第6話

 会社から帰ると、ユイナちゃんは私の部屋でパソコンを使っていた。彼女が履いている青いボーダーの靴下も私のものだった。買ったばかりで、まだ一度も履いたことのないものだった。ジャージのズボンはお母さんのもので、上に着ているのはお父さんのトレーナーだった。私は無言でユイナちゃんを見つめた。ユイナちゃんは、振り向きもせず、まるで自分の部屋のようにしている。ユイナちゃんが座っている黄色い座布団も私のだし、食べているお菓子も私のだ。そもそもここは私の部屋だ。何も喋らない私から放出される、不穏な空気が気になったのか、ユイナちゃんはパソコンから目を離して私を見た。

「ママちゃんがこれ着ていいって言うから」

ユイナちゃんはそれだけ言って、また私のパソコンに向き直るが、思い出したようにもう一度私を見た。

「あ、パソコン?これもママちゃんが使っていいって言うから使わしてもらっているよ。すごく暇なように見えたみたいでさ、パソコン使っていいよって勧めてくれたんだよ」

家族のように居座るユイナちゃんは、お母さんをママちゃんと呼び、お父さんをパパちゃんと呼び、歩をあゆちんと呼ぶ。私のことは呼び名を考えるのが面倒だったのか、愛ちゃんのままだった。ユイナちゃんは、立花家の三女のようにこの家で暮らしていた。

 どうしてこんな事になったのか、私はユイナちゃんを連れてきた日のことを思い出してみる。三人でお風呂に入って、歩とユイナちゃんが一緒に寝て、私は自分の部屋で一人で寝た。朝、歩は私のベッドで寝ていて、一階に降りていったら、ユイナちゃんは朝ごはんを食べていた。お母さんの目玉焼きを褒めちぎり、料理を教えて欲しいとか何とか言い、歯の浮くようなお世辞を並べてお母さんを喜ばせていた。家族から褒められたことがなかったお母さんは、ユイナちゃんを崇拝するように受け入れ、ユイナちゃんにいちいち感心した。

 すっかりお母さんに取り入ったユイナちゃんは、今こうして私の部屋で、自分のもののような顔をしてパソコンを使っている。お金がないからこうしているしかないのだ。愛想が良くて、楽しげにお喋りしていたのは、最初の日だけだった。お母さんを丸め込むことに成功したユイナちゃんは、日増しに豹変していった。

「私、コンピュータってよくわからないから、さっきから同じ画面が何度も出てきちゃうんだよね」

ユイナちゃんは画面を見ているのか、マウスを見ているのか分からないくらい惰性でクリックを繰り返している。だったら、やめればいいのに、と心の中では思うのだが、実際に口に出すことはできなかった。キーボードの上は、お菓子の粉が溜まり、アルファベットがチョコレートで判別できなくなっている。この女は、どうして一日中ここにいるのか?どうしてこんなに汚くできるのか?どうすれば、ここから出て行ってくれるのか、私は思案した。しばらく家にいるかもしれないユイナちゃんと、言い争うのは避けたかった。なんとか、うまいことを言って私の部屋から追い出したかった。一緒にアパート探しでもやるか。いやいや、酷暑の中、かったるそうなユイナちゃんを連れて歩くのは、私の我慢の限度を超えている。それに、お金がないなら無理か。歩の部屋にパソコンだけでも持っていくか。去年の冬のボーナスで買ったばかりのパソコンを取られるのは、癪に障る。お母さんと同じ部屋というのはどうか?でも、お父さんの行き場をどうするか……。

「ねえ、愛ちゃんはいつもこれで何やってるの?」

ユイナちゃんの声に、私は追い出す画策の妄想から引き戻された。何ともならないパソコンに腹が立ったのか、ユイナちゃんは私を睨みつけている。

「このページが楽しいよ」

動揺した私の口から出てきた言葉はそれだけだった。それも、かなりギクシャクしていたかもしれない。心の内とは裏腹に、マウスを操りネットショッピングのページを教えてあげる。ユイナちゃんは、「すごおい、色々あるう」とか「あ、これかわいい」とか言いながら、目を輝かしていた。ユイナちゃんは、私のことなんか忘れたように画面を見入っている。自分の小心者ぶりがつくづく厭になった。

 二三日後、化粧品が通販会社から私宛に届いた。その箱を見つけたユイナちゃんは、箱に飛びつくように駆け寄った。

「これ、待ってたんだ。何も持って来なかったから、化粧道具も無くて困ってたんだ」

嫌な予感がした。締りの無い顔で箱を解くユイナちゃんを後にし、力なく階段を上がる。部屋に入ってもパソコンを起動させる気にはならなかった。三年かけて貯めたネットショッピングサイトのポイントは、二万ポイントはあったと思う。二万ポイントということは、そのサイトで使えば二万円だ。毎日送られてくるメールをクリックして一ポイント、アンケートに答えて十ポイント、お買い物をして三十ポイントと地道に貯めたポイントなのに。毎日、少しずつ増えるポイントを確かめては、何を買うかを見て回るのが楽しみだったのに。私は力なく服を脱ぎ捨て、部屋着を身につける。

