第4話

 退社時間には、天気予報どおり雨になった。私は折り畳みの傘をさし、駅から家までの道のりを歩く。雨足が強く、スニーカーに雨が染みてくるし、ジーンズの裾も水分を含んで重かった。雨の日は、いつもよりも家が遠い。やっとの思いで家にたどり着くと、夕飯の暖かい香りがした。

「あ、愛ちゃん?お帰りなさい。悪いんだけど、駅まで傘もって歩を迎えに行ってもらえない。あの子、傘持ってないんだって」

味噌汁の香りの向こうからお母さんは喋る。

「ええ、私があ?いいじゃん、濡れて帰って来れば」

駅から家までは、歩いて二十分はかかる。その道のりを今、私は雨に打たれながら帰ってきたのだ。暗い玄関の靴箱に引っ掛けてある傘を見つめた。

「いいじゃない。お母さんご飯作ってるから行ってあげられないのよ」

「だから、行かなくたっていいじゃん。私だってびしょ濡れなんだよ」

私は玄関に突っ立ったまま、大声で言い返す。

「じゃ、お母さんの車乗ってっていいから。お願いね」

「ええ、くるまあ。もう」

私は語尾を荒げて言うと、バッグを投げ捨てて玄関を出た。雨は弱まるどころか一層ひどくなっていた。私は迷ったあげく、お母さんの車で行くことにした。

 私には、できれば避けたいものベストテンがある。小さい頃から入れ替わってきたそれらは、現在のところ会社の慰安旅行や、忘年会、給湯室の会話、好きな男のタイプを発表しあいながら頷きあう同僚とのランチなどが上位を占めるが、それらと並んで三位に食い込むくらい、私は車の運転が嫌いだった。しかも雨。エンジンをかけ、ギアをドライブに入れる。それだけで、ハンドルを握る手に力が入り、汗ばんでくる。前が見難いことに気づき、ワイパーのスイッチを探した。良く考えたら、雨の日に車を運転したことがなかった。知らず知らずのうちに、嫌なことは避けて通って来たのだなと反省しつつ、ワイパーのスイッチを探した。しばらく探し回ったあげく、やっとの思いで探し当てたワイパーのスイッチは、みれば当たり前の場所にあり、そんなことも思い出せないほど、車の運転から遠ざかっていた自分に驚いた。恐る恐るアクセルを踏む。動く車に動揺し、ブレーキを踏んでしまった。しがみつくように、ハンドルを握った。車がゆっくりと車庫から出た。きっと、歩はファーストフード店かなんかで、コーヒーでも飲んでいるに違いない。雨に濡れない涼しい場所で、化粧を直しているに違いない。

 赤信号で止まったところで、私はバッグを玄関に放り出したことを思い出し、免許証を持っていないことに気がついた。どっと疲れが出た。いつもそうだった。私はこうやって、歩のお守りをしてきた。遠足のお菓子を食べてしまった歩に自分の分を半分渡し、街で財布を落とした時も、お金を持って迎えに行った。お母さんは、歩の味方だった。母親参観日も、歩のクラスにしか行かなかった。いつも私が我慢をした。歩は特殊な子だから、それだけでもハンディを背負っているから、親が目をかけてあげないと心の中が空洞になっちゃうといけないから。お母さんは、よく私にそう言った。愛ちゃんは普通に生まれてきて幸せなんだから、とも言った。私には歩の方が幸せに見えた。歩が特殊なのは、性同一性障害ということだけで、それは人間のある一面に過ぎないのではないかといつも私は思っていた。例えば、人見知りする性格で私の方がハンディを背負うことはないのか、小心者で頼まれたら断われず、お菓子を半分取られ、街までお金を持っていってやり、母親参観日に寂しい思いをしても黙っている私は、弱者ではないのか。かわいいね、と言われる歩の隣で、黙って俯いている私の心の中は空洞にはならないのか。お母さんに歩のことを頼まれる度に、私はそう思ってきた。

