その4
空には雲ひとつない蒼穹が広がっていた。
閑静な住宅街。大きく取られた道路には人の気配はない。
七篠青葉は、大きく深呼吸をして、眼の前に聳えるタワーマンションを見上げていた。
脳裏にはかつて異世界で過ごした日々の光景が怒涛の如く流れていた。
どこまでも広がる古都近辺の平原に、青々と茂る森。クエストで訪れた大きなコウモリが飛び交う地下下水道に、廃棄された刑務所ダンジョン。この日本よりも遥かに危険で、しかし同時に、魅力にあふれていた世界。
帰ってきてからずっと心の奥底に封じ込めていた思い出が堰を切ったように感情を揺さぶる。
緊張しているのか、心臓が激しく鼓動していた。もしも今この道を通りかかった人がいたのならば、心配して声を掛けてきていただろう。
棒立ちになった青葉の双眸からは一筋の涙が流れ落ちる。
七篠青葉が現実世界に戻ってきて、瞬く間に四ヶ月余りが経過していた。
半年間もの間、行方不明だった女子校生の帰還は一瞬メディアを騒がせ、すぐに消えていった。
なくしてしまった制服は買い直し、半年間休んでいた学校への登校を再開した。友達は半年もの間行方不明だった青葉を受け入れ、まるであの半年間が――アビス・コーリングでの日々が泡沫の夢であったかのように日常が戻ってきた。
ここ四ヶ月は激動の日々だった。
青葉は学生だ。半年間の休学を取り戻すのは並大抵の事ではなかったし、受験も近づいていた。事情を聞きたがる友達への対応も大変だった。
ここ四ヶ月の日々はあのアビス・コーリングでの冒険の日々と同じくらい目まぐるしい速度で過ぎていった。
そして、しかし青葉はそんな友達や家族と離れ、今このマンションに来ている。
ポケットからスマホを取り出し、マップアプリを立ち上げ住所を確認する。三日前から何度も何度も暇さえあれば繰り返した行為だった。
まるで祈るように目を閉じる。
ずっと共にいた眷属――アイちゃんを呼び出す力は既に青葉にはない。唯一、あの冒険がただの夢でなかったと証明しているのは――持ち帰れたローブと鞄だけだ。
まるで現実に押し流されるかのように、アビス・コーリングの頃の記憶は少しずつ薄れつつある。
いずれ、全てを夢だと感じてしまうような日が来るのかも知れない。
苦しかった事、悲しかった事、恐ろしかった事、楽しかった事、知り合い共に歩んだ沢山の友人達と、ずっと頼りにしていたアイちゃんやサボちゃん――眷属達の記憶が忘却の彼方へ消え去る日がくるのかもしれない。
そして何より――文句や愚痴をいいながらずっと支えてくれたあの青年の記憶が消え去る日が来ると思うと――それは今の青葉にとって半身が引き裂かれるかのような恐怖だった。
現実に帰ってきて少し落ち着いた頃、青葉は気づいた。
一度は愛し合った青年の事を何一つ知らないことを。
住所。実名。電話番号。メールアドレス。そういった個人情報をブロガーは何も語らなかった。
知っているのはハンドルネームと顔のみで、青葉の方も現実世界に帰ってきてから再会するのに必要な情報を何一つ教えていなかった。
最初は絶望した。何も考えていなかった馬鹿な自分に。
次の一ヶ月は、期待した。
ブロガーは青葉の名前を知っている。青葉の父親は著名な資産家だ。インターネットで検索をかければ青葉までたどり着けるだろう。
身を焦がすような思いで待ち続けたが、結局ブロガーが接触してくることはなかった。
さらに次の一ヶ月は全国各地のニュースや新聞を調べた。青葉がいなくなった現代の神隠しはニュースになった。ブロガーも立場は同じだ。行方不明だった者が帰ってきたのならば同じように話題になるだろう。
そんな思惑で調査を決行したが、青葉は何一つ痕跡を見つけることができなかった。まるでそんな人物いなかったかのように。
手掛かりは何もなかった。
持ち帰ってきた鞄の中に以前ブロガーからお土産として送られてきたカメラのフィルムがあった。
一縷の望みを掛け、苦労して現像したがブロガーの顔は写っていなかった(それどころか、写真の内容に青葉はしばらく生きる気力を失った)。
