撮れてないんだ」

「大変なの?」

「うん。スタジオが空いているときは、夜しかないからね。夜遅くに素人につき合ってくれるモデルさんなんていないしさ、衣装とか用意するのも大変だし」

「わたしに手伝うことある?」

具体的にどう大変なのかはさっぱりわからなかったが、力になってやりたいと思った。けれど、私では役に立つことはないのか、歩は「えへへ」と笑うだけだった。

 歩の体調は、良くならなかった。無理を押してスタジオに通い、夜遅くまで作業をしてきた。そんな日が一週間近く続いた。案の定、歩はしばらく女性ホルモンの服用をやめることになった。定期健診の血液検査で肝臓が悪くなりつつあることがわかったのだ。

 女性ホルモンを服用すると、肝臓に負担がかかる。肝臓は悪くなっても自覚症状が出難いため、注意が必要であると最初に医者に言われていたことを思い出した。女性ホルモンの副作用などということは、忘却の彼方へと行ってしまっていた私は、所詮他人事だったのかと心底反省をした。歩を守ってやるのは私の仕事だったはずなのに、全然役に立っていない自分が不甲斐なかった。私は心を入れ替え、歩の傍らにいることにした。

 歩は女性ホルモンの服用を中断した。しかし、女性ホルモンの服用を始めるときに医者から言われていたとおり、次の日から歩は頭痛と吐き気で仕事へは行けなくなった。

 ユイナちゃんは、心配そうに歩の顔を覗きこむ。私は歩の横に座り、髪を撫でてやった。

「そんなに苦しいなら、女性ホルモンなんて飲まなきゃいいのに。そんなの飲まなくても、あゆちんは十分オンナだよ」

ユイナちゃんは、真顔で言った。でも、歩はもう女性ホルモンを止めるわけにはいかない。一旦始めたら、一生服用し続けなければならないのだ。後戻りはできない。歩が女性ホルモンの服用を決めたとき、医者から言われたことだった。

「そんなに体調悪いなら、朝早くに起こすようなことしなきゃよかった」

「何やったの?」

「あゆちんのこと触りまくったの。大きくならないかなと思って。きっと、私のせいだ」

「うん。そうだね。そんなことしなかったら、こんなことにならなかったかもね」

呆れた。心底馬鹿な女だと思った。どうして歩はこんな女を家に連れて来たのか、私にはさっぱり分からなかった。女性ホルモンは、半年も続けて服用すると、それなりに女性っぽい体つきになるが、同時に男性としての機能も失う。ペニスが萎縮し、男性ホルモンは作られなくなると言われた。そしてそれは、服用を止めても決して元にはもどらないものらしい。歩は躊躇しなかった。男性としての機能を使ったことはなかったし、これからも必要とはしていなかった。ひょっとすると、童貞どころか、射精すらしたことがないかもしれない。当時、私は男性としての機能を失うという言葉の意味がよく分からなかった。薬で女性になれるとは、便利な薬があるものだと感心したくらいだ。

「あゆちんさあ、この家で私を撮ればいいじゃん。あゆちんはしばらくスタジオに出勤できないだろうし、このままだと作品展に間に合わないし」

ユイナちゃんは、柄にもないことを言った。

 それからユイナちゃんはまる二日間、歩に付ききりだった。歩の傍らにいようと決心した私は、薄情なもので会社は休んだものの、近所のスーパーや本屋を徘徊して時間を潰していた。ユイナちゃんが順番に挙げる必要なものをメモしながら、ベストテンの五位に入るくらい看病は嫌いなのだと悟った。

 頭痛と吐き気の中、歩はユイナちゃんを撮った。お父さんのスタジオは小さくて、小道具は椅子しかなかった。照明も旧式だったし、自然光が入る環境もなかった。歩はユイナちゃんに自分の服を着せた。カメラは、お父さんが愛用しているハッセル・ブラッドだった。

 お父さんのハッセルは、シャッターが寿命を越えているのではないかと思うほど古かった。私の目からも不安なそのカメラで、お父さんはよく仕事ができているなと感心した。

 ユイナちゃんを椅子に座らせてみる。お父さんが、襟やスカートの裾を直した。椅子の上に座るユイナちゃんを狙ってフラッシュが瞬く。ユイナちゃんは、フラッシュを浴びる度、モデルらしい顔つきに変わっていった。恍惚とした、酔いしれるような顔だった。

 大学生のときに行ったパチンコメーカーのアルバイトを思い出した。小さな画面に映る少女趣味な女の子に動きに合わせて、イヤーンだとか、アーンといった声を出す仕事だった。防音設備が整った肌寒い録音スタジオの中で、一緒に行った友達は何の抵抗もなく喘ぎ声を出した。私はガラスを隔てたサブコントロール室から、その様子を無言で眺めた。彼女は、顔を紅潮させて陶酔していた。私にはとてもできないと思った。プライドが許さなかった。今まで一緒にいた友達が突然見たこともない他人に見え、私は彼女を残してひとり帰った。