 駅前に着くと、歩は大きく手を振って私に合図した。駅前の通りには路肩に車がびっしりと止まり、バス停の前だけが空いている。私はバス停を通り過ぎ、車を寄せようと試みるが、その前後にはタクシーがお行儀よく並んでいて、とても私の運転では駐車できそうにない。雨に濡れないように屋根の下から手を振る歩がバックミラーの中に小さく見える。これ以上寄せることはできないし、バックすることも無理だ。もう一度、バックミラーを見た。

 歩は女の子を一人連れていた。二人がこちらに向かって駆け出してくる。二人を待つ私に、後ろの車がヒステリックにクラクションを鳴らす。よく見ると、左車線を塞ぐように斜めになって、私の車は止まっていた。路肩に並ぶタクシーに、覆い被せるように駐車している。タクシーも身動きが取れなくなっていた。後続車は、しつこくクラクションを鳴らし、タクシーの運ちゃんには睨まれた。

「ちょっと、愛ちゃん迷惑だよお」

歩は女の子と一緒に大急ぎで乗り込む。女の子は愛想の良い声で挨拶をした。私も釣られて愛想良く返事をしていた。でも愛想が良いのは声だけで、私は再び能面のような顔でアクセルを踏む。

「ねえ、そこで止めるから歩が運転してよ。私、免許証置いてきちゃったんだよね」

「いいよ。じゃ、その辺で止めてよ」

歩はそう言って運転を代わると、ハンドルを軽く回した。助手席に座った私は、後部座席に座った女の子を振り返り、改めて挨拶をした。女の子は目が歩と変わらないくらい大きくて、黒いショートヘアが良く似合う女の子だった。

「コジマユイナって言います」

女の子はしかつめらしく挨拶をした。

「スタジオで一緒の子?」

歩が友達を連れてくるのは珍しかった。

「私、モデルやっているんです」

「へえ、モデル。どんなモデルさんなの?」

ユイナちゃんは、私のモデルのイメージとは違った。モデルと言えば、背が高く、マッチ棒のように痩せているイメージしか無かった。けれどユイナちゃんはの背は、どう見ても私と同じくらいだったし、体型も普通だった。

「ヌードモデルです」

「へ?」

「あっ、ビックリさせちゃいました?ヌードモデルだって言うと、みんな反応がいいんですよね」

もう一度振り返って、ユイナちゃんを見てみたい衝動にかられたが、あまりにも露骨に思えてできなかった。

「今度さあ、スタジオのみんなで作品展開くことにしたんだけどさ」

歩は運転しながら言う。

「私たちの撮影を手伝ってもらう、アシスタントなんだ」

ワイパーがフロントガラスを行ったり来たりする。雨が激しくなってきて、車線が見づらくなった道路を歩は軽快に車を走らせる。

「なあんだ、ヌードモデルじゃないのか」

「お金無くて、アパート追い出されちゃったんだって。全然アルバイトも見つからないらしくてさあ。それで、家にしばらく泊めてあげようかなって思って」

「お母さんとお父さんは知ってるの?」

「ううん。帰ったら話そうと思ってる」

見たところ荷物を全然持っていないが、身の回りのものはどうしたのか、この子は信用できる子なのか、誰の部屋で寝るのか、それがどれくらいの期間になるのか、気になることがたくさんあったが、本人の前でこと細かく聞くわけにもいかないのがもどかしかった。

 バスの運ちゃんみたいに、歩は右手の掌でハンドルをゆっくりと回している。こんな風に撮影現場まで車を走らせているのか、と歩を見直してみる。意外と仕事もきちんとやっているのかもしれない。歩も真剣な顔をして、ファインダーを覗くのだろうか?被写体が見せる最高の瞬間を切り取ることができるのだろうか?歩はどんな顔をして被写体を見るのだろう?歩がカメラを構えて、美人なモデルさんを狙う姿を想像してみるが、うまくできなかった。車のオーディオからはお母さんがセットしているのか、倖田來未のキューティーハニーが流れていた。

「愛ちゃん、免許証くらい持って来ないとダメだよ」

歩は悪びれた風もなく言う。私は返す言葉を失い、ミニスカートから伸びる歩の細い脚を見つめていた。歩の脚がアクセルを踏む。エンジンの小気味いい音が鳴る。私の運転とはエンジンの音まで違うように聞こえるのが不思議だった。