 パソコンを確かめると、やはりネットショッピングのホームページに残っている私のポイントは、五ポイントだけになっていた。

 私は一階に降り、化粧品を並べているユイナちゃんに近づく。ユイナちゃんは、無邪気な顔で私に説明する。

「なんか、クリックしたら買えちゃったんだよね。お金いらないなんてインターネットってすごいね」

ユイナちゃんは、化粧品を置く場所をどうするか考えている。

「丁度よかった。ポイントの使い道がなくて、なんかもったいないなあと思っていたところだったから」

嫌味を言ってやりたかった。けれど、私の口から出た言葉はそれだけだった。私は自分が情けなかった。

 私たちが生まれる前からあるソファは、革が擦り切れて所々色を失っている。台所のテーブルには、お父さんの薬や爪切りが無造作に置かれ、新聞がだらしなく寝そべっている。

「どうして、洋服も化粧品も持ってないんだろう?ここに来る前はどうしていたんだろう?」

私が愚痴ると、お母さんは意外な顔をして私を見た。

「愛ちゃん、何も聞いてないの?」

「え?お母さん知っているの?」

「なんかお姉さんが心臓病で、すごくお金がいるから働いたお金をお姉さんに渡しているらしいのよ」

「へえ、それで?」

「それで、さらに不幸なことに、ここに来る前にユイナちゃんの住んでいたアパートに泥棒が入っちゃって、全部盗まれちゃったんだって」

お母さんは、今どきそんな子見たことない、とユイナちゃんに同情した。

「それで、何も持ってないでしょう。かわいそうだから、しばらくここに住んだらって言ったのよ」

「しばらくって、いつまで?」

「さあ?アルバイトがなかなか見つからないらしいから、目処がつくまでいさせてあげることにしたのよ。それにさ、お金がないって言うから十万円貸してあげたのよ」

お母さんは、すっかりユイナちゃんに肩入れしていた。私の部屋にいるユイナちゃんは、そんな苦労人には見えなかった。

 ユイナちゃんは、次の日もその次の日も家で、いや正確には私の部屋でパソコンを見ていた。

一週間が経ったころ、私の部屋にはユイナちゃんの化粧道具が並び、ユイナちゃんの服が散らばるようになった。じゅうたんの上には、異常なくらいお菓子の箱が転がっていた。ユイナちゃんの座っているまわりには、お菓子の食べ滓が散らばっている。

「ねえ、そのお菓子どうしたの?」

「あ、これ?パチンコ。今日は勝っちゃった」

ユイナちゃんは、お菓子を齧りながら、パソコンのゲームをしている。画面でトランプが移ったり、消えたりを繰り返す。コアラのマーチがキーボードの上で潰れている。

「パチンコって、お母さんから借りたお金でやったの?」

「ん?そうそう」

「愛ちゃんも食べる?」

ユイナちゃんは、コアラのマーチを差し出す。

「どうして私の部屋にいるの?」

もはや、半分ユイナちゃんの根城となった、私の部屋を呆然と見た。

「迷惑?迷惑ならあゆちんの部屋に引っ越すよ」

引っ越す?ユイナちゃんは、私の部屋に定住でもする気だったのか?何も言わなければ、このままここで服を散乱させ、お菓子の食べ滓をばら撒き、パソコンで欲しい物を注文し続けるつもりだったのか?ユイナちゃんの言っている意味が分からず、ただこの状況に怒りが込み上げてくる。

「ううん、迷惑なんてことないけど、お菓子がそんなにあると食べたくなっちゃうし、太るから嫌だなと思って」

言ってる自分が嫌になった。どうしてそんなに卑屈になるのかわからなかった。ユイナちゃんを見るのが嫌になり、私は部屋を出た。トイレに入ってドアを見つめた。どうして歩が連れてきた女の子が、私の部屋に住み着いているのか?当たり前のように私の衣類を身に着け、私のパソコンを使っているのか?どうして、何も言ってやることができないのか。もはや、自分と言う人間が許せなかった。自分の小心者ぶりが許せなかった。トイレの黄色い照明が、私の膝を照らしていた。お母さんが言うユイナちゃんと、私の前にいるユイナちゃんとが同一人物とは思えなかった。お母さんの言葉を反芻し、ふと思い出した。ユイナちゃんのお姉さんはどうしたのだろう?本当の話なら、お姉さんは、ユイナちゃんからお金が届かず困っているのではないか?パチンコなんかに使ってしまっていていいのか?それにどうしてパチンコなんてやっているのか?仕事探しはどうなったのか?ユイナちゃんに対する疑問は次々と沸き、私は知らない間に立ち上がっていた。

