その2
そこは、小さな格子つきの窓がついた石造りの部屋だった。
狭い部屋に配置された家具は粗末なパイプベッドが一つと、便器のみ。ぼんやりとした蝋燭の火が部屋の中を照らしている。
【帝都フランマ】に存在する重罪人が収容される刑務所の内の一つ。
その独房の一室で、壁の代わりに頑丈な格子を握りしめ、小柄な少女が声を上げていた。
ぎらぎらと深緑の眼が輝いていた。着せられたのはざらざらした荒い目の灰色の囚人服。両手両足にはその細腕にはふさわしくない太い鎖。
しばらくシャワーを浴びていないのか、同色の髪がぼんやりとした日光を反射し奇妙な光沢を発している。
「出せぇぇぇッ! 私はッ! 何もッ! していないッ! ここから、出せッ!! コロすッ……絶対に、コロしてやるッ!」
身体は小さいが、その眼差しはまるで抜き身の剣のように鋭い。出てくる声も獣の咆哮のようなものだ。
細い腕とは裏腹に込められた強い力に、金属の格子ががくがくと揺れる。
入れられた数日。勢いが衰える気配のないその声に、椅子に座っていた牢番の男が辟易したようにため息をついた。
【帝都フランマ】は大都市だ。捕らえられる犯罪者の数も多いが、大抵の罪人は牢に入れられれば大人しくなるものである。
少し賢ければ牢の中で騒ぐ行為が利にならない事などわかるだろう。叫び続ければ体力も消耗するし、交代制で牢を見張る牢番――看守の心象も悪化する。
よしんばその罪が冤罪だったとしても、その主張を聞く看守に罪人を解放する権利などない。
いや、もしもその牢番に罪人を解放する権利を持っていれば――男はとうの昔にその少女を解放していただろう。
野生の魔物もかくやという騒々しさを見せるその女囚人は、たった数日で看守達の間では厄介者になっていた。中にはノイローゼを起こし体調を崩した者もいる。
看守には囚人を大人しくさせる権利と義務がある。ある程度の体罰も認められている。
しばらく待っていたがこれまで同様、全く収まる気配のないその声に、看守の男はうんざりしたように立ち上がった。
耳栓を外し、剣を抜くと、牢の前の地面に叩きつける。
「……うるさいぞッ! ちっとは静かにしろッ! ノルマ・アローデッ!」
「ぐるるッ……コロスッ……コロしてやるッ! やってない……私は、やってないッ!」
眼の前で火花が散るが、ノルマは全く引く気配がない。唸り声を上げ、格子の隙間から腕を出そうとする。
手錠と格子が擦れ不協和音を奏で、牢番が思わず一歩後退る。手錠が邪魔で外に手を出したりはできないとわかっていても、その勢いは警戒に値するものだった。
何よりも、この囚人の身体能力の高さについては捕えられてからすぐに知れ渡っている。
誰が信じようか、この小柄な女が――【帝都フランマ】の剣士ギルドの構成員の追跡を振り切り数十人を撃退した後、ギルドマスターにより捕えられた、などと。
肉付きの薄い手足は華奢で、牢番の自分でも十分組み伏せることができるように見える。だが、そこに宿った力は人外のそれだ。
一体どこにそんな力があるのか、パイプとはいえ、それなりの重量のあるベッドを片手で持ち上げ、固定された便器を無理やり引き剥がす。さすがに格子をねじ切ることまでは出来ないようだが、手錠も足枷も特製のものだ。
その刑務所では囚人は特別な理由がなければ数人単位で牢に入れられる。
だが、その囚人は独房に入れられるまで三つの雑居房を破壊し、同居人になるはずだった他の囚人達を叩きのめしていた。
凶悪犯罪者が収容されるその刑務所では喧嘩など日常茶飯事だったが、それにも限度がある。
このままでは収容された者達が皆倒れてしまうということでなんとか離れた独房に移されたが、一人になっても騒がしさは変わらなかった。
本来、仕事も少なく人気のはずの独房の牢番はここ数日で人気のない役割になっていた。
「……コロスッ! 私は、何も、やってないッ! 盗んでないッ! コロスッ! コロしてやるッ! 逃げても無駄だッ! パン、金、宝石、温泉ッ!」
「……盗みだって? 冗談だろ? おまけに冤罪だ?」
唾を吐き散らかし喚くノルマに、牢番が吐き捨てるように言う。
どこからどう見てもノルマの眼は何人も殺している眼だった。