青葉がブロガーを探すのは初めてではないが、この世界にかつて探索を手伝ってくれた仲間達はいない。
思いつく限りの手段を尽くし、青葉は途方にくれた。
全然迎えに来てくれないブロガーを恨みもしたし、力のない自分に腹を立てたりもした。
もしかしたらあの青年は実在する人物ではないのではないか、とすら思った。
そして最終的に自暴自棄になり、やぶれかぶれでインターネットでその名を検索にかけた。
七篠青葉の数ヶ月の悩みは一瞬で解決した。
覚悟を決め、広々と取られたエントランスに進む。自動ドアをくぐり、インターホンの近くまで行くと、大きく深呼吸をして、ゆっくりとボタンを押した。
269。緊張しているせいか、一秒一秒がやけに長く感じた。やがて、相手が応答する気配がした。
声はない。ただ、身を潜めるような息遣いだけが伝わってくる。
青葉が顔を近づけ、小さな声で話しかけた。
「あの……ブロガーさん、ですか?」
返事はなく、ただ鍵が開く音がした。
§ § §
昔、ソシャゲーに命を賭けた男がいた。
時間を、金を、生活の全てを一つのゲームにつぎ込み、狂ったようにプレイしていた男がいた。
アビス・コーリング。
それが、最強で最凶、最低で最悪。数多ユーザーの人生を狂わせ最終的にはソシャゲー規制の発端となった、僕の人生で最も楽しかったゲームの名前。
アビコルは多数のユーザーを阿鼻叫喚の渦に叩き込んだが、同時に多数のユーザーに長い間愛されていた。
僕はそのつまらない電子データに多額の現金をつぎ込んだが、その過去を微塵も後悔していない。
めてお君は僕がそのゲームの世界に召喚された理由を『最強』だったからだと言った。
その言葉の真偽について僕は判断できる材料を持っていないが、もしもその言葉が本当なのだとしたら――僕がそのゲームに文字通り魂を捧げた数年間は正しかったのだろう。
少なくとも僕にとってアビス・コーリングは現実の世界よりもずっと魅力的な世界で、実際に圧倒的リアリティでそれを体験した後もその意見は変わらなかった。
そして、当然、ログアウトした後もそれは変わらない。
「あぁ……アビコルやりたいなぁ。仕事したくない」
僕はソファの上で、ぬいぐるみのような羊を枕に、ノートパソコンをいじりながら愚痴を言っていた。
無駄な物のほとんどない部屋。カーペットの敷かれた遮るもののないリビングを、黒い円形の掃除機が音もなくスムーズに動いている。
五十インチの大型のテレビ。数年前にはハイエンドだった動画編集用のパソコン。大きな南向きの窓からは柔らかな日差しが差し込み、鉢植えから飛び出た新緑を照らしている。
現実に戻ってきた僕を待っていたのは無味乾燥とした日常だった。
引きこもりだった僕には待っている者はいない。家賃や光熱費の支払いは自動引き落としだし、友人関係も希薄だ。
恐らく、僕が半年間この世界から消えたことを知っている者は皆無だろう。
つまらない。何もかもがつまらなかった。僕に必要なのは大きなテレビでもパソコンでもなく、世話をしてくれるメイド兼弟子やロボット掃除機でもなく、アビス・コーリングだけなのだ。
サービス終了した後にも追い求める程馬鹿ではなかったが、そういう世界が存在すると知ってしまった今ではこうしてぼんやりとした日々を過ごすのは苦痛だった。
もちろん、一般的に見て僕の生活が優雅なのは自覚している。
僕はアビス・コーリングで最も有名なプレイヤーの一人だった。
話が面白かったわけではなく、顔が良かったわけではない。運がいい訳でもないし、アビコルに対する感覚が鋭敏だったわけでもない。ただただ、一番最初にアビコルに嵌ったという理由で有名なプレイヤーだった。
最初はブログで情報を発信した。攻略サイトを作った。次に当時出来たばかりだった動画サイトに投稿を始めた。
それは僕にとってアビコルをより楽しむための手段の一つに過ぎなかった。
