第3話

 歩は下着だけではなく、服も私のものを着たがった。自分の性別がはっきりした後も、女の子だと言って譲らない歩に、私は驚いた。恐怖さえ抱いていた。女の子に生まれた私を、歩は恨んでいるのではないかと恐れた。どうやって歩と対峙すれば良いのか分からなかった。何を言ってもきかなかった歩に、親は手を焼いた。お父さんもお母さんも相当困ったとは思う。歩はとにかく私のものを欲しがり、取り上げた。その姿を見て困り果てたお母さんは、怒るどころかスカートを履かせていた。そんな親を見て、私は力が抜けた。この親に育てられたのでは、自分が駄目になるとさえ思った。




 小学校に入ると、歩はスカートを履かなくなった。苛められることを気にしたお母さんが、絶対に許さなかったからだ。その代わり、シャツは好きなものを選ばせてもらっていた。スカートの代わりはズボンではなく、ホットパンツやキュロットだった。

 そんな歩の様子を見て、お母さんやお父さんが歩を男の子として育てることを全く諦めてしまったかと言うと、そんなことはなく、お父さんは野球やサッカー教室に通わせたり、男の子用の服を買い与えたりしたが、いつまで経っても歩は私のパンツしか履かなかったし、服も女の子っぽいものしか着たがらなかった。野球もサッカーも喜んではいたが、男の子しかいなからと言ってすぐに辞めてしまった。

 小学三年生のとき、とうとうお母さんは歩を医者に連れて行った。私は隣でお母さんの手を握り、歩が女の子になれますようにと祈っていた。お医者さんに頼めば、歩は女の子にしてもらえるのだと思っていた。そうすれば、歩が私のものを持っていくこともなくなるし、歩が特別扱いされることもなくなるのだと期待していたのだ。だから、お母さんは歩を病院に連れて来たのだと思っていた。

「性同一性障害かもしれませんね」

医者はそう言った。診察室は、私が知っている病院のそれとは全く違っていた。明るい清潔なリビングのようだった。医者は白衣を着ていなかった。顔の表情は、窓から注がれるオレンジ色の光が目に眩しくて、あまりよく分からなかった。

「それは、病気なのでしょうか?治るのでしょうか?」

恐る恐る聞くお母さん手は、少し震えていた。私は高すぎる椅子の上で、宙に浮いた足を前後に揺らしていた。今でこそ、性同一障害という言葉は広く知られているが、当時は親でも聞いてことがない言葉だった。

「いや、病気じゃありません。性同一性というのは、本人が自分自身の性別をどうみているかが問題なんです。つまり、自分が男性、女性、あるいはその中間のどれであると考えているのかということが大事なんです」

医者が言った言葉で、その時の私が理解できたのは、それくらいだった。その後、医者は難しいことを延々と喋り続けた。何かと何かが一致するとか、しないという話をしていた。

「治るのでしょうか?」

「いや、様子を見るしかないです。しばらく本人の思うようにさせてみても良いかもしれません。第二次性徴が始まる頃にまた変わるかもしれません」

お母さんが訊くと、医者は特に残念そうな顔もせず、そう言った。私は、歩が女の子にしてもらえるわけではないのだと分かり、がっかりしたことだけを憶えている。それから医者は、お人形遊びを男の子がしてもおかしくないとか、サッカーを女の子がしてもいいとか、訳のわからないことを言っていた。

「それは病気ではなく、個性の問題です」

最後に医者は、歩は病気ではないのだと強調していた。お母さんは医者が感情を込めず、事務的な対応しかしないことが気に入らなかったらしく、未だにその時の医者の悪口を言う。結局、医者もこれといった診断も解決策も打ち出せなかった。

 それからだ。親たちは、歩を甘やかすようになった。特別な運命を背負ってしまった子だと思うようになったのだ。それだけならまだしも、私は歩を助けて生きてゆかなければならないのだと、何度も何度も繰り返し言われ、摺り込まれた。お母さんやお父さんは、愛ちゃんと歩よりも早く死んじゃうんだから、最後は愛ちゃんが歩を守ってやらないといけないのだと言われ続けてきた。

