第5話

 ユイナちゃんは、歩が本当に女の子だと思っていたらしく、歩の裸を見て驚いた。歩の顔とバストとペニスとを何度も見て何度も驚いていた。

「私が男でも、あゆちんくらいかわいかったら、女になりたいと思うかなあ」

ユイナちゃんは私が体を洗っている間、私たちが双子だとか、歩が自分を男の子だと思ったことがないことだとかを聞いて、声を上げて大げさに感心していた。

「ずっと女の子だと思って生きてきたんだあ」

ユイナちゃんは、真面目腐った声を出す。けれど、顔には面白い事聞いた、と書いてあるのが私には分かった。

「あゆちんは、私の裸をみても興奮しないの?」

「しないよう。だって、ユイナちゃんは愛ちゃんの裸みてもなんとも思わないでしょう?」

「本当に女の子なんだあ。ちゃんとオッパイもあるし」

ユイナちゃんは、何に感心しているのか、しきりに頷いて歩の体を見ている。歩は体を泡だらけにして洗っていた。私はふとユイナちゃんの体を見た。ユイナちゃんの肌は、きめ細かくて綺麗だった。あながち、スカウトされた話というのも嘘じゃないのかも知れないと思い直した。

「ねえ、お肌のお手入れとかやってるの?」

「私?してない、してない」

私が聞くと、ユイナちゃんは手を振って恥ずかしそうに答えた。

「でも、お肌に良いレシピとか、胸が綺麗に見える姿勢とか気をつけていたし、一日三十分は歩くとか、エスカレーターじゃなくて階段で上るとかはやっているかな」

ユイナちゃんは湯船から乗り出すようにして、歩が洗うのを眺めている。私は湯船から出て、歩の髪を洗ってやる。子供の頃から変らない。歩は目にシャンプーが入らないようにきつく目をつむって俯いている。頭を指でかき混ぜるようにしてやると、無抵抗に頭が揺れる。私はそれが面白くていつまでもそうしていたことがあった。歩の背中にくっつくように膝立ちして、頭を揺すってやると、俯いたまま背中を私のお腹にもたれさせてくる。

「あゆちんのおちんちんって、赤ちゃんみたいでかわいい」

ユイナちゃんは、からかうように言った。

「やだあ、ユイナちゃんどこ見てんの?」

歩は目を瞑ったまま騒ぐ。歩の体が新鮮なユイナちゃんは、どうして女の子になりたかったのかと不思議がった。でも、それは歩にも答えられないことだった。歩とユイナちゃんはお風呂の中で、まるで子供のようにはしゃいでいた。

 歩は男の子になろうとしたことがある。という表現はどうかと思うが、やはり男の子になろうと思ったのだ。私たちが十七歳になったばかりの夏だった。歩はアルバイト先にいた大学生のケンイチロウ君に想いを寄せていた。背の高い、細身の男性だった。その頃、高校生活を楽しく過ごしていた私は、随分お気楽な高校生だった。家にいるよりも、学校の友達と一緒にいる方が大事だった。家でフラフラしていた歩とは、疎遠になっていた。学校のことで頭がいっぱいだったのだ。部活もあったし、仲間と一緒にいる時間がいくらあっても足らなかった。はっきり言って、その時の私に歩の入り込む余地はなかった。歩と顔を合わせない日が一ヶ月以上になったこともあった。そのときも、六月一日に私たち二人の誕生日を家族で祝って以来、二ヶ月近く顔を合わせていなかったかもしれない。歩がどういう所でアルバイトをしているのかすら知らなかった。それくらい疎遠だった。だから、歩がケンイチロウ君のことでどれくらい悩んでいたのかも、どうして男の子になろうとしているのかも、私には分からなかった。

