歩の色

桜本町俊

第1話

 手帳、携帯、ティッシュ、財布、免許証、化粧道具、ライカ、それにパンツ。歩のバッグに入っていたものが、白いテーブルの上に綺麗に並べられていく。婦警さんから中身の確認を促され、歩は自分の所持品を見渡している。

 婦警さんは妙に明るい女だった。ファーストフードの店員のようだなと思っていると、マシュマロのような甘くて軽い声で、歩に名前を確かめた。茶髪の彼女はマニュアルにそう載っているのか、形式ばった顔をして歩と免許証を見比べている。交番の中は、古いエアコンが大きな音を立て、少し埃っぽい。歩は婦警さんの声に気づかず、並んだ自分の所持品を見つめている。私は肘で歩の脇を突いた。

「名前だって」

「あ、立花歩といいます」

歩は交番までの道のりを、肩を落とし、ドナドナの子牛を思わせる足取りで歩いた。交番なんかに届いているはずがないと何度も言う歩を、私は引きずるように連れてきた。そもそも、私もあるはずがないと思っていた。どこに置き忘れたのかも分からないバッグが交番に届けられるわけがない。届けてくれる人がいるとしたら、それは相当に真面目な人か、話し相手に飢えている人だろう。そんな堅物も寂しがり屋も、深夜の住宅街をうろつきはしない。交番まで歩を連れて見に行ってくれと、私に頼んだのはお母さんだった。お母さんは昔から歩の味方だった。小さい頃から、歩が困ったことに遭遇する度、私はレンジャー部隊のように出動させられてきた。まるで保護者のようだった。

 ところが、あった。交番まで来た歩は、自分のバッグが届けられていたのがわかった途端、いつもの笑顔で私を見た。丸くて大きな目を細めて力なく微笑む。私は歩のこの笑顔に弱い。その顔を見ると、ほっとする。ああ、自分の役割が果たせている、と思うのだ。

「全部ありますか?」

婦警さんがポテトフライでも勧めるように言う。歩は自分の所持品に触っていいのかどうか分からず、手を宙に浮かしたままもどかしそうに眺めている。婦警さんは財布の中身も綺麗に並べた。

「全部あるよお」

私の方を向いて歩は言う。いちいち言う歩に、私は頷いてあげる。

「現金は三十八円ですね」

「お金も……、これでいいと思います」

歩は昨晩のことをさっぱり覚えておらず、出された財布の中身を初めて見るような顔で眺めている。婦警さんもそんな落とし主の対応には慣れているのか、笑顔を絶やさず事務的にことを進めていく。必要以上のことを、話しかけられたくないようにも見えた。歩は、机の上で鎮座しているライカを見つめていた。歩の右手が私のTシャツの裾を掴んでいる。私は、固く握られた歩の手を見つめながら婦警さんに尋ねた。

「あの、拾ってくれた方はわかりますか?」

「分かりますよ。住所と電話番号を渡しますので、あとは当人どうしでやりとりしてください」

「お礼はどれくらいするものなのでしょうか?」

「さあどうでしょう?警察はお礼の額までは、確認しませんからね」

婦警さんは拾ってくれた人の住所と電話番号を探し始めた。こういう場合の相場を私は知らなかった。はっきり言って、払わないことが違法なのかどうかも分からなかった。面倒なことになったと思った。拾ってくれた人に電話し、謝礼を包み、頭を下げて来なければならない。どうせ歩は払うお金なんかないから、謝礼を払うのは私だ。そう思うと、急に歩に付き添っている自分が嫌になる。私だって、お金に余裕はない。このままお礼なんかしなくても、この気が効かなさそうな婦警さんなら、拾った人に連絡をする可能性は低い。このまま放っておくか。

「お礼に行かないとダメだね」

私の心の内を見透かしたように歩が言った。歩の長い髪が揺れる。確かに、拾った人はお礼を待っているかもしれない。自分が拾ったバッグの行方を、問い合わせてくるかもしれない。そうしたら、どんな言い逃れをすればよいのか、私は思い浮かばなかった。大体、なんで誰のものか分からないバッグを警察なんかに届けるのか。私は拾った人の気が知れなかった。

