第2話

 朝起きると、歩の顔が目の前にあった。カーテンが閉まった部屋の中で、目を凝らしてみる。柔らかく閉じたまぶたの先で、長い睫毛が休んでいた。規則正しい寝息が聞こえてくる。手は、私のパジャマ掴んでいる。

 歩はよく私のベッドにもぐりこんでくる。昔からそうだった。歩は寂しがりやで甘えん坊だった。大人になった今も、歩はよく私のベッドにもぐり込んでくる。私はまたかと思いつつも、パジャマを掴む手がかわいくて歩の髪の毛をそっとなでる。歩はよほど良い夢を見ているのか、気持ち良さそうに寝ている。私は歩を起さないようにそっとベッドを抜け出し、足音を殺しながら部屋を出た。シャワーを浴び終えてから適当に選んで持ち出した服を見て、下着を忘れたことに気がついた。自分の部屋に取りに戻ろうとしたが、ふと歩の持っている下着が気になり、歩の部屋で漁ることにした。

 歩の部屋に入るのは久しぶりだった。雑然としてどこに何があるかわからない。歩は私の部屋によく出入りするが、私はほとんど彼女の部屋に入ったことがない。歩の部屋は、そういう躾をきちんと受けてこなかったせいなのか、そもそも片付ける能力がないのか、とにかく汚かった。昔から部屋を片付けるのは私の役目だった。中学に行くまで、今の私の部屋が二人の部屋だった。歩はいつも、折り紙や画用紙を広げ、ブロックやお人形を思いつく限り登場させてから遊んだ。遊ぶというよりは、自分の所有物の存在を確かめて満足しているように私には見えた。新しく買ってもらった玩具も、遊ぶのは最初だけで、あとは所有物でしかなかった。もちろん、並べることに意義があるので、片付けるということは歩の頭の中にはなかった。散らかすだけ散らかして、プイとどこかへ行ってしまうのが常だった。私はその散らかった部屋の中で、いつも一人でそれらを定位置に戻していった。だから、私はいつも自分の部屋が欲しいと親にごねた。自分が自由にできる部屋が欲しかった。

 私の願いは、なかなか聞き入れられることがなく、中学に上がるときにようやく部屋を分けてもらえた。お母さんがお父さんと同じ寝室になることで、部屋を空けてくれたのだ。お母さんの部屋は、私たちの部屋よりも広く、東側の窓から柔らかい光が差し込んで、とても居心地が良さそうに見えた。私は、自分のものになるであろうお母さんの部屋を眺めては、机やベッドの配置を考え、小物たちの置き場所を練った。ノートに書いた配置図は、数え切れないほどだった。

 ところが、お母さんの部屋をあてがわれたのは歩だった。部屋を散らかすのは歩なのに、片付けるのは私なのに、別々の部屋が欲しいと訴えていたのは私だったのに、歩はお母さんの部屋で、私は壁に歩の落書が残る子供部屋だった。だから、私は歩の部屋には入らなかった。

 押入れを開けると、カラーボックスがあった。下の段に目星をつけ開けてみると、やはり下着が押し込んである。私は裸のまま歩の下着を物色した。

「いいのもってんじゃん」

小声で呟いてみる。不思議なもので声にだしてみると、悪事を働いているという臨場感が沸いてくる。水色のチェック柄の下着を両手で掴んで持ち上げてみる。まるで下着泥棒のような気分だった。他人の下着を見るのは、意外と楽しかった。かわいい下着を次々と物色した。

「こんなにカワイイの持っているのに、私のを持っていくとは許せんな」

もう一度、小声で一人ごちる。どうして小声なのか、自分でもわからない。歩の化粧品も物色してみる。

「あいつ、私より高いの使ってんじゃん」

私は歩の下着を身につけながら声に出す。小声を出すはずが、声が裏返り、自分で自分の声に驚いた。声に出すほどのことかと自分に突っ込みを入れながら、下着姿でドレッサーの前でポーズをとってみる。