 明るくて社交家な歩でも、好きな男の子にはいつも告白できずにいた。それでも、歩は好きな男の子にはいじらしいほど尽くした。好きな男の子のために自分を変える姿が、女の子らしくてかわいかった。中学生の頃の歩は、好きな男の子ができると熱中した。日曜日にお弁当を作ると言って、私まで朝早く叩き起こされて手伝わされた。手慣れない私たちは約束の時間ぎりぎりまでかかってしまい、結局洗い物は全部私がやり、お弁当の残りをお母さんとお父さんに振舞うのも私がやった。私が半分作り、後片付けもし、テーブルに並べたのも私だというのに、二人から出てきた言葉は「歩が作ったの?」だけだった。マフラーを作りかけたこともある。編み物歴は私の方が半年くらい先輩で、マフラーの編み方は私が教えてあげた。けれど、飽きっぽい歩は途中で投げ出し、結局私が最後まで編んだ。歩はすでにマフラーを男の子に渡す気は無くなっていて、私が編んだマフラーはお父さんが写真館の中でしていた。バレンタインのチョコを手作りしたときは、歩は自分が渡すと相手の男の子に迷惑だからと言ってきかないので、私が代理で渡すことになった。渡すまでは想像もしていなかったのだが、学年中で私がその男の子のことが好きだという噂でもちきりになってしまい、弁解するのに苦労をした。歩の恋は実ることはなかった。それでも、歩は女の子でいることには挫折しなかった。自分を変えるつもりは全く無かった。自分の気持ちを相手に押し付けることはなかったし、もちろん告白することもなかった。男の子になりたいと言ったことなど一度もなかった。

 それだけに、歩が男の子になろうとしているというニュースに、私は衝撃を受けた。歩が本当は男の子だったのだと分かったときよりも、初恋をしたときよりも、一週間で高校を退学したときよりも、私は驚いた。お母さんは、冷奴にソースをかけ、コーヒーに塩を入れた。怖くて聞けないから、私に事情を聞いてくれと懇願した。私はアルバイトから夜遅く帰ってくる歩を待った。歩を待っている間のテレビは、どれも退屈だった。面倒くさがっていた割には、私は歩の事情が早く知りたかった。

 その日、歩が帰ってきたのは十二時近かった。歩は食卓に入って来ると、椅子に座っている私を見つけ、笑顔を作ると胸の辺りで小さく手を振った。

歩は、スカートを履いていなかった。髪は後ろで束ね、化粧もしていなかった。高校を中退してから毎日化粧をしていた歩が、すっぴんで出歩くことは確かに違和感があった。男の子になりたいと言っているという話を聞いていなかったら、驚いたかもしれない。しかし、私は驚かなかった。それくらいのことは予想していたし、髪の毛が長いままだったのが意外なくらいだった。

「歩、何があったの?」

私はぶっきらぼうに聞いた。

「ええ?愛ちゃん知っているの?」

そこに立っていたのは、私の知っている歩とどこも違わなかった。変わったのは格好だけで、性格はそれまでと少しも変わらない歩だった。

「なあんだ。全然変わってないじゃん」

拍子抜けした。

 歩は本当に男の子になっちゃうんだろうか?

 お母さんの、その不安はすごく分かった。性同一性障害だと言われショックを受け、それでも負けずに娘として育ててきた大事な息子なのだ。お母さんは、いつも楽しみにしている月曜九時のドラマにも身が入らないようだった。ところが、目の前に現れた歩は、ちょっと飾り気のない女の子なだけで、少しも男の子ではなかった。

「ええー、そうかなあ。随分変わったと思っているだけどなあ」

歩は椅子の上に膝を抱え込んで座った。

 歩のバイト先は居酒屋だった。バイトと言っても毎日じゃないし、時間も二三時間くらいで、お店の役に立っているとはとても思えないくらいだった。その居酒屋にケンイチロウ君はいる。私はケンイチロウ君を見たことがなかった。でも、想像がついた。歩が好きになるのは、決まって少し弱そうで育ちの良さそうな男の子ばかりだった。歩はケンイチロウ君がいつも一緒にテーブルを片付けてくれることや、車で駅まで送ってくれることや、嫌な客の相手を交代してくれたりしてくれることや、映画の話をしてくれることを嬉しそうに喋り始めた。