 部屋に戻ると、ユイナちゃんはパソコンをやめ、寝転がって雑誌を読んでいた。

「お姉さんはどこの病院に入院しているの?」

ユイナちゃんは私の顔を黙って見た。乾いた視線を向けたまま、何も言わない。ユイナちゃんは何を言うのか、聞いた自分がどきどきした。

「アメリカ」

ユイナちゃんは、きっぱりと言った。私は予想外の返答にどうしたら良いのか分からなかった。電源を切り忘れたパソコンから、冷却ファンの音が鈍く響いていた。

「アメリカ?お姉さんアメリカにいるの?なんていう病院?」

「何だったかな」

ユイナちゃんは雑誌のページをめくりながら、表情のない声で言った。

 その夜、ユイナちゃんは歩の部屋に引っ越しをした。ユイナちゃんが出て行った後の私の部屋には、彼女が食い散らかしたお菓子の箱や食べ滓が満遍なく散らかったままだった。

 それからも、歩がお風呂に誘ってくると、ユイナちゃんもついていた。私たちは仲良く三人でお風呂に入り、ユイナちゃんの彼氏の話や、ある時出合った大金持ちの息子の話や、パチンコ屋で出合った浮浪者の話なんかを聞かされた。


 冷蔵庫を開けると、最上段にビールが並んでいた。見ると、歩はアップルジュースが注がれたコップを手の中で弄んでいた。ユイナちゃんは歩の部屋へ行ったようだった。

「ねえ、歩が最初ユイナちゃんを連れてきたとき、彼女、仕事が無くなって、お金がなくてアパートを追い出されたって言ってなかったっけ?」

私はビールを喉に流し込んだ。

「ん?そうだよ」

「でもさ、お母さんはさ、ユイナちゃんには心臓病のお姉さんがいて、そのお姉さんに送金していてお金がないってことになっているんだよ。その上、アパートだって、泥棒に入られたことになっているんだよ。ねえ、ユイナちゃんって変じゃない?」

「へえ、お母さんがそんなこと言ったの?」

アップルジュースを片手にテレビを見ながら歩は言う。テレビの中ではお笑い芸人が騒いでいる。

「お母さんさ、ユイナちゃんに完全に騙されていると思うんだけどさ、ちゃんと歩から説明しておきなよ」

エアコンの冷たい風が、洗ったばかりの髪を撫でつける。私はビールを飲み干した。カーテンを開けると、外はどんよりと暗かった。窓を開けると生暖かい風がなだれ込んで来た。エアコンが苦しげな音を立てて動き出した。

「へえ、ユイナちゃんも良くそんな嘘思いついたもんだね」

「本当。役者だよ」

私は窓を閉め、顔に張り付く熱気を拭うようにエアコンの風に顔をあてた。

「その話、私が考えたのよ」

振り向くと、お母さんが冷蔵庫からビールを出していた。

「愛はさ、ちょっと細かすぎるのよ。自分のものだとか、私の部屋だとかさ。この家は全部、お母さんとお父さんが買ったのよ。愛のものなんて、何もありゃしないわよ」

ビールがグラスに注がれていく。泡がグラス半分くらいまで出来上がった。

「いいじゃない、パンツ履かれたくらい。下着泥棒に盗まれたわけじゃないんだしさ、神経質すぎるのよ。だからさ、そう言ってやれば少しは黙るかなと思ってさ」

お母さんは、ビールの泡を口につけていた。

「愛はさ、優しそうなこと言うわりには、小うるさいのよね」

口についた泡を手の甲で拭うとさらに言った。

「皆が皆、愛と同じじゃないのよ」

体から力が抜けていくのがわかった。悪いのは私だったのか。豹変したのは私だったのか。立っているのが精一杯だった。自分の下着を他人が使うことを、気持ち悪いと思うのは神経質なことなのか。自分の部屋をお菓子の食べ滓だらけにされて怒るのは小うるさいのか。口では相手に迎合している癖に、頑なに心を閉ざしていることがいけなかったのか。

「ユイナちゃんさ、同棲していた男にアパート追い出されちゃったんだって」

お母さんは、そう言いながら歩の隣に座り、お笑い芸人の面白くもないギャグに笑い声を立てている。歩も笑う。歩も変わっているし、ユイナちゃんも変わっている。実はお母さんも相当変わっている人なのだと、今更ながらに気がついた。テレビの中は、随分楽しそうだった。けれど、テレビの声は私には届かず、まるで無声映画のように画面が動くばかりだった。

 思い返してみれば、私は自分を守り続けていたのかもしれない。歩からお母さんを取られ、お父さんを取られ、着るものも取られているうちに、自分を守ることに必死になっていたのかもしれない。女の子であるというアイデンティティすらも、歩に奪われてしまうのではないかという恐怖と戦うことで必死だった。その上、ユイナちゃんに私の居場所まで奪われてしまうのではないかと不安だったのだ。

 テレビを見た。相変わらずつまらない芸人が騒いでいる。何も面白くないギャグに、二人は黙り込んでいる。私は笑いたくなって、一人声を上げた。

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