第十一話:不安とちょろしの

 何がなんだかわからなかった。その瞬間の気分を言葉で表すとそうなる。


 最低限の生活用品しかない空っぽの部屋。部屋の隅に積み重なった通信販売のダンボール。

 カーテンのしまった薄暗い部屋。光り輝くディスプレイの中で、僕はアビス・コーリングのサービス終了を知った。


 第四十回目の大型アップデートを翌週に控えた、そんなある日のことだった。


 事前の告知が一切なく、サービスが終了したのだ。


 アビス・コーリングのアプリは立ち上がらなくなり、アビコルはその瞬間でも他の追随を許さない熱狂的な人気を誇っていたから、日本は阿鼻叫喚に包まれた。


 第三十九次アップデートで実装された『昏き神々の宴アンダー・ゴッデス』に対を成すとされた眷属、『煌めく主神の系譜ゴッド・オブ・コスモス』の実装が告知され、アビコルプレイヤーの全員が期待していた大型アップデートは結局、永遠に来ることはなかった。


 詳しいことを僕は知らない。テレビやネットで何度も何度も情報が流れたが、記憶もない。

 僕がようやく正気を取り戻したのは、アビス・コーリングのサービスが終了してから一年程経った後の事だった。


 その間、どういう生活をしていたのかは正直、あまり覚えていない。


 ただ、部屋は正気を失う前と同様に綺麗で、部屋の掃除やらゴミの片付けもされていて、家賃の振込や確定申告を初めとした社会的な生活もちゃんと送っていて、正常に生きていたことだけは理解できた。


 金はあった。本来ガチャに課金するために稼いだその金は生活費として使うだけなら数年余裕で賄える程の額だった。


 アビス・コーリングは僕の人生で、ネットでもアビコル廃人プレイヤーと言ったら僕の名前が出るくらいは有名で、その為に何もかもを捨てたはずだったのだが、サービスが終了した後も僕は涙の一滴も流さなかった。


 自殺も考えなかった。


 サービス終了により、何人もの廃人プレイヤーが自殺したことが社会現象になったが、一番熱中していたはずの僕はその道を選ばなかった。


 気力はなかった。だが、僕は気力がなくても平然と生きられる人間だった。

 大体、アビコルがサービス開始する前だって生きていたのだから、終わった後に生き延びられるのも道理である。


 一日の八割以上を費やしていたアビコル関係の行動――ゲームプレイから、ブログを初めとしたSNS投稿、動画撮影の時間などは全て空白になった。


 その時間で幾つか他のソーシャルゲームを入れて少し遊んで、すぐ飽きてアンインストールした。


 働く気にはなれなかったが、問題なかった。ほとんど知り合いがいないので心配する者もいない。


 僕は何もすることがないまま数年の間をそんな感じで生きて――そして、ある日唐突に『アビス・コーリング』の世界に発生して、


 僕はそれを歓喜と共に、運命だと受け入れたのだ。




§





「ブロガーさん、怖くはないんですか?」


 巫女さんが帰った後。

 しばらく変な空気が漂っていたが、ナナシノがおずおずと尋ねてきた。


 膝の上に乗せたフラーの髪の毛を梳かしながら顔をあげる。


 ナナシノの目は僕よりも余程強い不安で揺れていた。

 シャロも先程から落ち着かない様子でぱたぱたと忙しなく部屋の中を歩き回っている。


「別に。少なくとも死んだ記憶はないけど、ぶっちゃけ割とどっちでもいいしね」


「あるじは本当にどうじないなあ」


 サイレントの感心したような声。


 死んでいようが生きていようが、大切なのは今だ。重要なのは今こうして、アビス・コーリングの世界にいるという事実だけだ。


 もともと、生活の大部分を占めていた要素を抜き取っても生存する上で欠片も障害にならなかった僕はもしかしたら、どこかおかしいのだろう。

 あるいはゲームは所詮ゲームだったということだろうか?


「大体、なんかのイベントの可能性だってあるし」


 プレイヤーに死んでる疑惑をかけるイベント。

 今までなかったタイプのものだが、可能性はゼロではない。イベントじゃなかったとしても、クエストかなにかの可能性もある。


 巫女さんが詳しく調べてくれるらしいのでこちらに出来るのはそれを待つことだけだろう。


 イベントやクエストならばプレイヤーに受領拒否の権利があるはずだし、そうじゃないならば……それはそれで、興味深い。


「私は……少し不安です」


「別にナナシノが死んでるって言われたわけじゃないんだから大丈夫だろ」


「それは……そうですけど」


 ナナシノがそっとその漆黒の瞳を伏せる。

 どうして他人のことでそんな表情をできるのかだけが僕は不思議で仕方がない


 ゲームの世界に入り込むという事実自体がおかしいのだ。今更過ぎる。

 実は、いつサーバーが落ちて世界が滅んでもおかしくないと思ってるよ僕は。だから、いつだってベストを尽くしているのだ。


 そも、不安だからどうなるわけでもない。


 ただの似た世界なのかもしれない。が、もう一度このアビコルっぽい世界をプレイできるのは望外の幸運なのだ。


 フラーを抱き上げ、床に下ろす。


 僕は目を細めて笑みを浮かべ、ナナシノに手招きした。不安を解消してあげよう。


「? なんですか?」


 とっても良い子のナナシノちゃんが不思議そうな顔をして近づいてくる。


 アビコルをもう一度プレイできるだけでも幸運なのに、ナナシノちゃんがついてきてくれたのはさらなる幸運だと言えるだろう。


 たまにうざったい時もあるが、故郷を同じにする者がいるというのはいいものだ。この世界の彩りになっている。


 僕は別にそこまで効率を求めているわけでもない。当然、周回とかは力の限りするけど。


「あるじはいつもろくでもないこと考えているから、ななしぃはすこしは警戒したほうがいいぞ」


「え……そんなことないと、思いますけど……」


 サイレントが余計なことを言う。が、いい感じの忠告をとってもいい子のナナシノちゃんは聞き入れない。とどのつまり彼女は――僕のように周囲全てに疑いを持ったりはしていないのである。