「愛ちゃんにはさあ、そのうち話そうと思っていたんだけどさあ」

歩は、膝を抱えたまま喋る。深夜の食卓は、真夏だと言うのに、どこと無く涼しかった。

「そろそろ、写真の仕事に真剣に取り組もうかなと思って、居酒屋のバイト辞めようと思っているんだよね」

私の顔を見て歩は微笑む。私は歩のその顔を見て、不覚にも笑顔を返してしまう。

「それと、歩が男の子になるのと、どういう関係があるの?」

「関係ありありなんだなあ」

「何?何?」

私は歩の術中にまんまとはまり、身を乗り出していた。テレビの中で全身タイツの芸人が、体をくねらせていた。

「ケンイチロウ君にも、もう会わなくなるなと思って、思い切って聞いてみたんだ」

「何を?」

「私のことどう思うかって」

「告ったの?」

「まあ、そんなところかな」

「で?どうなったの?」

私は歩が男の子になろうとしていることをすっかり忘れ、歩の告白話に惹きつけられた。

「断られた」

歩は真顔で言った。

「そう。どうして私に相談しなかったの?」

私はその時、どんな顔をしていただろうか。無駄なことをしたな、という顔だったかもしれない。優越感に浸った顔だったかもしれない。言葉とは裏腹に、歩の話に胸のすく思いがした。歩は自分の性が否定されるのが怖くて、一度も自分の気持ちを他人に話したことはなかったのに。いくら男の子を好きになっても、自分の想いが叶うことがないことは分かっていたのに。歩の不幸を密かに期待していた自分に、私は愕然とした。不幸な歩を見たいがために、私は夜遅くまで待っていたのだ。自分の本心が怖かった。男を取られたわけでもないのに、そんな気持ちになる自分にたじろいだ。

 もしも、私が男だったら、やはり性同一性障害になったのだろうか?ペニスが付いていることに困惑したのだろうか?あの時の歩のように、おちんちんは萎んでなくなるのだと思っただろうか。そうかもしれない。違和感を持ち、悩んだかもしれない。でもそう思えるのは、私が実際に女だからであって、最初から男だったらそんなこと思いもせず、アダルトビデオを借りて喜んでいるような気もする。

「振られることなんて、私にだってあるよ」

何故か私はそんなことを言っていた。嘘だった。私は男の子に告白なんかしたことはない。好きな男の子がいたのかどうかも怪しい。好きな気になっていただけで、実際、本当に好きだったのかは疑わしい。そう言っておいて、次に何を言えばいいのかさっぱり見当がつかなかった。またいい人が現れるよ、とでも続けるつもりだったのか。そんなことあり得ないこともわかっているのに。私は自分が一番わからなかった。

「女の子に興味無いって、言われちゃってさ」

「へ?」

「だから、男にしか興味ないんだって。ケンイチロウ君は」

歩が惚れた男の人は、ゲイだった。

「歩ちゃんは女の子じゃないけれど、男の子でもないでしょう。僕は身も心も男でいる人が好きなんだ」

ケンイチロウ君のモノマネなのか、歩は太い声を出し身振りを大きくして言った。

「って言われちゃってさ」

歩は両手を広げたところで身振りを止め、私を見て微笑んだ。

「何それ?ケンタロウ君の真似?」

「愛ちゃん、私の話全然聞いてないなあ。ケンイチロウだよ」

力が抜けた。結局、歩が男の子になりたかったのは、いかにも女の子らしい理由だったのだ。相手の好みに自分を合わせようとしていただけだった。相手に合わせる、かわいらしい女の子を演出していたに過ぎなかった。それから歩はジーンズにTシャツで、化粧をせずに一週間過ごした。

 ケンイチロウ君を一目でもいいから見たい、とお母さんが言い出して、お父さんとお母さんと私の三人は、歩がバイトをする居酒屋へ行った。そこで見たケンイチロウ君は、痩身で背が高くて、優しい感じのするどこにでもいる男性だった。ゲイだと聞いて私が想像していたケンイチロウ君は、筋骨隆々で黒い皮革で身を包んだ男だったので、正直言って拍子抜けした。

「歩はなかなか見る目があるわねえ」

お母さんは歩が好きになった男性を見て、どういうわけか安心していた。ゲイは見た目では分からない。それが、この事件で私が得た教訓だった。

 歩はやっぱり男の子になりきることはできなかった。ケンイチロウ君のことは、それ以来話題に上らなかった。男の子になることを挫折した理由もまた、女の子らしいもので、何もかもが拍子抜けする事件だった。理由は、化粧をしないと恥ずかしいということと、髪の毛を切る決心が付かなかったことと、男子トイレに入ることが出来なかったことらしかった。お母さんは、女の子のままでいる歩に、本当に安心していた。

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