 レンズの前のユイナちゃんの顔は、パソコンを見る彼女の顔とは違っていた。歩はフィルムを巻くためにハンドルを回す。フラッシュが瞬く。ハンドルを回す。ユイナちゃんを狙う歩は、それまで見せたことのない真剣な顔だった。

 私は何もしてあげることができず、ただ三人を見ていた。お父さんは、歩の言うとおりにフラッシュの向きやら、レフ版の向きやらを変えている。歩がカメラを覗く姿が嬉しくて仕方が無いのか、モデルよりも歩の方を見て目を細めている。

 歩の額から、脂汗が浮き出ている。たまに体の具合いを気遣ってみたが、歩は笑顔を見せるだけだった。私はタオルや烏龍茶をもっておたおたするだけで、役立つことは何もできなかった。ユイナちゃんの髪や化粧を直す歩。頭痛がするのか時折しかめ面をし、苦しそうに嗚咽を繰り返す。私はいたたまれなくなり、目を背けた。ユイナちゃんは言われたポーズを崩さず、レンズを挑むように睨み付け、歩がファインダーを覗くのをじっと待っている。お父さんもレフ版の位置を保ったまま、歩を待っている。

 私が知らない間に、随分と変わった歩に気づいた。歩は私がいなくても生きてゆけるようになっていた。


 歩たちの写真展は、喫茶店の二階席を借りて行われた。写真好きな店主なのか、店の名前は「キャパ」だった。二階は、普段の客席のままテーブルと椅子が置いてあり、客はオーダーすればコーヒーも飲める。窓のブラインドが閉めてあり、そこは薄暗かった。作品は一作品ずつ照明に照らされて、浮かび上がるように見えた。壁や特設パネルに、まるで高校の文化祭のように所狭しと作品が飾ってあった。階段を上りきったところに受付があって、女の子がひとり座っていた。歩が、彼女が岩盤浴のアッコちゃんなのだと教えてくれた。アッコちゃんは、大柄な女の子だった。そこで記帳をして、順路に従った。

 一緒に来たお父さんとユイナちゃんは、一枚ずつ作品を眺めて歩いている。私は歩の作品だけが見られれば良かったので、一人で先に進んだ。歩の作品のモデルはユイナちゃんだ。私はあの時のユイナちゃんの顔を探した。タイトルは「夏光」だった。

 歩の作品は二十センチ四方のパネルが十枚の連作になっていた。最初の一枚は、ユイナちゃんのアップだった。目だけを切り取ったようなアップのユイナちゃんが、こちらを睨んでいる。私は一緒に来たユイナちゃんの方を見た。私たち以外に誰もいない会場の隅で、ユイナちゃんは写真に飽きたのか、椅子に座り天井を仰いでいる。モデルは、徐々に服を脱いでいく。服が一枚ずつ無くなっていくパネルが、パラパラ漫画みたいに並んでいる。作品からは、あの時の歩の体調の悪さはどこにも感じられなかった。モデルはずっと無表情な顔で、カメラを見つめている。いつの間にかお父さんは、私の隣で黙って腕組みをしていた。写真の中のモデルに目を移す。モデルは、ただ言われるままに無表情に突っ立っている。服を着ているときも、ボタンが外れているときも、ブラジャーが覗いているときも、同じ顔だ。笑顔を作るよりも、無表情を保つ方が大変そうに見えた。ユイナちゃんは体調が悪い歩に、この顔を崩さずに付き合ってくれていたのだと思うと、少しだけ頭が下がった。スカートの裾が乱れて、下半身だけが覗いているパネルの顔も全く変らない。全裸になっても無表情な顔と化粧と髪型とだけは変らず、光の入り具合と構図だけが意味ありげに変わっていく。私は全裸のユイナちゃんを眺めた。歩が表現しようとしていることが分かってくるのではないかと思って、しばらくそうしていたが、さっぱりわからなかった。ただ、見慣れているはずのモデルの乳房から、生活臭のようなものがただよってくる気がして、頭がクラクラした。

 その奥には、町の猫たちのぶっきらぼうな顔を集めたものや、おばあさんばかりを撮ったものや、子供たちのアップばかりを切り取ったものなどが並ぶ。女性ピエロのヌードなんかもあった。私はこれらの写真の、どこをどう見れば良いのか分からなかった。

 ピエロの作品は、岩盤浴のアッコちゃんのものだった。この作品はセルフフォトなのだと歩に教えられ、ビックリした。

「ねえ、どうだった?」

私が歩の作品から離れると、ユイナちゃんがそう言った。

「うん、綺麗だった」

私の感想に少し微笑むと、ユイナちゃんはお父さんの方へ寄って行った。お父さんは、歩の作品を観て「良い写真だ」と何度も繰り返した。私はどこが優れているのかわからないまま、相槌を打った。ようやくやって来た別の客たちも、やはり腕組みをして、作品を一枚ずつ観ていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る