それが、アビコルの人気がどんどん上がるにつれて、時代が進むに連れて、いつの間にかお金が入るようになっていた。
広告費で金銭感覚が麻痺する程のお金が入った。僕はこれ幸いとそのほとんどをガチャにつぎ込んだ。
いつの間にかファンができていた。どこぞのプロダクションに誘われる事もあったし、動画から住所を特定されて家に突撃されることもあった。
僕はそれらを全て無視し、ずっと家に引きこもりゲームを続けた。
マンションはその時代の名残である。サービスが終了し、もう活動しなくなった今も僕の手元には毎月けっこうな額が振り込まれてくる。
アビコルでガチャをやるのならば瞬く間に消えてなくなるが、普通に生活するのならば問題のない額だ。
だが、僕が欲しているのは安穏とした日々ではない。
ただただ召喚したかった。
召喚は僕にとって麻薬のようなものだ。
別に今の生活に文句があるわけではないが、上を知ってしまった時点で、僕の中には炎のような焦燥感が絶え間なく疼いていた。
めてお君は自分を呼び出した偉大なる魔導師を殺しただろうか? 十中八九殺してしまっただろう。
手紙にちゃんと殺さないよう書いておけばよかった。再度、僕だけが召喚される可能性は絶望的だ。
生きながら死んでいる気分だ。
他の新しいソシャゲーをやるのも悪くないだろう。
だが、規制により、ソシャゲーのガチャは生ぬるいものになってしまった。昨今のガチャは上限という物が必須になり、値段や確率も大幅に是正された。監視委員会すら設けられた。
まぁそれはそれでいい事なのだが、なぜだろうか。あのどんなクソゲーのガチャをも圧倒的に引き離した超絶闇鍋
歴史上の人物や神々からコラボキャラクターまで、骨の髄までむしゃぶりつくした欲望の坩堝を、少なくない人数の元アビコルプレイヤーが今も懐かしんでいる事だろう。
――あるじぃ、何を退屈そうな顔をしているんだ? ねーねー、そろそろ外に冒険に行かない? 我もう、掃除なんてやりたくないぞ。
不意に、するわけのない声が耳に入ってくる。
僕は目頭を揉みほぐし、画面を改めて見下ろした。SNSにアップした、この国では余り見られない顔立ちの可愛らしい女の子の写真が映っている。
と、その時不意にチャイムがなった。
億劫だったが、僕しかいないので仕方なく立ち上がり、応答する。
無言で向こうの言葉を待つ。耳障りのいい囁くような声がした。
『あの……ブロガーさん、ですか?』
――? あるじぃ、客か?
再び、してはならないはずの声が聞こえる。
自慢じゃないが、僕の住所はネットにバレている。顔を出していた動画から住所を特定して流したくそったれがいるのだ。
最盛期は毎日うるさいほどチャイムがなり、仕方なくインターフォンの電源を切ったこともあった。
最近では歓迎されない来訪者も収まっていたが、また来たのだろうか。
無視するか迷ったが、共用のエントランスで粘着されても他の住人に迷惑だろう。無言でボタンを押し、エントランスの鍵を開ける。
――? あるじぃ、もしかしてシャロか? あるじに客なんてくるわけがないもんなぁ。
うるさい。そんなわけがないだろ。
どうせ古参のファンのいたずらだろう。チェーンをつけたまま扉を少し開き睨みつけてやればそれで済む。それで帰らなかったら警察に電話すると脅せばいい。
小さくため息をつき、玄関に向かう。ドアチェーンをしっかりとかけ、玄関のチャイムが鳴り響くと同時に、鍵を開けて扉を小さく開いた。
不機嫌そうな声を出そうとして――時間が止まった。
そこにいたのは、見覚えのある少女だった。
艶のある黒髪に白い肌。美人というよりは可愛らしい整った容貌。
ただし、その姿は見知ったローブ姿ではなく、ブラウンのコートを着ている。左手には大きなボストンバッグを持っていた。
……ありえない。ロボット掃除機が喋るのと同じくらいありえない。
見間違えるわけがない。
七篠青葉。
四ヶ月前、僕が別れを告げた少女が目の前にいた。
ナナシノは僕の顔を見てぽかんとした表情をしていたが、すぐにその口元が歪み、双眸がじわりと潤む。