今のこの様子を見て彼女の冤罪を信じる者はいないだろう。
ノルマ・アローデの罪はこう見えてそこまで重くない。本来ならこの刑務所に収容されるほどの罪状ではないはずで、実際に収容する前には何か理由があるのではないかと看守たちの間で話題になったが、今の様子を見ているとその選択は正しいようにも見える。事情は知らないし知りたくもないが。
暴力で大人しくさせることはできない。
腕力ではとても敵わないし、初日に仲間の一人が鞭で打ちつけてもピンピンしていた。異常に頑丈なのだ。睡眠薬も効きが薄いし、数日食事を与えなくても平然としている。
何より、近づくのは危険だ。多くの凶悪犯罪者を見てきた男にはわかった。
ノルマは自暴自棄になっているように見えてまだ正気だ。大きく見開かれた眼には狡猾そうな光が見え隠れしている。
虎視眈々と脱出する機会を狙っているのだ。
喉元を食い破ろうとしているかのような目つきに、既に三回目の当番で辟易していた男は出口を振り返り、現時点でたった一つわかっている大人しくさせる方法を叫んだ。
「うるさいぞッ! クソっ、おいッ! 誰か、パンを持ってこいッ! こっちが倒れちまう!」
少なくともパンを食べている間だけは静かになる。
ただの看守である男にできることはただ、この厄介な囚人がさっさと別の刑務所に移送されるのを願う事だけだった。
§
なんでこんな事になったのか……。
格子の隙間から投げ込まれたパンをむしゃむしゃしながら、ノルマは恐恐と中を覗いてくる看守を睨み返した。
全ては、ノルマが帝都を訪れブロガーから餞別にもらった装飾品類を売ろうとした事から始まった。
ノルマ・アローデという少女に前科はない。犯罪じみた行為をしたことは何度もあるが、一度も捕まっていないし、指名手配されたこともない。【王都トニトルス】への入都時に一悶着あったが、あれも前科にはなっていないだろうし、たとえ前科になっていたとしても他国での話だ。
装飾品類も犯罪行為により手に入れた物ではない。ブロガーからもらった物だ。
ノルマ側に非はなかった。もしも強いてノルマ側の非を一つ上げるとするのならばそれは――油断した事だろう。
油断した。ブロガーが曲者であり、自分と同類なのは知っていたのに、何も考えずその言葉の通りに帝都を訪れ、何も考えずに入手経路不明の金品を換金しようとしてしまった。
何も持たずに【廃都リヤン】を出てきた頃の、何も信用していなかった頃のノルマだったらそんな迂闊な事はしなかっただろう。
野性を失っていた。それが――ノルマ・アローデの敗因。
食事を与えられ、服を買い与えられ、おまけに少しだがお金まで貰った。別れ際のキスで仕返ししたことによりブロガーへの恨みまで忘れていた。
ノルマは自堕落な人間だ。
これまで過酷な生活をしてきたのはノルマの意志ではない。だから、楽な道があればそちらに走ってしまうし、甘やかされれば際限はない。
換金は失敗し――気づいた時にはわけも分からず、多数の剣士に追われていた。地の利のない広大な帝都を追い立てられるように逃げ回る羽目になっていた。
それでもリヤン人として優れた身体能力を持つノルマだったら大抵の相手を撃退できる。たとえ相手が武装した正規の剣士ギルドメンバーだったとしても、奇襲を駆使すれば翻弄できる。
そこで、また一つ隙を作った。
そう、剣士ギルドのメンバーを撃退した後のドロップに眼がくらんだのだ。
剣はかさばるが、剣士だってそれしか持っていないわけではない。財布だって持ち歩いている。
装飾品類の換金に失敗したノルマにとって、自分を追い立てる大量の剣士達は格好のカモだった。
無力に逃げ惑う振りをしながら一人一人倒していけば、すぐにノルマの財布はいっぱいになった。
そして――ノルマは最悪の想定外に出会ってしまった。
盗品だったのは認めよう。あの悪辣なブロガーはそれくらい平然とやってのける男だ。
剣士ギルドの剣士が追ってくるのもまあいい。帝都では剣士ギルドの権力が強く、治安維持に一役買っているのも知っている。
だが、誰が想像しようか。たかが一匹のこそ泥を捕まえるために――【帝都フランマ】最強の剣士。『赤火』のヨアキム・アンタレスが出張って来るなど、と。