 その後、歩は男の子としての自我に目覚めることはなかった。その癖、遊ぶときは男の子に混じりサッカーや野球をやり、秘密基地へ探検にゆき、公園で木登りなんかもした。そんな歩を見て、なんだ男の子だと思ってんじゃないか、と私はよく思ったものだ。歩は女の子同士で大人しく遊ぶ子供ではなく、男の子とも女の子とも分け隔てなく仲良く遊ぶ活発な女の子のような男の子だった。親が男の子を押し付けなくなってから、歩は他人から何を言われても怒らなくなった。

 中学生に進学する頃には、お母さんもお父さんも子供を性別で分けて考えるのはやめようとか、個性を大事にしようと口に出すようになっていた。私はそのパラダイムチェンジに正直言って驚いた。できるかそんなこと、と心の中で鼻白んでいたが、実際にやってみると別段難しいことは何もなかった。私自身の生活の中で、歩を男だとか女だとかと線を引いて考えなければならないことは殆どなかったのだ。ただ双子の姉弟なのだという感覚しかなったから、驚いたわりには私が一番順応していた。小さい頃から一緒にトイレにも行っていたし、お風呂も一緒だったし、寝るのも一緒だった。特に変えなければならないことなど最初から何も無かった。お母さんはすっかり気持ちを切り替えた。お茶とお華の先生をしている彼女は、歩にも教えはじめた。

 中学生になってから、歩の私服はスカートになった。私たちが通った中学校は校則が厳しい方ではなかったが、男の子は髪の毛を伸ばせなかったし、制服は金ボタンの学ランだった。学校へは制服を着て行かなければならないので、家では羽を伸ばすように自分が着たい服を着た。学ランのお陰で、私服は自由に選べることになった歩は、狂ったようにかわいい洋服を買ってもらっていた。土日の度にお母さんと一緒に洋服を買いに行った。歩が買ってもらう服はどれも雑誌から抜け出したようなものばかりで、私は閉口した。

 歩は学校から帰ってくると、一体誰を助けにいくのかと問い質したくなるほどのスピードで、服を着替えた。歩は明るい性格だったので、遊ぶ友達はたくさんいた。同級生は皆、歩を女の子として扱ってくれていた。不思議なことに苛めに合うことはなかった。みんな歩の個性を認めてくれていた。むしろ、歩の存在のお陰でクラスはまとまっていた。歩の友達には気の強い女の子もいれば、地味な男の子もいた。歩の周りには様々な子が集まって来た。私は歩と同じクラスになったことはないので、教室の中の歩を知っているわけではないが、歩は人気者のように見えた。私はそのことをよくお母さんやお父さんにこっそり報告し、二人を安心させていた。

 歩が通った高校は、制服の着用を義務付けてはいなかった。と言うか、制服を着なくてよいという理由で歩はその高校を選んだ。だから、当然、歩は私服で通学した。ところが、新学期が始まって一週間も経たないうちに、両親は学校から呼び出された。お父さんもお母さんも歩のことを必死に説明したが、歩の状況は了解してもらえたものの、理解は示してもらえなかったようだった。制服は着なくてもかまわないが、男子生徒がスカートを履いてくるのは感心できない。それが担任の言い分だった。

「制度を逆手にとっているって言うのよ。別に反抗してやっているわけじゃないのにねえ」

学校から帰って来たお母さんは、上着を脱ぎながら先生を責めた。

「あんな学校なんて辞めてしまえ」

ソファに寝転んでお父さんが言った。歩の退学は、あっさりと決まった。歩の高校生活はたった一週間で終わった。歩の将来を誰よりも心配しているお父さんが、高校を退学させたのは予想外だった。高校は卒業して当然だと思っていた私は愕然とした。歩の個性は、スカートを履くことなのか?化粧をすることだけなのか?そんなこと我慢したって、高校は卒業した方がいいって言うのが親なのではないか、と思っていた私は、ちょっとしたショックを受けた。歩はそれくらい我慢できたし、高校に行くことを楽しみにしているのだと思っていたので、その決断に違和感を持った。けれど、私は何も言わなかった。本当は両親も私も知っていたのだ。高校の先生に否定されたのは、歩の個性ではなかった。両親の考え方だった。歩に性同一性障害のレッテルを貼っているのは、世間ではなく自分たちなのだ。歩が何かを言われたら、それを全て性同一性障害のせいにしてきたのは両親だったのだ。自分たちが傷つきたくないから、小さい頃から先回りして、歩を守ってきたのだ。私は歩を守っていたのではなく、両親のなけなしのプライドが傷つくことがないように、歩を見張っていたに過ぎなかったのだ。お父さんも、お母さんも、理解のない高校に歩を通わせたくなかったのではない。自分たちを否定した高校に、何も言い返せなかっただけなのだ。