「この方に感謝してくださいね」

婦警さんは住所と電話番号を、レシートでも渡しているような手つきで差し出し、またお越しください、と言わんばかりの態度でそう言った。

 結局、謝礼の相場は分からなかった。警察も知らないらしい。それなら、そういう法律はないのかもしれない。必要以上に明るく振る舞う婦警さんは、知っている事以外は聞かれても困るオーラを出しまくっていた。ファーストフード店から抜け出してきたような女では無理か。私は心の中で呟いた。

「どうも、ありがとうございました」

私は深々と頭を下げ、書類に名前や住所を書いている歩にも頭を下げさせた。

「気をつけてくださいね」

婦警さんは、最後まで明るく弾けていた。交番を出ると汗が吹き出てくる。今年の夏は蒸し暑い。

「ねえ、どういうこと?」

歩のバッグが見つかった場所を聞いて、私は耳を疑った。婦警さんによると、歩のバッグは届けてくれた人の家の前の電信柱に、お花と一緒にお供え物になっていて、家の人がわざわざ駅前の交番まで朝一番で届けてくれたらしかった。

「たまたま、親切な人だったから良かったですよ。警察に届けてくる人なんて、ほとんどいないですからね。それに、その人が早起きだったのも幸運でしたよ。人通りが多くなってからでは、どうなっていたかはわかりませんからね」

エアロビダンサーにも負けないような、婦警さんの笑顔を思い出す。

「全然憶えてないの?」

自分の声が尖っていて驚いた。歩は叱られた犬のように、反射神経だけで申し訳なさそうな顔をして見せる。

「えへへ、全然記憶がないんだ」

歩は首を引っ込めながら言った。手には、戻ってきたライカを大事そうに持っている。

 昨夜の歩は酔い潰れていた。何時に帰って来たのか、駅からタクシーだったのか、歩いて来たのかも記憶にないのだ。最後はどの店にいたのかも記憶にはないらしく、誰と一緒にいたのかすらも記憶にない。

 その電信柱は、駅から家へ向かう途中にある、幅が狭いわりには自動車の交通量が多い道路にあった。

「ほら、すごいスピードで車が通るでしょう。その割にここは見通しが悪いから、よく人身事故が起こるのよ」

拾ってくれたおばさんは私たちが訪ねると、まるで練習でもしていたように流暢に喋り始めた。確かに、この家に差し掛かる前まで道路は直線で、ここで急にカーブしている。事故が多いのだろうということは予想がついた。おばさんはどれくらい事故が多い道路なのかを私たちに一通り話すつもりでいる。この手のおばさんは、大抵そうだ。お礼だけ言って早く帰りたかった。気が付いたら太ってしまっていたに違いないあっけらかんとしたおばさんは、着るというよりは被るだけというような、本人よりも一回り大きい綿のワンピースを着ている。ノースリーブから出た、青白くて汗ばんだ二の腕が暑苦しい。額や顎の下からも汗が噴出している。ひっきりなしに汗をタオルで拭う姿を見ていると、苛々してくる。そんなに暑いのなら、早く家の中に戻ればいいのにと心の中で毒付く。私の気持ちなど推し量ることもなく、おばさんは嬉しそうに喋り続ける。そういうロボットのように見えてくる。おばさんの視線は、私と歩の風貌や、言葉遣いや、年齢を探っているようだった。

「ほら、花が供えてあるでしょう。ご遺族の方が持って来るのよ。命日なのか誕生日なのか知らないけど、置いていくのよね。二日もすると変色しちゃって単なる生ゴミよ。住んでいる方は、迷惑なだけなんだけどね。ここはお墓じゃないんだからって思うんだけど、やっぱり捨てられないじゃない」