「なかなか、カワイイじゃん」

十代の頃とは違う自分の体を見て鼻白んだ。歩の化粧品で顔を整え、一階に降りていくと、お母さんはすでにコーヒーを飲んでいた。

「歩の分も残しておいてあげてね」

コーヒーサーバーを手に取る私に、お母さんはテレビから目を離さずに言う。ああそうですか、そうですか、と心の内で毒づきながらコーヒーを啜った。

 お母さんは、歩を中心にして生きている。歩が性同一性障害であると分かった日から、歩を大事にし始めた。心は女の子だったのに、きちんと女の子の身体に産んでやれなかったことを引け目に思っているのか、とにかくお母さんは歩に甘かった。

 天気予報を見て、私は家を出る。朝の爽やかさはどこにもなく、生暖かい空気が首にまとわりつく。本当に夜に雨が降るんだろうなあと、絵の具で塗ったような青い空を仰ぎながら私は駅に向かった。

 歩は幼い頃から、女の子によく間違われた。大きくて丸い目は、憎たらしいほどかわいかった。私たちはどこへ行っても、かわいいね、と言われる子供だったが、ほとんどの人が歩に話しかけていることを私は知っていた。歩は大人好みの子供らしい笑顔を作るのが得意だった。おしゃまで、人見知りしない愛想の良い子供だった。公園で、スーパーで、お祭りで、遊園地で、お嬢ちゃんいくつ?と何度聞かれたことだろう。その度、私は答えようとするのだが、大人たちが私ではなく歩を見ていることに気づき、声を出すことができなかった。勝ち誇ったように、歩は警戒心を解いたような笑顔を振り撒くのだった。お嬢ちゃんは私なのに、女の子は私なのに、そう思う私を置き去りにし、歩は大人たちへの返事を譲らなかった。

 歩は幼稚園の頃から女の子用のパンツを履くことにこだわった。当たり前だが、最初はお母さんもお父さんも、歩が自分のことを女の子だと思っていることに気づかなかった。だから、服も下着も歩には男の子用のもの、私には女の子用のものを与えていた。歩は自分のパンツと私のそれとが違うことに気がつくと、私のものを履くようになった。ミニーがついたパンツを二人で取り合ったこともあるらしい。喧嘩しないように、お母さんはミッキーがついたブリーフを買ってきたのだが、歩は「愛ちゃんのがいい」の一点張りだったらしい。私は私で、歩がこだわるものだから引っ込みがつかなくなり、「ミニーちゃんじゃなきゃ履かない」と駄々をこね、結局それでも、私が歩のミッキーつきのブリーフを履いて寝たのだそうだ。その時は、まさか歩が自分のことを女の子だと思っているとは、思いも寄らなかったらしい。もちろん、その時の記憶が私にあるはずがないのだが、何故か私はその光景を鮮明に憶えている。お母さんから何度も歩の話を聞かされた私には、自分の記憶なのか、後から形成された知識なのかわからない記憶がたくさんある。

 歩は幼い頃から私のものを欲しがったり、私の真似をよくした。とにかく私と同じでないと納得しない子だった。だけど、それは幼い子にはよくあることで、そのうち男の子としての自我に目覚めるだろうくらいに親は思っていたようだ。それが大きな間違いだと気がついたのは、幼稚園の年長さんの時だったと聞いている。幼稚園では男の子と女の子をはっきり意識させるような教え方が多かった。男の子の番、女の子の番、男の子はこっち、女の子はそっち、男の子の遊び、女の子の遊び、男の子の服、女の子の服、その度に、歩は女の子の方を選んで譲らなかった。先生から相談事がある、と言われたお母さんは心底驚いたのだそうだ。そりゃ、そうだろう。まだ幼稚園児なのに、あなたの息子はオカマかも知れない、と言われたのだから驚かない方がどうかしている。お父さんの話によると、その日お母さんは、歩のことを珍しいものでも見るように眺めていたのだそうだ。

 歩は昔、おちんちんは大人になると無くなるものだと思っていた。歩はいつも、自信たっぷりにそう言っていた。だから、私もそうなのだと信じていた。歩は成長が遅い子で、そのうち私と同じようになるのだと思っていた。初めて歩からその話を聞いたときは、驚いたというより感心した。歩は物知りなのだと思っていた。温かいお風呂の中で、私は歩の説に感心していた。