ノルマは決して弱くないが、帝都剣士ギルドの長であるヨアキムは格が違った。
即座に逃走を決めたが、その時には既に身体が痺れ地面に倒れていた。
後に尋問されて知ったのだが、どうやらブロガーが盗んだ装飾品は剣士ギルドの秘蔵品だったらしい。
道理で追ってくるはずである。
両手両足の自由を妨げるよう嵌められた鎖を鳴らし、パンをむしゃむしゃしながらノルマはじっと部屋の中を観察する。
ヨアキムはノルマを拷問にかけようとしたが、そんなことされるまでもなく、ノルマは全てを吐いた。
その上で無実を主張したが、認められることはなかった。
盗品をさばこうとしたのだし、貰ったなどと言っても信じてもらえるわけがない。追手を撃退して財布まで盗ったのも問題だった。だからそれはいい。
面子を重視し、人一人葬ることなど躊躇わないヨアキムが未だノルマを生かしているのは――盗品がノルマの持っていた装飾品だけではなかったからだ。
恐らく、彼にとっては高価なだけの宝石類よりもそちらの方が本命だったのだろう。
ノルマが正直に装飾品の入手経路を白状した時にヨアキムの浮かべた表情は今思い出しても噴飯ものだった。
つまり、ノルマはブロガーに騙されて盗品を掴まされたが、同時にブロガーのおかげでまだ生きているのだ。
ヨアキムが――ブロガーと親しいノルマを害してしまえば、もう二度とその盗品が戻らないと考えているが故に。ノルマとブロガーはそんな関係ではないのだが、ヨアキムがそんな事知っているわけがない。
かくして、身体能力だけは高く普通の部屋では簡単に破ってしまうノルマは、一時的に刑務所に収容されることになった。
完全にブロガーの手の平の上で踊らされている事になるが、これはある意味でチャンスとも呼べた。
剣士ギルドは強大な組織だ。ノルマでは手に負えない。
が、逆に考えればどうだろうか。
――その強大な組織の弱みを握り、上手く脅し金品を得ることができれば、ノルマは一生安泰だ。
もちろん、一筋縄ではいかないだろう。
だが、ノルマには雑草魂がある。無実の罪で牢獄にとらわれても失わない強靭な精神がある。
飢えて行き倒れ、あまつさえあのブロガーに良いようにあしらわれた日々を思い出せば何にでも耐えられる。
パンをむしゃむしゃしながら、かけられた手錠と足枷の調子を確かめる。
確かに特別製だ。確かに強固だ。だが、確信があった。
――今の自分ならば、壊せる。
まだつけたままでいるのは油断させるためだ。看守たちはお腹いっぱい食べたノルマの力を過小評価している。
ノルマはまだ全力を出していない。
問題は脱出経路だけだ。壁は蹴破れるだろうか? 金属格子を壊すのは――流石に無理だろう。
死んだふりをして看守を招き入れるのはどうだろうか?
だが、既に牢番の男はこちらを警戒している。死んだふりなど通じるだろうか? 通じまい。
ここにいるのもいいかもしれない。雨風は防げるし、パンだって食べられる。多少窮屈だが、寝て過ごすのも悪くない。
税金で養ってもらえるのだから、行き倒れるよりずっとマシだ。
ふと生じた自堕落な考えを、ノルマは頭を降って振り払う。
ハードルは多い。情報もない。だが、なんとしてでもここから脱出しなくてはならない。
外に出て美味しいものを食べて温泉に入るのだ。牢にいるよりもずっと快適な、悠々自適な生活が待っているのだ。
「……ブロガー……一体、何を盗んだのよ……」
あの『赤火』が大量の構成員を動員して探すような物だ。よほど大切な物なのだろう。
どこにあるのか。ブロガーは未だ王都にいるのだろうか。
タイムリミットがあった。ノルマはヨアキムの尋問にブロガーが王都にいた事を教えてしまっている。
あの時は隠す義理などないのだから当然だと思っていたが、今思えばまずいことをしてしまった。
あの悪辣極まりない男がそう簡単に捕まるとは思えないが、万が一捕縛されれば後ろ盾のなくなったノルマは終わりだ。
力が足りなかった。ギラギラした眼で突破口を探す。
格子を破るのは無理。壁も恐らく難しい。便器を破壊しても外に出られないのはわかっている。
窓の格子はやぶれるかもしれないが、どう考えてもノルマの身体が入るサイズではない。
ブロガーの連れていたサイレントがいれば鍵を開けられたのにッ!