何がおかしいのか、おばさんの説明にはたまに照れ笑いが挿入される。街角でインタビューをするマスコミの気持ちが、少しわかったような気がした。

 謝礼は一万円にした。私の財布にあったのがそれだけだったのだ。婦警さんに頼んで封筒を一枚もらった。お願いしたら、婦警さんはすんなりとくれた。

一万円を渡すと、おばさんは「いいわよ、いいわよ」と、一応、社交辞令を言いつつも「悪いわね」とあっさり受け取った。

 きっと、歩は酔っ払ってその花の前でお祈りかなんかして、自分も何かしなくてはと思い立ち、自分のバッグをお供え物として置いてきたに違いない。

「記憶がなくなるまで飲むのやめなって言ってるじゃん」

「ごめんね、ごめんね」

私が説教を始めると、歩は取り繕うように謝って、私の顔色を窺う。

「それにさ、そのパンツ私のじゃん。どうして私のパンツが歩のバッグに入ってなきゃいけないのかなあ?」

「だってえ、愛ちゃんのパンツかわいいんだもん」

私は歩の二三歩先を大股で歩きながら小言を続ける。歩は小走りで着いてくる。

「歩だってかわいいパンツいっぱい持ってんじゃん。あんな所でさ、パンツ広げられちゃってさ。かっこ悪くてしょうがないよ」

私は足を止め、歩の方へ振り返った。そうは言ったものの、私は歩がどういう下着を持っているのか知らなかった。

「えへへ」

歩は唇から舌先を出し、いたずらな笑顔で私に媚びる。ピンクのラメ入りの口紅が細かく光っている。ああ、その口紅も私のものだと頭の隅で別の私が気づく。ピンクのシャツにチェックのミニスカート、足にはバーバリーの靴下。歩は女子高生のような格好が似合う。

「犬が靴くわえていくみたいにさ、私の部屋から気に入ったものを持っていくのやめてくれる?」

「えー、愛ちゃんの持ってるものってさあ、みんなかわいいんだもん」

私は前を向き直り、大股で歩き出す。歩は少し遅れて、小走りで着いてくる。

 私と歩は双子だ。でも、全然似ていない。私たちは二卵性双生児で、歩は私の弟だ。染色体XY。それが歩の生物学的な性別だ。染色体の性別とは関係なく、歩は女の子として育った。どうしてそう思うようになったのかはわからないが、歩は小さい頃から自分が女の子なのだとずっと思っていた。親が言いくるめたわけでもなく、男でいることが嫌になるほどのトラウマがある訳でもない、と思う。強いて言えば、歩は生まれた時から隣にずっと私がいて、私を見て育ったということなのかもしれない。小さい子が、正面に座るお母さんの真似をして、左利きになるようなことだったのかもしれない。男としての性を知らないまま、歩は大人になった。そう言うと、随分数奇な人生を送ったのではないかと想像してしまいそうだが、私が見る限り歩にはそんな人生はなかった。拍子抜けするほど、普通だった。私の目に映る歩は、ごく普通の女の子だった。

 私が言うのもなんだが、歩はかわいい。きっと、女の私よりも女っぽい。美人なお母さんに似た目は丸くて大きく、鼻筋も通っている。そして、何より幸運だったのは、みんなからかわいいと言われて生きてこられたことだ。会う人、会う人から容姿を褒められた。宝塚だのアイドルになれるだのと言われた。親はもちろん、親戚も学校の先生も同級生も、歩の個性を受け入れてくれた。歩自身も、他人からの評価にあまりこだわらなかった。男の子だと言われても怒ることはなかったし、変っていると言われても悩んでいる様子はなかった。むしろ、性同一性障害である自分が誇らしいくらいに振舞っていた。歩は誰からも妨げられることなく、女の子としてすくすくと成長していった。

 歩がそんな様子だったので、親は全く歩のことを心配しなかったかというと、そんなことはなかった。それはもう心配した。できるだけ偏見を持たれないように学校に歩の個性を説明し、歩が行くところに神経を配り、苛められることがないように先回りをした。小学生になった頃から事ある毎に、「愛ちゃんだけは歩の気持ちを分かってやらないといけない」「姉弟なのだから歩を守ってやらなければいけない」と親から私は言い聞かされていた。そう言われる度、私は女の子として振舞うことを誰からも否定されたことのない歩の、どの気持ちを分かってやる必要があるのか、一体だれから守るのか、歩の敵は誰なのか、と胸の内で繰り返した。