 腕を伸ばし、その目の前の手の平を差し出すと、ナナシノは目を丸くした。


「……? 手が、どうかしたんですか?」


「みろ、ななしぃ。れいせいにみろ。あるじの目は、じゃあくな目だぞ」


「じゃあく……?」


 ナナシノがそっと手の平に触れ、眉を寄せてそれを凝視する。手相でも見ようというのか。


 ななしぃはちょろいなぁ。


 僕は触れてきた手をさっと掴み、何が何だか分かっていないナナシノをこちらに強く引き寄せた。


「あッ!?」


「ししょう!?」


「あーあ、だからいったのに」


 サイレントの呆れたような声。


 バランスを失い、膝の上に倒れ込んで来るナナシノを強く抱きしめる。

 着ているのは残念ながらエロコスではないが、分厚いローブを通してしっかり熱と重みと柔らかさが伝わってくる。


 慌てて立ち上がろうとするが、強く抱きしめ、離さない。噛み噛みでナナシノが抗議してくる。


「にゃ、にゃにしゅるんですかぁ!?」


「いやー、死んでると思われたら困るからさー、生きてるだろ? 心臓の音聞こえる?」


「あ……は、はい。き、きこえ、ます、から……はなしてぇ」


 その艶のある黒髪が頬に擦れ、目の前にある耳元がじんわり朱に染まる。

 ナナシノが切れ切れの声で答える。顎を乗せた肩と、抱きしめた背中が緊張のせいか震えていた。


 振り払うのは諦めたのか、抵抗が止まっている。ななしぃはちょろいなぁ。もうこんなのNPCじゃん。


「いや、ナナシノが生きていることも確かめなくちゃいけないしなー」


「え? ひゃ……や――それ、ダメ――」


「あーあ、ななしぃが食べられちゃう……だから我いったのに……」


 背筋を軽く擦るだけでナナシノがどこか色っぽい声を上げ、身悶えする。その仕草に嫌悪感のようなものはない。


 ちょろしのだった。元の世界でもこんな子が側にいたらもうちょっと楽しかったのに……現実なら相手にされないか。アビコルやるのに忙しかったしなぁ。


 シャロが顔を真っ赤にして、抱き合うナナシノと僕に言う。


「し、ししょう!? 駄目です。青葉ちゃんが、嫌がってます!」


「え? 凄く悦んでるじゃん。ナナシノはエロいなぁ……」


「ッ――」


 ナナシノが背中にまわした手をぱたぱたさせている。が、抗議のようには見えない。

 首筋も頬も完全に真っ赤になっている。照れだろう。


 一度怒った所も見たことがあるが、今の彼女は明らかに雰囲気が違う。


「んー、耳も首も頬も真っ赤だ。血が通ってる、ちゃんと生きてるかな?」


「ッ――」


 声にならない声をあげ、こくこくと必死に頷くナナシノちゃん。どんな表情をしているのか、顔が見えないのが本当に残念でならない。


「そっかー、生きてるか……いや、でも、もしかしたら気の所為の可能性も……拘束を解いた瞬間襲い掛かってくるとか定番だからなぁ」


「な……ひ……ない、です、からぁ!」


 まるでエロいことでもされているかのような声だ。ちょっと抱きしめただけなのにえらい反応である。欲求不満?


 ナナシノの方から抱きついてきた時にはこんな反応なかった。やはりやるのとやられるのとでは違うのだろうか。


 すぐ目の前の首筋があった。照れで仄かに色づいた華奢な首筋は元学生とは思えないくらいに色っぽい。

 生きているかどうか確認するためにそこに口をつけるか迷い、今回はやめておくことにする。


 別に焦る必要はないだろう。読者サービスはまた今度にしておこう。


「んー、生きていそうだな」


「いきて、ます。ちゃんと、生きて、ます」


「生きてる奴は皆そう言うんだよ」


 シャロが目をぐるぐるさせながら僕とナナシノを見ている。混乱しているのか、いっぱいいっぱいなのか。さっさと解放しないと人を呼びそうな目だ。


 そろそろこの辺で離してやってもいいかもしれないが、ふと思いつき、その耳元で言った。


「ねえ、ナナシノ。一個お願いがあるんだけど。そしたら離してあげるよ」


「んあッ!? なん、ですか」


 ナナシノがびくりと震える。もう息も絶え絶えのようだ。強く触れ合ったからだからその早鐘のような鼓動が聞こえてくる。


 僕はその折れそうな身体を更にぎゅっと抱きしめ、誠心誠意お願いした。


「今度また、えろこ――『星天の聖衣』、着て欲しいんだよね」

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