家に帰ると、夕飯はすっかり出来上がっていた。お父さんも食卓に座り、私たちを待っていた。

「愛ちゃん、ありがとうね」

「うん」

ごはんを装いながら言うお母さんに、私は一言だけ返事をして濡れた服を着替えにゆく。玄関に投げ出した自分の鞄を拾い、階段を上がる。階段は薄暗く、私はこの闇の中に吸収されてしまって、どこかへ行ってしまうのではないかと思えた。食卓からユイナちゃんに驚き、歩は濡れなかったかと、心配するお母さんの声が微かに聞こえた。

 夕飯が終わると、何故か歩とユイナちゃんは私の部屋にいた。ユイナちゃんは構わない性格なのか、ミニスカートなのに胡坐で座り、私は顔を背けた。男に振られた時の話をしているようだ。

「で、彼氏の部屋に行ったら、私が買ったベッドの上でその女が寝ててさあ。そんなことって、ドラマとかの話じゃん。普通なくない?」

ユイナちゃんは、若い子独特のイントネーションで、ポテトチップスを齧りながら一人で喋っている。私も昔はあんな喋り方したな、と考えながらユイナちゃんの口元を見つめていた。歩は頷くばかりで、聞いているのか聞いていないのかわからない。

 歩が聞いていようがいまいがかまわず、ユイナちゃんからは芸能プロダクションにスカウトされた話や、玉の輿に乗り損なった話など、嘘か本当か分からないような話が次々と出てきた。ユイナちゃんの話は、それこそテレビドラマにあるようなものばかりで、奥行きがなく、すべて途中で終わってしまった。薄っぺらく部屋の中を浮遊するその話を聞かされ、私は困惑した。まだ挨拶程度しかしていない女が、どうして私の部屋で居心地良さそうに自分の話を語っているのか、うまく飲み込めなかった。その適当さが理解できなかった。

「お風呂入って来る」

私はユイナちゃんの話と存在にすっかり食傷ぎみとなり、ベッドから立ち上がった。

「私も一緒に入る」

歩が私の服を引っ張った。床に座る歩を見下ろすと、少し茶色くなった髪が蛍光灯の光を柔らかく反射していた。久しぶりに歩の髪を洗ってあげたい気分になった。

「え?一緒に入るの?」

ユイナちゃんは丸い目をさらに大きく開いて言う。

「ユイナちゃん、ちょっとここで待っててくれる?」

歩は立ち上がり、私の腕に自分の腕を絡ませて来る。

「いつも一緒に入るの?」

ユイナちゃんは、ポテトチップスを齧るのを止めず、珍しいものを見るように歩と私を見つめた。

「いつもじゃないよ」

歩は私の引き出しを開けながら言う。歩が私の引き出しから下着を取っている現場を初めて目撃した。こうやって歩のものになっていくのかと思いながら、私は手を差し出す。歩は私の下着を選び、これでいい?と目で確かめてくる。私も目で頷いた。

「私も……」

何かを言いかけたユイナちゃんを、私は上から見下ろした。ユイナちゃんは、飼い主に置いて行かれるのが信じられない子犬のような丸い目で、私を見ていた。

「私も一緒に入ってもいい?」

さっきまで胡坐をかいていた脚は閉じられ、ポテトチップスを掴んでいた手は膝の上に置かれていた。歩に負けないくらい大きい目で訴えて来るユイナちゃんは、かわいかった。そのかわいさに断ることができず、頷いてしまった。

「でも、家のお風呂、狭いんだけど……」

歩は心配そうに言った。

「くっついて入ればいいじゃん。面白そう」

ユイナちゃんは、はしゃぐ。歩がまだ卸していない私の下着を彼女に渡した。どうしてそんなものの在りかまで歩が知っているのかと、疑問に思いつつ部屋を出た。後ろではしゃぐユイナちゃんの声を聞きながら、三人が体を洗う順番と、湯船に浸かる順番とを頭の中で組み立てながら階段を下りる。

「え?三人でお風呂に入るの?」

お母さんの裏返った声が脱衣場まで聞こえてきた。

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