 高校を中退してからすぐに、歩は女性ホルモンを処方してもらうために精神科に通った。女性ホルモンは、副作用などが未だによくわかっておらず、服用するのはあまり薦められないと医者は言った。できれば面倒なことに関わりたくないのか、本当に女性として生きていく気があるのかどうか時間をかけて確かめたいと言ったらしい。歩とお母さんはその精神科を諦め、幼い頃からの掛かりつけの町医者を訪ねた。その医者は私たちが小さい頃からおじいさんで、もう八十は越えているのではないかという歳だ。だからなのか、歩を不憫に思ったのかは分からないが、予想に反してあっさりと女性ホルモンを処方しても良いと言ってくれた。それでも、半年は様子を診てみる必要があると言われた。肝臓が悪くなることがあるとも言われた。性同一性障害のガイドラインが施行されたのは、それから一年後のことだった。

 女性ホルモンの効果は、目を見張るものがあった。まず、髪の毛が柔らかくなった。肌もすべすべでしっとりしてきたし、二の腕は女の子としか思えないほど柔らかくなっていた。女の私から見ても、羨ましいくらいだった。女性ホルモンは、こんなにも効くものかと目を疑った。

 私たちは高校生になってからも、一緒にお風呂に入っていた。歩が一緒に入りたがったのだ。だから、歩の身体の変化は良くわかった。何よりびっくりしたのは、胸が膨らんできたことだった。ホルモン剤を服用し始めて半年後くらいには、Aカップくらいにはなっていたのではないだろうか。もともと、女の子として生活してきた歩は胸板が薄く、胸が膨らむと本当に女の子の体になった。

 歩のペニスには、男性としての能力はもう無くなっているのだと聞かされた。私は小さい頃のように、歩のペニスを観察した。でも、外見からは、変化は分からなかった。医者によると、半年以上女性ホルモンを服用すると、もはや精子を作る能力を失うものらしい。しかも、女性ホルモンの服用を止めても元に戻ることはないのだそうだ。途中で止めると、更年期障害のような症状が出ると言われた。歩は一生女性ホルモンを服用し続けなければならなくなったのだ。そんなもの飲まなくたって、歩は十分女らしかった。歩らしく存在していた。体を痛めつけてまで、見た目にこだわる必要はないと私は思っていた。しかし、歩は女性になることに貪欲だった。女性ホルモンを服用し続ける人生を選んでしまった。時々、副作用なのか、歩は体調を崩した。吐き気と頭痛に苦しんだ。その度、止めた方がいいと言いそうになるのを私は堪えた。歩は決して弱音を吐かなかった。悲しいくらいに、女の子でいることにひたむきだった。そのままでいいじゃないかと思うのは、性別に違和感を持たない者から見た、何処までいっても他人事でしかないと分かったのだ。今までの歩でいいと思うのは周りの人間だけで、これからも歩が歩で居続けるためには、それは必要なことだった。

 ただ、体毛だけはなくならなかった。もともと濃い方ではなかったから、足も腕もヒゲもほかっておいても気になるほどでもなかったが、歩は自分の体毛を忌み嫌った。首から下の毛という毛を脱毛していた。レーザー脱毛に行っては「痛い痛い」と言っていた。自分の体が未完成品であると思っているのか、女性ホルモンでも解決できない体毛を脱毛することで、自分が完全に女の子になれると自分自身を納得させているようだった。

 女性ホルモンを服用し始めた頃から、歩はお父さんの写真館を手伝ったり、アルバイトをしたりするようになった。私はその様子をみて、すっかりそのまま仕事を見つけて働き始めるのかと思っていた。ところが、高校三年生になる年、歩は大学に行きたいと言い出し、予備校の高卒資格認定コースに通い、さらに一浪して大学生となった。

 よく考えてみると、歩の人生は普通だった。小学校でも中学校でも苛めにもあわず、先生にも守られて楽しく過ごし、高校は中退したものの、大学へは進学し、今もキチンと仕事をしている。親は、歩が惨めな思いをしないようにと何かと庇うのだが、私から見れば全然普通だった。普通すぎるほど普通だった。生まれたときから常に隣にいた歩は、私にとって特殊な個性でもなんでもなかった。

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