 家が近づくと、私の怒りは臨界点に達しようとしていた。

「それにさあ、どうしてパンツの替えが必要だったわけ?」

寒いくらい冷房が効いた殺風景な交番の中で、何かの証拠品を取り扱うように、白い手袋をした婦警さんの手が広げたものは、私のパンツだった。ショックだった。いや、そのパンツを一瞥して、一瞬見せた婦警さんの薄ら笑いと汚いものをみるようなしかめ面とが許せなかった。私の勝負パンツを笑われたことに我慢がならなかった。

「スタジオの近くに、岩盤浴っていうのが新しくできてさあ。それに行ってみようかってアッコちゃんといつも言っててさあ。あ、アッコちゃんって、スタジオにいる私と同じスタッフのことなんだけどさ。いつ行くことになってもいいように準備してあったんだ。愛ちゃんも一緒に行く?ねえ、そうしようよ」

歩は岩盤浴の説明をし始めると、バッグを電信柱にお供えしたことも、私のパンツをくすねていたことも、謝礼を私が払ったことも忘れて、その話に熱中した。私はパンツの替えだけを持って、そこに行ける歩が理解できなかった。

「ブラックシリカっていう岩盤を暖めて、その上に横になるだけなんだって。ダイエット効果もあるし、神経痛とか、冷え性とか、不眠症とかにも効くんだって」

指を折りながら効能を言い、おばさんのように嬉々として説明する歩の声は、壊れたおもちゃのように私を苛つかせた。そうやって、永久に喋っていればいいんだと思った。

 歩は写真館に勤めている。フォトグラファーだと本人は言っているが、本当は撮影補助をする、いわゆるアシスタントをやっているだけだと私は踏んでいる。だから給料もそんなに良くなく、自由に洋服を買ったり、飲み歩いたりできるわけじゃない。手取りは派遣社員の私の三分の二もあれば良い方なのではないだろうか。にもかかわらず、結構お金回りが良さそうに見えるのは、二十五歳にもなってお父さんやお母さんに上手に取り入って服やバッグを買ってもらっているからだ。歩は、双子なのにもかかわらず、末っ子という立場を最大限に利用して親に甘える術も身につけていた。

 お父さんとお母さんは、女の子に生んでやれなかったことが、後ろめたいのか、歩のことはかわいがった。特に、小さな写真館を経営しているお父さんは、写真に興味を持つ歩に肩入れしていた。お母さんは、お華とお茶の先生をしていて、お稽古に根気よくつき合う歩が大好きで、着物を喜ぶ歩がかわいくてしょうがないらしい。お華も、お茶も、着物も、できれば避けて通りたい私より、よほど女の子として育てがいがあると思っているに違いない。買い物へ行くときも、お母さんは好んで歩を連れて歩いた。親からの愛情を全て奪っていく歩の隣で、私は愛想のない子供になっていた。

 歩が勤める写真館は、お父さんの写真館より少し大きいくらいの規模らしい。大学を卒業するときに、お父さんの口利きで勤めるようになった。それほど大きな写真館ではないが、印刷会社や広告代理店から定期的にオファーがあるらしく、経営は安定していた。歩のような、写真の勉強をしたいという若者が五人くらい働いているらしい。

 歩の話は、岩盤浴からアッコちゃんの仕事ぶりにまで続いた。スタジオの中の出来事を、同僚に話すように喋り続けている。太陽が狂ったように照りつけている道端を、小さい頃と同じように二人で歩いた。私は気が遠くなるような青い空を見上げ、帽子を持って来なかったことを後悔した。知らない家の庭先で、舌をだらしなく出した犬が長くなっている。歩は夢中になって、アッコちゃんの失敗談を語っている。パンツのことは忘れたらしい。

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