煮えたぎるような欲望がノルマの体温を上昇させる。パンしか食べていない状態だが、体調は万全だった。
絡め手が無理ならば正面突破だ。
欲しい。力が欲しい。
牢を破りヨアキムを脅し自堕落な生活を送れるだけの力が欲しい。
ノルマの身体に流れるリヤンの血は戦士の血だ。荒れ果てた町に生息する数多くの強大な魔物達の中、極わずかな資源を取り合い脈々と受け継がれていた盗賊の血だ。
プライドなど生き延びるためにとっくの昔に捨てた。強いて言うのならば、生き延びることがノルマのプライドだ。
力が欲しい。何者にも負けない力が欲しい。強者を捻じ伏せ全てを奪い取る力が欲しい。
何もいらない。贅沢は言わない。ノルマ・アローデはただ――楽をして生きたいだけなのだ。
手を持ち上げ、まるで神に祈りを捧げるようにしながら叫ぶ。
「誰か――私に、力をよこせッ!」
万感の思いを込め、完全に他人頼みな言葉を放ったその時――ノルマの眼の前が爆発した。
§
それは、奇跡のような、悪夢のような光景だった。
ノルマを阻んでいた石造りの壁が崩壊していた。牢番だった男が目を見開き、腰を抜かしている。ノルマも恐らくそれと同じような表情をしているだろう。
空に、巨大な灰色の悪魔が浮かんでいた。
太陽を隠し、濃い影を落とすそれは、見るものが見れば世界の終わりのようにも見えるだろう。
巨大な悪魔はまるで無機物のように微動だにしなかったが、その身に秘めた力が空気を通して伝わってくる。
今までノルマが出会ってきた如何なる魔物よりも、強大な気配。
「一応……借りが、ある。私は、無駄にちょこちょこ出てきて、石を消費させる君が……大嫌いだが、ブロガーから、手紙で、頼まれている。ストーリーを、守れ、と。剣を、返せ、と。『ろくでなし』。私が――悪かった」
鬱屈した声と同時に、何かが空から降ってくる。
ノルマの眼の前に突き刺さったそれは――
一振りの剣だった。
これまでノルマが見たことのない奇妙な剣だ。
握る柄にはぜんまいや銃のそれにも似たトリガー、アームなど邪魔になりそうな装飾がつけられている。
白銀色の刃は美しいが、薄くはない。宝石のように無数の断面ができるようにカットされた表面には実用性が見えず、武器というよりは頭のおかしい芸術家の生み出した産物のように見える。
どう使って良いのかわからない品だが、不思議とそれを見た瞬間、ノルマに衝撃が奔った。
理解した。
――これは、自分の武器だ。
――これが、あのブロガーが言っていた――『リヤンの遺物』、だ。
「義理は、果たした。二度と、顔も見たくない。この世界は、『
空中で静止していた悪魔が凄まじい勢いで空に登り消える。看守が唇をわなわなと震わせる。
だが、もはやノルマにとってそんな事はどうでもよかった。力をくれた存在が悪魔だろうが神だろうが、ブロガーだろうがどうだって良かった。
立ち上がり、剣の側に歩みを進める。その柄を握りしめ、思い切り引き抜く。
まるで故郷に帰ってきたかのような安堵感がノルマを包む。
剣身が陽光を吸い込み、強く輝く。凄まじい万能感がノルマの全身を駆け上る。
「みなぎる。力が――みなぎるッ! これがあれば――私は――」
――負けない。
警報が刑務所内に響き渡る。今更正気に戻った看守が、ノルマが武器を手に入れた事に気づいたのだ。
恐らく、数分で警備のための兵が集まってくるだろう。
だが、もう無駄だ。手足の鎖を引きちぎる。
頑丈なはずの鎖がまるで柔らかい白パンのようだった。まるで剣がノルマ自身の身体能力を向上させているかのようだ。
握っていた『リヤンの遺物』の刃が変形する。宝石のようだった刃が薄くばらけ、翼のように広がる。
ノルマの身体がふわりと浮き上がる。唇を歪め、ろくでなしが壮絶な笑みを浮かべた。
もはやその頭には脅して悠々自適な生活を、などという慎ましい願いは残っていない。
「くっくっく、待っていなさい、ヨアキム。私から奪い取った宝石、たっぷり慰謝料込みで返してもらうわッ!」
その日、世界に完全無欠な一人のろくでなしが誕生した。
その後ノルマはそのリヤンの遺物の力を借り、様々な危険なダンジョンやフィールドを踏破する事になる。
時に盗賊のように商人を襲い、時に魔物に襲われた旅人を助け謝礼をふんだくり――旅人の間で、町の外を歩く時は最低一個の白パンを持ち歩く事が常識になるのだが、それはまた別の話。
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