「愛ちゃんになりたいな」

私たちが幼い頃の歩の口癖だった。歩は私の裸を見るのが好きだった。お風呂でいつも私の体を羨ましがった。

「いつになったら、愛ちゃんみたいに無くなるんだろう?」

「えー、それなくなるの?」

私は驚いて歩に聞いた。

「無くなるに決まってるじゃん。だって、愛ちゃんは無くなっているじゃん」

私は自分の股間を覗いて見た。確かに私には歩についているようなものはなかった。

「じゃ、それなに?」

「おしっこするところじゃん」

「じゃ、おしっこはどうするの?」

私がそう言うと、

「愛ちゃんと同じになるんじゃん」

「そっかあ。そうだよね」

歩は当然のように言った。私は、それまで歩は男の子だと思っていたので、歩の発言にそれはもうびっくりした。心底驚いた。でも、それを悟られると歩を傷つける気がして、私はポーカーフェイスに徹していたのだった。

 相当衝撃だったのか、私は今でもその会話を鮮明に憶えている。その時の私には、誤魔化すのが精一杯だった。誰に何を誤魔化そうとしているのかすら分からなかった。それ以来、私は本気で歩は女の子なのだと思うようになった。本当にそのうち股にぶら下がっているものが小さくなって、無くなってしまうのだと思うようになっていた。そして自分もその痕跡が残っているのではないかと、股間を見つめたものだった。自分の記憶が届かない赤ちゃんの頃に、それは小さくなって無くなったのだと思うようになっていた。

 それからというもの、私は毎日お風呂で、歩のおちんちんが小さくなって無くなるのを観察し続けた。でも、それが間違いであるということは、意外と早く発覚した。

 幼稚園にカイト君という男の子がいて、その子と喧嘩になったのだ。喧嘩の理由は、歩が男の子か女の子かだった。その時、歩の自信満々の「おちんちん萎んでなくなる説」を信じていた私は、歩とともにカイト君と戦った。でも、カイト君の説は明快だった。

「男はおちんちんがあるけど、女には無いんだよ。だから、おちんちんが付いているアユムちゃんは男なんだよ。だから、お父さんにはおちんちんあるじゃん」

カイト君の言い分は理路整然としていた。それは、私がそれまで薄ぼんやりと思っていたことだった。お父さんのおちんちんは、男だから残っているのではなくて、おちんちんがあるから男なのではないのかと。どれだけ待っても萎まないおちんちんを見ながら、思っていたことだった。

「そんなことないよ。あゆむは女の子だけど、おちんちんあるもん」

歩は相変わらず、何の根拠もないのに自信たっぷりだった。

「小学生になったら、萎んで無くなるんだよ。カイト君も今は男の子だと思っているけど、ひょっとしたら女の子になっちゃうかもしれないんだよ」

歩のあまりにも自信たっぷりさに押されたのか、ひょっとしたら本当に自分も女の子になってしまうのかもしれない、と思ったかどうかはわからないが、カイト君は黙った。

「愛ちゃんは、もう萎んで無くなっているんだよ」

歩はなおも続けた。

「だって、うちのお母さんが、歩ちゃんは本当は男の子だって言ってたもん」

カイト君は自分が女の子になってしまうかもしれないという歩の説に恐怖したのか、そう言い放って走って逃げていった。この事件は、私には一生忘れられない。私の中にあった、歩は本当は男の子なのかもしれないという疑惑が確信に変わったときだからだ。私のおちんちんはいつからあって、いつ無くなったのか。私には全然記憶がなく、それでも歩は私にもあったはずだと言い切っていて、私はその度、何か釈然としないものを感じつつも、歩の説を信じていた。

 私の疑惑を確信に導いたのは、カイト君の「お母さんが言っていた」の一言だった。そうなのだ。うちの両親は、歩の性別について何も触れなかった。私は事あるごとに「愛ちゃんは女の子だから」「双子だけど、愛ちゃんがお姉さんなんだから」と、お母さんから言われていた。けれど、歩には言わなかった。歩が自分は女の子だと言っても、肯定も否定もしないあの曖昧な態度がずっと気になっていた。それは歩が男の子だからなのだとはっきり分かったのだ。

 自分が女の子じゃないと分かったとき、歩は泣いた。どうして双子なのに愛ちゃんは女の子で、自分は男の子だったのかと何度も繰り返し言って泣いた。歩がそのことで泣き出すと、私はどうしてやることもできず、ただお母さんやお父さんの影に隠れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る