僕は何も言わずに扉を閉めた。
「…………変な日だ。するはずのないサイレントの声がしたり、ナナシノに似た誰かが押しかけてきたり、僕の頭もとうとうヤキが回ったか」
「………………へ? ぶ……ぶろがーさん!? なんで、しめるんですかぁ!? あけて、あけてくださあああいッ!」
ばんばんと扉を叩く音がした。
§
やばい。ナナシノが来た。
僕にとってナナシノアオバという少女はなかなか形容し難い。
好き嫌いで言えば間違いなく好きだ。
純粋で正義感が強く、愚かでしかし簡単には絶望しない芯の強さを持っている――ただの女の子。そう、僕とは正反対の人間である。
僕が闇ならば彼女は光だ。僕が自分の事だけを考えゲーム攻略に勤しんでいる間、彼女は周りをウロウロと邪魔をしながらキラキラしていた。
めてお君の言葉が真実ならば、彼女は最強である僕を止めるために呼び出された最強のストッパーである。
闇の者はだいたい光の者に惹かれる。しかし、その反対はほとんどない。
だが、ロードとやらの術式はよほど優秀だったらしくナナシノは僕がナナシノに抱いていた好感と同じくらいには僕に好感を抱いていたと見える。
僕は、扉を開けた瞬間に、ぎゅっと抱きついてきて、そのまま微動だにしないナナシノアオバを見下ろし、ため息をついた。
面倒な事になってしまった。
ログアウトして、僕はしばらくの間、ナナシノが無事帰還出来たのか注意して情報を収拾した。
そして、僕の予想通り帰還を果たせていた事を知り、心の底から安堵した。
神隠しにあった女子校生のニュースは極わずかな期間だが、全国区の新聞に載った。僕の神隠しは新聞の片隅にも出なかったが、それは僕が行方不明である事を誰も届け出なかったからだろう。闇の者と光の者の悲しき差異である。
帰還場所が違ったのは恐らくログインした場所が違ったからだ。
正直、肩の荷が下りた気分だった。
ナナシノを元の世界に帰す事は僕に課された唯一の義務だった。
ナナシノは強い。少なくとも、僕ではナナシノのような行動はできない。
だが、恐らく彼女があの世界にずっといたとすれば――最強でもなんでもない彼女は遠からず死亡していただろう。
だから、帰さなければならなかった。
自己中心的な僕にしてはかなり倫理に沿った行動だ。
二度と邂逅するつもりはなかった。既に貸し借りは最後に共に過ごした一夜でなしになっている。
だが、どういう事か、お荷物が返ってきてしまった。
僕のお腹に顔を当て嗚咽するナナシノの背中をさすってやる。
果たしてアビコルゲーマーでこんな何回も女の子にすがられる人間がいただろうか。
「…………ネカマじゃなかったんだなあ」
「ぐすっ……ぐすっ……ブロガーさん、会いたかったでず……」
現実世界の七篠青葉に会うのは初めてだが、リアル七篠はゲームナナシノと何も変わっていなかった。
声も匂いも柔らかさも重みも無防備さも何一つ変わっていない。もう二度と離すまいと言わんばかりに背中を掴んでいる。
なんと声をかけたものか、迷いに迷い思いついた事を言う。
「ナナシノさ……よくその年まで処女を守れたよね」
ナナシノの耳が真っ赤に染まり、その身体が震える。
「ッ!? ……ッ…………ッ…………うぅッ…………ッ……」
お、堪えた。
ナナシノはゆっくりと頭をあげ、涙でぐちゃぐちゃになった顔で僕を見上げる。
目は充血していたが、その眼差しには一変の曇りもない。心が痛い。
ようやく落ち着いたのか、震えも徐々に収まってくる。僕はその華奢な身体を突き放すと、先に立って中に入った。
「…………まぁ、上がっていきなよ。どうやってここを知ったのか知らないけど、せっかく来たんだ。お茶くらいだすよ」
「…………は、はい。お、お邪魔、します……」
ナナシノが顔を伏せ、小さな声で言った。
====
長くなりましたので分けます。
次話は0時投稿予定です。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます